第十九話 もはや私は何ものでもない【本章・了】
「戻る。縛って連れて参れ」
陛下は冷たく言い捨てると、
「なんだよ。舌を食えもしない奴婢の一人くらい……。おい、縄をくれ」
竹尾は不満そうながらも兵士から縄を受けとると、私の両腕をきつく縛り上げました。引き上げるように立たせると、私を前にして歩かせます。
玉座の間を出る間際に、私は一度だけ振り向きました。
かつて氷雨様であった虹色の水は、床の上で光を受けてきらきらと輝いていました。世界で一等愛しい方は遺体を通り過ぎて水になってしまわれたのです。もうこの世界のどこにもいない。今生では逢えない。二度と逢えない……。そう思うと、からだの穴という穴から気力の全てが抜け出ていくようです。
歩いていても、足に感覚がありません。腰から下が
ぐいぐい背中を押されながら、連れて行かれた先は後宮でした。
初めて足を踏み入れる場所です。皇王陛下のための設けられた女の園、ここがどうやら私の墓場になるようです。処刑場としては意外でした。
衛士の立つ門をくぐって宮の中へ入り、迷路のような細い廊下を何度も曲がりました。人が沢山いるのかと思いきや、遠目に数人の女官を見かけたきりです。彼女たちは連れ込まれた私の運命を知っているのか慌てて目を逸らし、そそくさと姿を消しました。女王陛下には必要なきものと暇を出したのか、それとも殺してしまったのか、後宮には最低限の人員しか置いていないようです。
やがて後宮の最深部らしき薄暗い居間へと入りました。
家具は少なく、部屋の壁に沿って背の高い燭台がずらりと並べられ、全てに火が灯されています。正面の引き戸は全て開け放たれ、新緑生い茂る庭が見えました。
陛下は先に到着していました。私を視認すると、満足げに笑みを浮かべました。
竹尾が私をどんと突き飛ばしました。よろけて倒れ伏してしまいます。
陛下は、卓上の盆を顎でしゃくりました。
盆の上には小さな革袋が置いてありました。
「ご苦労であった。もうお前に用はない。そこな金子を持ってどこへなりと
竹尾は残念そうに大きく息を吐き、卓上の革袋を掴むと何も言わずに部屋を出て行きました。
「近う寄れ」
二人きりになると、陛下は有無を言わせぬ声で私を呼びました。
仕方なく中腰で部屋の中央まで進むと、庭の風景がはっきり見えました。
陛下は庭の方に手を伸ばしました。
「見るがよい。ここのかつての主を」
庭には、紫色の花房を湛えた大きな木が立っていました。満開の藤でした。地上から何十何百もの蔓を編みあげて巨木と化した藤が、天に葉を広げて端然と咲き誇っていました。
蔓の一本一本が大人の男の腕ほどの太さ、無数に垂れ下がった花房は一つ一つが丸々と太った赤ん坊ほどもあります。風もないのにゆらりゆらりと揺れています。調子を取るように右に揺れ、左に揺れ、我が世の春とばかりに華やいでいます。あまりの絢爛豪華さに目が眩みます。
美しくも妖しいお化け藤、そうとしか言い表せない奇怪な巨樹でした。
陛下は藤を陶然と見つめました。
「のう、知っておるか。藤という花を。いや、花は知っておろうな。今や都のどこでも見かけると聞く。だがこの花、本性はなかなか恐ろしいものじゃ。するすると蔓を伸ばしてな、他の木に巻きつき幹をひしゃげさせるのよ。自らの葉を高く伸ばし覆いつくし、寄生した木から陽の光を奪う。挙句に大木すら枯らしてしまう。他の草花を淘汰してしまう。それが藤。はらからよ。今こそ
はらから、母上……。ではこれは、この藤は伊邪夜様……。
後宮の陛下のお部屋から見えるという一年中枯れない藤とは、姿を変えた伊邪夜様のことだったのです。
陛下の声は、急に優しくなりました。
「琉斌の始祖は、水の精霊である水龍。では神葛の王族は何であるか。……藤じゃ。藤の精霊じゃ。だが我らは琉斌とは決定的に違うところがある。神葛の系譜は子孫でありながら始祖。始祖とは即ち人間が崇め奉る神霊。その証拠に神葛の女王は、鶯舌で人心を操ることができた。『聖来の蔓』とは女王の声のこと」
陛下は、私をじっと見つめました。憎しみと哀切が入り混じったような複雑な視線でした。
「十七年前、神葛は琉斌に滅ぼされた。女王以外の係累は皆殺しとなり、幼年は舌を切られて放逐された。母上だけは犬畜生に懸想されこの後宮に閉じ込められた……。辱めを受けながらも母上は耐えた。理由はただ一つ。身篭っておられたからだ。神葛の子は十月十日では生まれぬ。生まれるまで概ね三年の歳月を要する。三年後、守りきった種子を生み落とした後で母上はこの庭で自害なされた。その血が染み入ったところに藤が生えた。本来の在るべき姿に戻られたのじゃ」
王族の幼年は舌を切られた。子を生むには三年かかる……。
一方的に言われるばかりの私は、混乱するばかりです。
まさか、私の舌がない理由もそこに……?
では、では、私は本来神葛の王族だった?
神葛が滅びた際に舌を切られ、それでも死なずに奴婢に落とされたのでしょうか。
「母上が生んだ種子、それが此方。琉斌の王となって君臨すべきところを廃嫡され、成人後に結婚を決められた。とんでもないことじゃな。降嫁も
始末。……ということは、やはり翠嵐様も先王陛下も陛下に弑されていたのです。
いいえ、翠嵐様は藤と化した伊邪夜様の蔓に縊り殺された。
幼き日に必死に命乞いをして助かったのに、結局伊邪夜様から死を賜ったということになります。
犯した罪を誇らしげに告白すると、陛下は袖を口に当ててくつくつと笑いました。
「……呆けた顔をしおって。なぜそんなことがわかると言いたげじゃな。それは母上が始祖であり、此方であり、此方は其方であるからだ。母上、此方、其方、我らは全て同じものじゃ。先程ようやく理解した。其方は我ら
陛下は卓上の水差しを手に取ると、私にバシャンと勢いよく水を浴びせました。
水をかけるのは、殴る蹴るよりも上の侮辱です。
びしょぬれになった私は身震いしました。着物に水が染みて気持ち悪くて仕方ありません。
しかし、おかげで頭が冷え冷静になってきました。
理解しがたいことですが、陛下は伊邪夜様とご自分と私が同一の存在だと仰る。
伊邪夜様は陛下であり、私は陛下であり、陛下は私なのだと。
一本の樹、二つのからだに二つの意識、それらが同じものだと。
「最初の邂逅を覚えておるか。翠の宮で眠り歌を歌った時、不思議と其方にだけは効かなかった。その時は耳が遠いのかと気にせんだがな。しかし、夢の同調、竹尾に調べさせた腹の子が膨れもせず十月十日経っても産まれぬと聞いて疑惑は深まった。紫乃、其方は此方。それも神々を滅ぼす人間の毒に当たるもの、絶対悪じゃ。かつて母上は絶対悪を滅ぼして完全体となった。此方も其方を滅ぼさぬ限り夢と心を侵食され続ける。ならば到底生かしてはおけぬ。何より許せぬのは、その
怒りと憎しみで燃える双眸に濡れぼそった自分が映っていました。
激昂する陛下とは真逆に、私の心は水が氷結するように冷えてゆきます。
どんどんと冷たくなる。明かされる真実に、心が酷薄になってゆくのを感じます。
私は神葛の王族の生まれ……。女王・伊邪夜様の係累。
世が世なら、陛下と同じ皇女だったのかもしれない。
陛下。艶夜様……。
艶夜……様?
なぜ? どうして?
どうして、様をつけるのか。敬語を使い、この女を敬わねばならないのか。
もう彼女に阿る必要もなければ、遜る必要もないのに。
そうだ、そんな必要はない。
私が心から敬うべき人たちは皆死んだのだから。全員が死を賜った。
もうこの世のどこにもいないのだから。
私は、今こそ、物怖じせず艶夜を睨みつけた。
艶夜もはっしと受け止め、目を逸らさなかった。
到底許せなかった。絶対に絶対に許せなかった。
私がこの世で愛したのは氷雨様ただ一人。
彼への愛だけはまごうことなき真実だった。
氷雨様は奴婢だった私を人間らしく扱ってくれた。いっときでも情けをかけて愛してくれた。だからこそ、私は愛の証を望んで子を身篭った。
その氷雨様を奪ったのは……他ならぬお前だ。貴様ではないか。
貴様こそが、私からこの世に生きる意味を奪った。
故郷よりも生来の身分よりも神葛の血よりも、私はあの方の方が大事だった。あの方の傍にいられれば、それで良かったのに。
この視線だけで呪えるならば、射殺せるならばどんなにいいことか。
私は憎む。艶夜を憎む。何があっても、この者だけは許せそうにない。
『私』であっても、許せない。
艶夜は私から目を逸らさぬまま、懐から短剣を取り出した。
短剣には見覚えがあった。かつて女王・伊邪夜が庭で自害した時と同じものだった。艶夜に受け継がれていたのだ。
艶夜は鞘から刃を抜き放った。
「
振り上げられたやいばが光を弾く。
飛び退さろうとするのを許さず肩を掴まれる。白魚のような美しい手の整えられた小さな爪が皮膚に食い込む。落ちてくる。避けられない。
……ドスッと肉を突き破る鈍い音がした。
気がついた時には、頭上に短剣が生えていた。否、額に短剣を突き立てられていた。
数秒遅れて、びりりと割れるような痛みが走った。
実際、私の額は短剣で割られていた。だらりだらりと生温かいものが溢れて滴り、鼻すじを伝っていく。
艶夜は尚も頭部に刃をのめり込ませる。
短剣を握った拳がぶるぶる震えている。
自分の手で人を殺すのは初めてなのかもしれない。
これは……殺人なのか。自分で自分を殺めるならば、罪にはならないのか。これも一種の自殺なのだろうか。
「ふ、ふはははははっ! これが其方か。これが! 他愛もない。実に脆い」
艶やかな哄笑が巻き起こる。目の前が白く茫洋とする。どさりと肉が崩れる音がした。私が、紫乃という女で在れた最後の音だった。
……。
…………。
………………。
なんだ、どうしたのか。
何も見えない。何も聞こえない。何の匂いもしない。
感覚の全てが失われた。なのに、意識がある。
私は……そうだ、死んだはずだ。
艶夜に殺された。もう一人の己に殺された。頭にやいばを突き立てられ、脳を破壊されて死んだ。
死んだからには黄泉路を辿るのか。地下にあるという冥府、根の国へ行くのか。
私は、私を形成していたあらゆるものを捨て去って、根の国の住人になるのか。命尽きた先で完全に停止し途絶えるのか。
それともまた人間として生まれるのか。
死とは一体なんだ。終わりなのか、始まりなのか。入り口なのか、出口なのか。
ひたすらに続く道を歩く。道、そんなものは見えないが歩く。
足などないのに、足の感覚もないのに私は歩いている。前に進んでいる。
どうしてそう思うのか。わからない。好奇心なのかもしれない。
愚直な好奇心が私を先へ先へと歩ませる。
人間として生きているうちは奴隷商人の奴婢部屋で育ち、市場で買われてからは東のお屋敷と王宮の往復だった。それ以外の世界を知らなかった。
氷雨様や八尋様が語って聞かせてくれた、四方八方砂礫でできた荒涼の大地も、雲を突き抜けた天空の山脈も、塩辛く果てのない青い海とやらも、太古の精霊が住まう
世界の広さを漠然と想像しつつ、限りある狭い世界で人生を終えた。
現世に自由はなかった。それが運命だと思っていた。人としての生は縛られて当然なのだと。
肉体を捨てた私は、今何となっているのか。霊魂か。この意識もいずれ消滅するのか。全てを忘れさって再び生まれかわるのか。
(いいや、違う。お前は根の国には行けない。世界の始まりより転生の理とも外れている)
どこからか、声が聞こえてきた。外から、内から揺さぶるように響いてくる。
誰だ。誰なのか。私に呼びかけて諭すのは誰なのか。何なのか。
(お前は未来永劫そのままだ。何度散っても枯れても、
ああ、この声は……この声もまた『私』だ。
私が、私に呼びかけてくる。
何度繰り返しても絶滅しえない私が、幾多の私が、ぽつねんと取り残された私に理解を促し、同化をはかっている。
……どこだ。真実の私はどこにいる。どこで私を待っている。
心が逸る。ああ、よかった。まだ心があった。
急くほどに足が早くなる。走る。跳ぶ。浮遊する。
闇の中に白い点が見えた。さらに飛ぶ。
一気に加速する。風よりも速く、光よりも速く飛ぶ。
白い点は、どんどん大きくなっていく。
どこからかオギャアオギャア……と赤子の泣く声が聞こえてくる。
なんだ、これは。
誰の声だ。私か。私なのか。
どこまで行っても、私は私から逃れられないのか。
――かくして、私は生まれた。
パチリと目を開けて、容赦のない絶壁の世界を見た。
目の前に見知らぬ男の顔があった。
麻の衣服の上に、厚手の皮の鎧を身につけている。
縛った髪は乱れ、陽に灼けた精悍な顔は血と
青い空が見えた。野外だった。
男は必死の形相で、私の口に何か柔らかいものを詰め込んでいる。
辺りは血の匂いが充満している。血は私の内からも迫り上がってくる。
そこで気がついた。痛い。口の中にとてつもなく激しい痛みがあった。
私は痛みに身を捩り、大粒の涙をこぼしながら泣いていた。
だが口に詰め込まれたもので声が出ない。
いや、もう既に何も発せないようにされてしまった。
聞こえてきた赤子の鳴き声は、舌を掴まれた私の最後の絶叫だったのだ。
この世の何も知らないうちに、言葉一つ覚えないうちに、私は声を失ってしまった。
辺りには、槍や刀を持った死体が幾つも転がっていた。
私を抱く男が
周囲の家屋からは炎と煙が上がっている。近くから遠くから、悲鳴と怒号が聞こえてくる。鉄と鉄がぶつかり合う金属音も。肉が絶たれ、命が潰れる音も。
男が背後を振り返って怒鳴った。
「もっと綿はないのか。布でも良い。なんでもくれ。血が止まらん。おのれ、鬼畜生どもめ……」
怪我をしたのか腕を押さえた兵士が駆け寄ってくる。
「
「
「王女様はお一人で王宮に向かわれたそうです。陛下をお助けせねばならぬと」
「なんだと」
「早く! 騎兵隊が来ます」
「くそっ。
未藤、男は私に向かってそう呼びかけた。
……そうか。それが私の本当の名だったのか。
つけられて、すぐに失われてしまった悲しい人の名前。知りたくなかった。知れば愛着を覚えてしまうから。
男は私を抱えて走り出した。
村のあちこちから、火の手が上がっている。斬り捨てられた男や女の死体が路上に散らばり、幼い子供が取り縋ってわあわあ泣いている。歩兵が歓声をあげながら家から女を引き摺り出している。畑を踏み荒らし、作物を強奪する。裸同然で逃げ惑う人々。耳をつんざく悲鳴、嗚咽、慟哭。怒号。咆哮。
後ろからドドドと地響きの音が聞こえた。
青い旗を掲げ、馬に乗った騎兵隊が村に突入してくるのが見えた。
再び蹂躙の嵐が押し寄せる。馬上で弦がしなって、弓が放たれる。
逃げ惑う人々が次々倒れてゆく。更なる地獄の幕開けだった。
私をしっかりと抱いたまま、男は何度も振り返った。腰から抜いた剣で矢をはじき返した。
「これまでか……」
そう嘆きつつも、足を止めない。
私を抱いたままで、力の続く限り逃げるつもりでいる。
何がそんなにも彼の心を駆り立てるのか。鼓舞するのか。私を放り出しさえすれば、余程身軽になるのに。
「死ぬな、死ぬな。お前を死なせはせぬ」
男は身を屈め、矢をかいくぐって走り続ける。
私は逞しい胸に抱かれたまま、口の中の唾液と血が染みた綿を噛みしめた。噛みながら、ぽろぽろと涙をこぼした。
目の前に迫りくる滅びが悲しかった。絶望しながらも、それでも足掻き続ける人の
私は確信した。男の正体を悟った。悲しみながらも喜んだ。
私には……かつて命を賭して守ってくれる人がいた。生まれたばかりの私を愛し、慈しんでくれる人がいたのだ。
咥内の痛みから徐々に意識が遠のいていく。悲鳴も小さくなっていく。
ドクンドクンと男の荒ぶる心ノ臓の音が聞こえる。
私をこの世に作りだした父の、生ける鼓動が伝わってくる。
瞼が重い。闇が……降りてくる。外界の苦しみを閉ざした安寧の闇が、そこに。
……次に目覚めた時、私は東のお屋敷にいた。
大分時が飛んだが、これは確か記憶にある。
氷雨様に買われてお屋敷に来た最初の冬だ。
確か真冬の底冷えのする日で、外はちらちらと雪が舞っていた。
こんな寒い日なのにわざわざ縁側に出て、空からとめどなく降り注ぐ氷の結晶を見つめている人がいた。
金色の波打つ髪に薄群青の儚げな瞳。雪に負けず劣らず白い肌をした異国の麗人。氷雨様の生母、恩人の杏奴様。
私は外気に晒されたおからだが心配でたまらず、お傍に熱した炭を入れた火鉢を運んだ。お風邪を引いて欲しくなかった。子供心にもとても大切な人だった。
「ありがとう」
音を立てずに火鉢を置くと、杏奴様は振り返って薄らと笑んだ。
「お前はよく気のつく子ね。何も言わずとも人の意を汲んで動くことができる。一種の才能よ」
そう言って、杏奴様は私の頭を撫でた。
このお屋敷に来て、私は初めて人に褒められた。
それまでは奴婢部屋の怒声と罵声と嗚咽と怨嗟の声しか知らなかったから、この世にこんな優しい言葉があるなんて思いもしなかった。
存外、世界は美しい言葉が溢れていると知ると、無性に声に出したくなった。自分にはできないと知るたびに打ちのめされた。何回も何十回も何百回も絶望して泣いた。
「紫乃、哀れな子……。口のきけないお前は他人事とは思えない。私もこの国へ連れてこられた当初は、全く言葉がわからなかったから。商品なので殴られはしなかったけど、毎日怒られて脅されながら言葉を覚えたの。
杏奴様は悲しいことを思い出したのか、長い睫毛を伏せた。
私は、杏奴様の横顔にぼうっと見惚れてしまった。舞い落ちる白雪に沈む
「王宮は地獄だったわ。毎日正室様方にいじめられて、死ぬことばかり考えていた。けれどお腹に子がいると知ったら不思議と力が涌いてきた。誰に何を言われずとも決意したの。死ぬ前に、この子を殺してはならないって。動機は愛ではなかった。忠義でもなかった。ただ生き物としての使命があった。生まれてくるからには、必ずこの世に送り出さねばならないという動物じみた本能よ。氷雨は本能の
杏奴様は私の手を握った。氷のように冷えきった手だった。
細く優美な手を慌てて両手で掴む。私の体温でよいのなら、お傍にいていくらでも温めたいと思った。それしかできないのだから。
どんなに願っても、私は折角覚えた「優しい言葉」を一言も言えないのだから。
「紫乃、氷雨にも使用人たちにも、お前が口をきけぬことは他言しないよう厳命しておきます。お前も努力して、過度の従順と無口を装いなさい。口がきけぬということは、何が起きても助けが呼べない。抗議もできぬ身。ましてやお前は奴婢。からだの不自由が知られれば、卑しい心根の者たちに狙われ
私は杏奴様の瞳を見つめ大きく頷いた。
何があっても、この方の厚意を無駄にはすまいと固く誓った。
私は私が愛する人だけを愛そう、もし神様が許してくださるならその愛を形にしてこの身に宿そうと思った。それしか幸福になるすべは考えられなかった。決意で自分を縛った。その通りに身を持ち崩さなかった。
そうだ……私は私の願望を叶えたのだ。
愛する人を見いだし、その人と結ばれた……。
随分苦しい思いもしたけれど、身が悦びにはちきれる幸せな夜もあった。
嫉妬に身を焦しつつも独占し、愛欲に溺れて貪り喰らった。
その果てに……。
……ドクン。
何かが私の中で震えた。脈動した。しきりに命を、存在を主張した。
心ノ臓の音ではなかった。
……ドクン、ドクン、ドクン。
わかる。否応なく認識する。
私ならざるものが、私の中にいる。
またもや私か。……違う。これは私ではない。
絶対に私ではない、新たな生き物。本能の賜物。
その名を知っている。雨音。雨降る音。自然の声。
脈々と受け継がれる水龍の子孫、最も純正なる水。
花が花を生むのではない。花が水を生む。それがわかる。
その未来を、私は命を賭して叶えなくてはならない。何があっても生む。他の何を憎んでもいい。壊してもいい。殺してもいい。ああ、なんだって構うものか。そのために私は生まれてきた。そのために私は死ぬ。死ぬ前に生きる。生きるために殺す。そうだ、殺す。殺さねばならない。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。滅ぼす。殲滅する。何度でも言う。何百回でも決意する。統一する。貫徹する。生きるために殺す。私は、正統なる私こそを殺してなり変わる!
カッと目を見開いた。
私は生きていた。後宮の艶夜の居間に転がっていた。
額を割られても私は死ななかった。わかっている。頭部を破損したくらいで死ねるはずがないのだ。自らが吹き出した血だまりに打ち伏し、髪も顔もべっとりと濡れている。だが、傷は恐るべき再生力で塞がり、意識ははっきりしている。頭を持ち上げた。歌が聞こえてきた。
わたしの手は枝となり
わたしの足は根となり
わたしの目は鳥となり
わたしの耳は祈りをきく……
歌を聞いた瞬間、血が沸騰した。火山のマグマのように熱く燃え滾った。殺意ばかりが増幅していく。濁流となり、理性を押し流す。そんなものはいらない。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺すしかない。
艶夜は私を始末して安心したのか、椅子に座って歌を歌っている。
許せない。その存在自体を許さない。お前は、もういらない。茎も蔓も葉もいらない。全て私とする。私が私と成って、私を成就する。
呪言の歌が鳴り響く。声なき歌を歌う。
殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。歌え、歌え、歌え、歌え、歌え、歌え。笑え、歌え、舌を切れ。笑え、歌え、四肢を断て。笑え、歌え、頭を落とせ。笑え、歌え、根を絶やせ。笑え、歌え、笑いながら殺せ!
縛られたままの手に力を込める。ブチブチと縄が切れる音がする。綱と共に皮膚も切れる。血が噴き出す。構いやしない。すぐに塞がる。再生する。そういう生き物だ。化け物だ。端から私は人間ではない。否、人間ではなくなった。奴婢の紫乃は死んだ。かよわく従順な私は、愛に生きて愛に殉じた。それでいい。もう、人間らしい私は微塵も必要ない。
ゆらりと身を起こした。狙うはただ一人、正統なる私。
邪道なる私は、正統の私を弑す。滅ぼす。
この世に私は二人といらない。二人では在れないのだから。目が合った瞬間に殺し合うしかない。
「其方、まさか……」
気づいた艶夜が立ち上がった。美しい顔が驚愕に歪む。
「どうして……確かに息絶えたはず」
縄が落ちる。私の手は血を垂らしつつも自由になった。
立ち上がりざま、腹のあたりを探った。
着物の一番下、肌と下着の間に固い感触があった。
口を開いた。あるべき肉片を欠いた醜い口を開いた。
「あ、あ、あああああああああああああああああああ――っ!」
叫んだ。初めて力の限り叫んだ。初めて自分の声を聞いた。
ひどいしゃがれ声だった。鶯舌など天と地ほどに程遠い。歌なんて聞けたものじゃない。音程も音階もわからない。
だが、間違いなく、私が今ここに生きている証だった。
雲水を取り出し、鞘から抜きはらった。何も迷わない。殺意しかない。憎悪しかない。目の前の命を何が何でも絶命させるしかない。
私は飛びかかった。その華奢なからだを掴んだ。引き倒して、床に叩きつけた。馬乗りになった。
「なぜ……生きていら、れ」
艶夜に最後まで言葉を言わせなかった。
その前に振り上げた雲水を艶夜の胸に突き立てた。
ドスッ。ぐにゅりと肉の弾力が伝わってきた。
力を込めてぐりぐりと押すと、肉が抉れる感触が伝わってきた。
刀を引き抜き、また振り下ろした。
ドスッ。今度は腹だった。
もうなんでも良かった。柔らかな肉を刺せればよかった。
ドスッ、ドスッ、ドスッ。
引き抜くたびにやいばから血が垂れ、艶夜のからだと美しい顔に赤い飛沫がかかる。
「あうっ、ひあ、う、ああっ……はうっ、ひっ……」
ドスッ、ドスッ、ドスッ。
刺すたびにか細い悲鳴が上がる。悲鳴すらも美しい声だった。嬌声にも聞こえた。いやらしい声だ。男を惑わす声だ。淫乱の声だ。あの人を惑わした声だ。そう思った瞬間、嫉妬が爆発した。尚更許せなくなった。
ドスッ、ドスッ、ドスッ。胸を、腹を何十回と刺した。腕を刺した。足を刺した。四肢の腱を断った。美しいからだは、肉と内臓が切り裂かれぐずぐずになっていく。
艶夜は茫然としながら、自分に刺さり続ける短剣を見た。頭を振った。ぶるりと震えた。
「はっ、はは……あはははははははっはは!」
少し震えて、それから狂ったように笑い出した。信じられないのだろう。
自分が醜い肉塊に変えられていく現実を。目覚めれば霧散する悪夢のように思っているのだろう。
しかし、喉から迫り上がってきた血に笑いは中断された。
喉を手で押さえ、ゴフゴフと何度も血を吐いた。美しい唇が赤い糸を何本も引いた。その間も私は刺した。手が止まらなかった。抹殺の本能が止まらなかった。
血を吐き出しきると、艶夜は私を見上げ、にたりと残虐な笑みを浮かべた。彼女は笑っていた。のしかかった私が笑っているからだろう。どちらも同じだ。私は私だ。私を絶対悪と呼ぶのなら、私は私を殺して絶対善となる。神を殺す。私こそが偽りの神になる。お前ではなく。貴様ではなく。
この機を逃してはならない。こやつはまだ成熟していない。不完全だ。だから私を長らく感知できなかった。二人の己に、不安定な心を抱えて徐々に狂っていった。そうだ、貴様は狂っていた。神としては、とうの昔に心が歪んでいた。愚かな矜持、馬鹿げた慈悲ゆえに私を二度も助けた。
一度目は命を、二度目は命の次に大切な貞操を。艶夜には、神にあるべき完全無欠の統一された意思がなかった。人間を中途半端に刈りながらも、悪の権化であろうとしながらも、貴様の方が余程人間らしかった。
「……そうか。そう、か。殺せ、殺せ、殺せ……! どうせ踏み躙られたからだ、其方に狂わされた心じゃ……。何もかもが狂うた。殺せ、はよう殺せ……」
艶夜は途切れ途切れに哀願しながら、さらに咽せて血を吐いた。びくびくと弛緩し、からだは動かなくなった。
「陛下、大きな声が聞こえ……。ひ、ひいいいい!」
入り口の方を見れば、様子を見に来たらしき女官がひっくり返って腰を抜かしていた。
私は迷わず立ち上がり、哀れな女の元へ歩み寄った。
何の躊躇いもなく、女の喉に刃をぴたりと押し当てた。余計な知性が状況を理解する前に、力を込めて首を掻き切った。女官はその場にどうっと崩れた。私は人間の血しぶきを浴びた。これは何もわからぬまま逝った。それでいい。
「あ、あうあ……痛い……痛い痛い。どうして……なぜ、此方は……」
後ろを振り返れば、一度絶命したはずの艶夜が血の海でもぞもぞと蠢いている。
その瞳から、苦痛の涙を溢れさせていた。彼女はまだ理解できないでいる。自分のからだのことを。私が私であるゆえに、簡単には死ねない肉体を。
私は手足の健を切られ、身を起こすことも叶わない艶夜を憐れんだ。心の底から憐れんだ。
艶夜……この世で一等哀れな私。
国一番の高貴な身分、その美貌、その鶯舌、富と権力。
生まれながらに幸福になれる全ての要素を備えていたのに、望めばどんな愛だってあの方だって手に入れられたのに、狂って狂わされて己の本懐を見失ってしまった。
かつて、何も持たない私はお前を羨んだ。嫉妬した。無意識に憎悪した。声が欲しかった。とにかく声が欲しかった。声を持って、あの方に直に愛を告げたかった。愛の歌を詠んで奉げたかった。鶯舌で歌い、人々を感動させ、賞賛の嵐に揉まれたかった。
失ってしまった舌が欲しかった。人から奪ってでも舌が欲しかった。私の喉を潤し、声が戻るのなら何を犠牲にしてもよかった。
毎日、杏奴様が教えてくれた優しいことばを発し、小鳥のように歌って暮らしたかったのに……。
「もう、よい。神葛よ、永遠に栄えあれ。神葛よ、永遠に……栄えあれ! 此方は、もう、どこにもいけぬ。……あなたは還る、還ってくる……あなたは咲き、わたしは包む……たとえ散っても、雨降る花弁を拾い集め……」
艶夜は苦痛に悶えながら、最後の力を振り絞って歌い始めた。
こんな修羅場においても、肉クズと成り果てても、天から授けられた鶯舌はどこまでも高く澄みきっていた。
再び嫉妬の炎が燃え上った。
わかっている。私は神殺しの方法を知っている。
他ならぬ私のことだ。無知蒙昧な絶対悪や、目の前の幼年体とは違う。
私は夢のうちに見た。『私』が地上から離され、燃やされる様を。
私は艶夜の記憶を見た。『私』が『私』の首にやいばを突き立てて死ぬ様を。神葛の急所は声帯であることを。
だが、艶夜。最後の慈悲を与えよう。その声を、お前の鶯舌だけは奪うまい。最後まで歌って泣き喚け。私の怒りを、悲しみを知れ。
私は壁際で燃え続ける燭台を手に取った。
その火を血だまりに溺れる艶夜に向かって投げた。幾本も幾本も、皿に溜まっていた油ごと投げた。
切り刻んだからだに、まだ再生が追いつかない哀れなからだに火がついた。
「あなたは還る、還ってくる……あなたは咲き、わたしは……ひぎゃあああああああああ!」
歌は即座に絶叫になった。あっという間にからだ全体に燃え広がり、叫びながらのたうち回る。
毛の絨毯にも火が移った。床にも柱にも火が走り、広がっていく。全てを燃やしつくしてしまえばいい。根も絶たれて、ただの炭がらになればいい。どうせ還るところは同じだ。
艶夜が燃える。私が燃える。最後の神性が滅びていく。
新たに夢が生まれた。熱に肌が溶け、肉が爛れ、骨をぶつぶつと断つごとに、艶夜の持っていた記憶が
虹水を持たないがために、先王に出自を疑われたこと。
その疑惑を確かめようにも母親の伊邪夜は死んでおり、処断もされず後宮で飼い殺しになったこと。
廃嫡された後、七歳頃から美しさの片鱗を見せ始めると、伊邪夜の面影を追う翠嵐に犯され続けたこと。抵抗や拒絶を見せれば、暴力を振るわれ屈伏させられたこと。
その傷も一晩とたたずに完治してしまい、周囲に気づかれることはなかった。やがては先王までもが娘を越えた愛着を見せ……夜毎に琉斌の男たちに踏み躙られ続けた。それでも歌って媚び、笑って媚び続けた。それ以外に生き延びるすべがなかった。琉斌で最も尊い女人ながら、艶夜の実態は王宮のきらびやかな奴隷でしかなかった。
そして、圧搾され続けた心は残虐となって外に解放され……人を殺し、殺し、殺し……殺し続けた。中途半端な悪に堕ち、神の道を外れた。
「ひああああああうううう……!」
私は歌う。絶叫しながら、燃え続ける艶夜の前で歌う。
聞け。聞け。聞け。
声にならぬ悲しみを聞け。
誰があの方に死を賜った?
お前か。お前だ。お前じゃないか。
貴様だ。貴様が殺した。憎い貴様。絶対に許せない貴様こそが。
貴様はなんだ。種か。種から芽吹いたのか。
蔓を伸ばし、葉を生やしたのか。
蕾をつけたのか。咲いたのか。歌ったのか。笑ったのか。
徹頭徹尾、歌って殺したのか。その類まれなる鶯舌で。
私はなんだ。私も芽吹いたのか。私も咲いたのか。
あの方の情けを得んとして、生きるために水を吸ったのか。
吸わねば枯れてしまうと、必死に、懸命に、浅ましく実を結んだのか。
……誰だ。私は誰だ。私は何であるのか。私は何ものなのか。
貴様か、私か。私こそが下手人だったのか。
そうだ、貴様を滅ぼして知った。
貴様でなく、私だった。私は貴様だった。
私が……殺した!
艱難辛苦の世に生きる意味を、唯一の拠りどころを。
からだと命であった、あの方を!
私こそがあの方を突き離し、散々に苦しめ、蹂躙した。
私こそがあの方を真実愛し、慰めて、命の水を吸った。盗んだ。奪った。
二人で一人。一人で二人。
徹頭徹尾、声になる鶯舌と、声にならない執心で歌って笑って殺した。
だが、そのことはいい。
私は勝った。理性は決して本能に勝てない。艶夜は滅び、私は残ったのだ。
部屋が燃えている。空も燃えている。もうすぐ庭の分霊の藤にも燃え移るだろう。紫の花房に火がつき、藤は全て繋がって火を吹き、真っ赤に燃えあがる。燃え尽きて、地上にぼとぼとと落ちてゆく。
遠くから人々の叫ぶ声が聞こえてくる。
愛する人も、最後の血族も失って、私は一人となり完全となる。
残るのは、わが腹に寄生する不思議な生き物。私ならざる生命体。
虹水を吸った我が子は藤なのか、水なのか。何と成って生まれるのか。
ただ、これだけはわかる。
我、此方、私、わたし、ワタシ……。
今こそ、私は全ての
王族ではなく、奴婢でもない。神ではなく、人でもない。
藤の因子を持ちながら、身中に水を抱く。
もはや私は何ものでもない。
【本章・了】
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