第十八話 別れのとき




 蟄居を命ぜられて二十日ばかり、いよいよ王宮から呼び出しが来ました。

「謀反の擬あり。皇王陛下の前で申し開きをせよ」とのお達しでしたが、処刑の宣告であることは明らかでした。

 翌朝、粥と漬物だけの簡単な朝餉を終えた後、氷雨様は私の前に小さな包みを置きました。

「紫乃、お前はまだ逃げられる。兵士にこの金子を掴ませれば見逃してくれるだろう。陛下が欲しているのは私の命。従僕の奴婢一人に追手を差し向けることはあるまい」

 私は氷雨様の目を見て、静かに首を横に振りました。お気持ちは嬉しいのですが、もうどこへも行く気はありません。

 氷雨様は大きく息をつきました。

「……紫乃、もう今更隠しても仕方あるまい。七年前、どうしてお前を市で買ったのか。憐れみからではない。私が臆病だったからだ。臆病ゆえに、琉斌の王族の血を捨てきれなかったからだ。人は表では貴人にへりくだおもねるが影では悪口を言い、時には馬鹿にする。私は自らの劣等ゆえに人の口を畏れた。だが、お前だけは私を決して否定できぬ。だからこそ安心した。己の優越のために、お前を傍に置いたのだ」

 そうだとしても構いません。憐憫や同情ですらなかったとしても、あなた様が私を牛馬扱いしなかったことは真実ですから。

 心では何を思っていてもいいのです。表に出さなかったことが、人が人に対する優しさであり、思いやりでした。私はそういうあなた様だからこそ愛したのです。杏奴様もあなた様も身分のことでは随分辛い思いをされましたが、何よりも人として真っ当でした。

「本当にお前のことを思うなら、八尋殿に売り飛ばしてでも鶏磐に行かせるべきだった。かの国には奴婢はおらぬ。厳しい山国だがお前は自由の身となり、新たな人生を踏みだせたはずだ。それを知りつつ私はお前を手放さなかった……。弱かったからだ。哀れなお前を見下すことで、哀れな己を慰めたかったからだ」

 ……いいのです。もういいのです。氷雨様が鶏磐へ行くというのなら喜んでお供したことでしょう。そうでないなら、やはりここに留まったはずです。

 私はこのお屋敷に来たその日から、あなた様に惹かれていました。その優しい瞳に、孤独な魂に吸い寄せられました。離れたくないと思ったのです。

「……それでも私と共に来るか。楽に死ねるとは限らぬぞ」

 私は覚悟を決めて頷きました。迷いはありません。微塵もありません。

「では往くか。賎しくも水龍の末裔なれば醜態は晒すまい。だが、ただでは死なぬ。最期の意地を見せてくれる」

 そう言うと、氷雨様は短剣の「水上」をふところに忍ばせました。

 薄群青の瞳に、今まで見たことのない強固な意志が宿っていました。

 私も雨音のためにいただいた「雲水」を持ちました。自害用です。氷雨様を見送ったら、すぐにこれで後を追うつもりでした。

 手さえ自由になれば、死も己の意思で成し遂げられます。人間もどきのせめてもの矜持です。



 着替えて外に出れば、迎えに来た兵士たちが門の前に居並んでいました。

 護送用の車が用意されていましたが、氷雨様は車にも馬にも乗るのを拒否されました。現世を束の間惜しむために、徒歩で王宮へ向かうと仰います。私も従い、後ろから兵士たちがぞろぞろとついてきます。

 氷雨様は顔を上げて、堂々とお歩きになりました。当然です。何一つとして咎はないのですから。

 都の通りはかつての往来が途絶え、閑散としていました。

 この一年で水の都は人が激減し、すっかり荒れ果ててしまいました。

 それでも貴人の行列に、ぱらぱらと通りに人が出てきました。

 氷雨様を見て皆両手を合わせて拝みます。王宮までは常に片道。生きて戻れないことがわかっているのでした。

「氷雨様じゃ。先王様の弟殿下の……」

「おいたわしい……。王族最後の男子であられるのに。もう王家は終わりだ」

 口々に嘆き、涙を拭う者もいます。

 氷雨様が私に振り向いて、軽く手招きしました。早足でお傍に行きますと、私の耳に顔を近づけて囁きました。

「隣を歩け。最初で最後ゆえ許す」

 一瞬、耳を疑いました。

 私はこれまで必ず氷雨様の後ろを歩いてきました。従僕として、それ以外の立ち位置はあり得ませんでした。お隣を歩くなどは、本来は継室にしか許されないことでしょうに……。

 ですが、この期に及んで冗談とも思えません。私は言われた通りに、氷雨様の横に並びました。並んで歩調を揃えて歩きました。粗末な身なりですが、髪に櫛一本すら差していませんが顔を上げて堂々と歩きました。これ以上の名誉はありませんでした。

 道を進むほどに、どの家にも藤が爛漫に咲き誇っていました。

 漫然と蔓延はびこって、屋根にも塀にも薄紫のもやを溢れさせています。

 都全体が藤に覆われたかと錯覚するほどに、他の草花は淘汰されてしまったのです。美しくも妖しい景色が目の前に開けていました。


 時間をかけて王宮に辿りつくと、氷雨様は腰に佩いていた長剣を奪われました。私たちは待ち構えていた衛士に奥宮へと連れていかれました。

 玉座の間に入ると、私たちは罪人よろしく陛下の前に引き出されました。

 背後には、槍を持った近衛兵が隙間なく立ち並びます。前には舌切り処刑人の斬児が立っていました。

 陛下は檀上の玉座に座り、私たちを胡乱気に眺められました。

 黒曜の瞳は、冷たく冴えわたっています。

「氷雨か、残念じゃ。とうとう従兄弟の其方までもが此方を裏切り謀反を企むとはな」

 氷雨様はきっと玉座を見据え、毅然と言い放たれました。

「どうして私が陛下を裏切りましょう。王家の末席に生まれたからには、私の忠誠は琉斌のみに奉げております。謀反など考えたこともございません」

「ほう……そうか。これでもか」

 陛下は椅子の肘を二度叩きました。

 すると銀色の盆を奉げ持った下官が三人入ってきました。盆には蓋が被せられています。下官は盆を氷雨様の前に置きました。

「開けよ」

 陛下の命令と共に蓋が持ち上げられました。中にあったのは三つの生首でした。見知った顔でした。かつて氷雨様が八尋様への手紙を託した従者たちでした。彼らは屋敷を出た後で陛下に捕らえられ、殺されていたのです。

「この者たちは其方の従者。携えていた手紙も読んだぞ。其方、鶏磐の王太子と通じ亡命を申請しおったな。これは琉斌に対するれっきとした裏切りじゃ」

 王太子。八尋様は鶏磐の有力部族のご子息なのでは……?

 あの方が王太子だったとは……。

 氷雨様は首を見ても一切動じず、平静を保ったままです。

「よくお調べになりましたね。かの国は秘匿達者で内部の事は滅多に漏れてこないのですが。琉斌で知っているのは私だけかと思っておりました。王太子様に手紙を送ったのは事実です。ですが陛下は誤解されております。亡命などは申請しておりません。一度、遊びに行きたいとお願いしたまでです」

「屁理屈を」

 陛下は気色ばみ、氷雨様を睨みつけられます。

「屁理屈ではありません。わかっております。陛下は私を殺せるならば理由はなんでも良いのでしょう。友人に出した手紙を、謀反に仕立てるくらいには切羽詰まっておられる」

「黙れ」

「いいえ、黙りません。とどのつまり、陛下は私が怖いのです。琉斌の血が怖いから、根絶やしにせんがために死を賜ろうとなさる」

「ぬかせ。なぜ此方が其方を畏れねばならぬ。琉斌の血を畏れねばならぬ」

「それは、事実が真実を表すまでです。皆知っていながら、口に出せずにいることです」

「……なに」

「陛下は生まれてこの方、一度として己の血を証明されたことがありません。あなた様は先王陛下の御子でありながら、虹水をお持ちでない。先王陛下も薄々気づかれていたはずです。だからこそあなた様を立太子なさらなかった。だが謀られたとわかっても、あまりの魅力に殺すことも手放すこともできなかった。かくいう私も、あなた様にはたまらなく惹かれました。恋い焦がれました。神代の水龍はつくづく神葛の女を好んだようですね。もはや本能といっていいほどに」

 氷雨様は一気呵成に言い放ちました。「神葛の女」と言われた瞬間、陛下の顔は青ざめました。

「よくもそのような世迷言を……。許さぬ」

「元より許す気などないでしょう。ですが、私はあなた様が神葛の仕込んだ簒奪者であっても良かったのです。国を思い、善政を敷くならば、琉斌の血が混じってなくとも良かった。私は琉斌の血に縋りつつも、この世で最もこれを憎んでおりましたから。しかし、王位を手にしたあなた様がしたことはいたずらに民の命を刈り取っただけ。旧体制を壊すでもなく、新たな創造もなく、かといって滅ぼされた神葛の復讐でもなく。私同様にあなた様も中途半端なのです。善ではないが悪にもなりきれない。生き様に一徹な意思が感じられない。臣下には許されても、国を統べる王としては失望を禁じ得ません」

「氷雨……」

「私は……陛下を憐れみます。死を賜る前にただ同類を憐れむのみです」

 陛下は何か言いたげに口を動かしました。が、言葉にはしませんでした。

 黒曜の瞳にふっと寂し気な色が浮かび、これ以上は無駄とばかりに一度手を振りました。

「もうよい。斬児、このうるさい口を刈れ」

「アアアアアア!」

 途端、傍に控えていた斬児が咆哮しました。

 異様に刃が短い鎌を振り上げ、氷雨様に突進します。舌を切る専用の鎌です。陛下は氷雨様の舌をも切りとって食されるおつもりなのです。

 氷雨様は兵士二人に、両腕を取られました。

 私は慌てて駆け寄ろうとしました。何もできないとわかっていながらも、勝手にからだが動いたのです。

 けれど、傍に行くことは叶いませんでした。

 待っていたように、背後から腕をねじり上げられてその場に押し倒されました。顎が固い床にぶつかりました。

「へへ、久しぶりだなあ。紫乃」

 聞き覚えのある声に振り向けば、私を取り押さえたのはなんと竹尾でした。

 完全に左目を失ったのか眼帯をしています。私に目を潰され出奔したと思っていたのに、陛下の側に組みしていたのです。

 私は迷わず竹尾の腕に噛みつきました。

 竹尾は舌打ちすると容赦なく殴りつけてきました。目の前にパッと火花が散りました。鼻血が吹き出して、床にぽたぽた滴りました。

 竹尾は私を押さえつけ、全体重をかけました。

 背骨がボキボキと鳴り、鈍い痛みが脳天まで駆け抜けました。

「ああっ! あがっ」

 氷雨様の叫びに顔を上げると、口を大きく開かされ、斬児の無骨な左手に舌を掴まれていました。間髪入れず、鋭い鎌が口の中に突っ込まれました。

 氷雨様の目が大きく見開かれました。

 ザシュッと嫌な音がしました。口からどうっと滝のように鮮血が溢れました。

 斬児の左手には薄桃色の肉片が握られていました。氷雨様の舌でした。

「キアアアアア!」

 斬児は血の滴る肉片を掲げ、誇らしげに艶夜様に見せつけました。

 氷雨様は大きくよろめきました。

 口からゴボゴボと血を吐き、胸元が赤黒く染まっていきます。

 氷雨様は血を滴らせながら、口をもごもごと動かしました。

 顔はみるみる血の気が引いていきます。

 長くないと思ったのか、兵士たちは氷雨様から手を離しました。

 よろよろと二、三歩前に出て、からだはぐらつきました。

 そのまま倒れる……はずでした。

 しかし、氷雨様は倒れませんでした。

 落ち窪んだ目がギラリと光ったかと思うと、唇が弓なりに反りました。

 私にははっきりと見えました。氷雨様はニイッと不敵に笑ったのです。

 懐から恐るべき速さで、水上を取りだしました。短剣は既に鞘から抜かれていました。

 周囲の一瞬の油断を、この時を待っていたのです。

 どこにそんな力が残っていたのか、そのまま玉座に向かって突進しました。そして背を向けていた斬児の背中に、水上を力いっぱい突き立てました。

「ギィアアアアアア!」

 斬児は雄叫びをあげました。が、急所の心臓を貫かれてはひとたまりもありません。その場にバタンと倒れ伏しました。

「ああ、畜生!」

 後ろの竹尾が叫びました。

 氷雨様は即座に斬児の背中から水上を引き抜き、玉座へ駆け上がろうとしました。最初から、陛下と刺し違えるつもりだったのです。

 しかし段を上がりかけたところで、シュッと風を切る音がしました。

 兵士が投げた太い槍が……槍が真っ直ぐ飛んで氷雨様の胸を貫きました。

 さらに駆け寄った兵士たちが何度も何度も氷雨様を槍で刺しました。

 あああああっ……! 

 私は押さえつけられたまま、声なき声で絶叫しました。

 めった刺しにして完全に動かなくなると、兵士たちはさっと退きました。

 床に突っ伏した氷雨様のお顔は見えませんでした。

 絶命したのを見てとったか、陛下は玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りてきました。

「ふん、斬児も逝ったか。不甲斐ない」

 斬児の左手の近くに、切りとった舌が落ちていました。

 陛下は床に落ちた肉片、氷雨様の舌を小さなくつでぐりぐりと踏み躙りました。

「琉斌の男の舌などいらぬわ。不味すぎて食す価値もない」

 あまりの侮辱に私は身を震わせました。怒りが沸々とこみ上げてきました。

 ……殺した。あなた様が氷雨様を殺した。無残な死を賜った……!

 許さない、許さない……。絶対に、許さない。

 不意に、遺骸の方からパンと何かが弾けるような音がしました。

 みるみるうちに、氷雨さまのからだが崩れてゆきます。

 頭が、胴体が、手足が溶けてゆきます。代わりに虹色の水が染み出してきました。どういうわけか、氷雨様は日を置かずして水になってしまいました。

 あとには着ていた着物と、血に濡れた水上だけが残りました。

 それは愛する人の、完全な死を意味していました。

 陛下は不思議そうに人のからだであった水を見つめました。

「はて面妖な。こんなに早く崩れるとはな。犬の子でさえ七日持ったものを。もしや水を盗られたか。……まあよい。確かめたいことがある。竹尾、この者の口を開けよ」

「へえ」

 竹尾は私の髪を掴むとぐいと引っ張り上げました。顎を掴むと無理矢理口をこじ開けたのです。

 陛下は顔を近づけ、私の咥内をご覧になりました。

「はは、やはりそうか。根元から切りとられておる。ははっ、あははははっ! ようやく合点がいったぞ。女のからだは難儀なものじゃ。確信するまで時がかかった」

 陛下は腹を抱えるようにして大笑いされました。

 辱しめと痛みから、思わず涙がこぼれそうになりました。

 そうです、私には元から舌がありません。

 舌がないために生まれてこのかた声が出せず、話すことができません。

 勿論、歌うことだって……。

 それを知りながら、氷雨様は欠陥品の私を傍に置いてくださったのに。

 追随するように、竹尾も下卑た笑いを浮かべました。

「陛下。氷雨様が死んだ以上、この女はもう用無しでしょう? だったら俺にくだせえや。これはこれで使い道がある」

 口を開けたまま腰の辺りをまさぐられます。

 あまりの悍ましさに背筋を冷たいものが走り抜けました。

 嫌です。嫌です。嫌だ! 早く、早く死にたい。

 こんな男に好きにされる前に氷雨様の後を追いたい……。

 噛み千切る舌はなくても、手さえ自由になれば自決が叶うのに!

「いや、ならぬ。こやつは此方が直々に死を下す。絶対悪め」

 絶対悪、陛下は憎しみと侮蔑を込めて私をそう呼びました。

 氷雨様の死を悼む暇もなく、更なる絶望が襲ってこようとしていました。


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