第十六話 穢されて捨てられて



 翌日、私は氷雨様に従って王宮に参りました。

 陛下が直々にお呼びとのことですが、毎日虫けらのように人が殺されているところです。膨れ上がる暗雲のように、不安ばかりがこみ上げてきます。

 呼ばれる理由については、思い当たる節があります。例の夢です。

 何の因果かわかりませんが、伊邪夜様といい今上陛下といい、私は両名と繋がりがあるのやもしれません。こちらがお二人の過去を知ることができるなら、あちらも私のことを関知できるのやも……。何せ伊邪夜様は神葛の女王、神威をお持ちでしたし、今上陛下はその御子なのですから。でも、何がわかったとしても伝えるすべはないのですが。

 しかも昨日の今日です。竹尾に殴られて腫れあがった顔で御前に出ることは大変恥ずかったのですが、不思議なことに腫れはすぐにひいてしまいました。じくじくと熱を伴う痛みもありません。朝、桶に張った水面で確認しましたが、目の回りの痣も消えたようです。確か、竹尾には何度も執拗に殴られたのですが……。

 とはいっても鏡を持っていませんし、氷雨様も特に何も仰いませんので見苦しい顔ではないのでしょう。


 車に乗り、朝五つ(午前七時頃)には王宮に着きました。

 陛下は夜じゅう宴を繰り広げ、明け方にお休みになられたとのことでした。

 今ではすっかり昼夜逆転の生活をなさっていて、早くとも昼過ぎにならないとお目覚めにならないそうです。氷雨様は奥宮へ詰められ、私は控えの間で待機しました。

 ようやくお目通りが叶ったのは、日も傾いた夕刻の頃です。

 氷雨様が呼びにきて、私を陛下が住まわれている奥宮の更なる奥へ連れていきました。

 長い廊下を幾つも渡り、錦の鯉がゆらゆら泳ぐ大きな池を二つ、三つ越えました。広大な王宮でもこんな奥に入るのは初めてで、緊張でからだが震えます。氷雨様の表情もずっと硬いままです。

 ホウホウと鳥の鳴き声が聞こえました。鳥部屋らしき前を通ると、中は大小様々な鳥かごが吊り下げられ、何百という鴬がしきりに囀っていました。

 途中からは黄土色の朝服を着た侍従が現れて私たちを導きました。


 陛下のおわすところと通されたのは、格子窓から幾筋も西日が差し込む薄暗い広間でした。

 部屋に入ると、侍従は私たちを置いて逃げるように退出しました。

 広間の四隅で香が炊かれています。紫色の妖しげな煙が立ちのぼり、部屋に充満していました。うっかり吸うと頭がくらくらしました。

 膜の向こうに、多勢の人の気配がしました。

 部屋のあちこちに着物がはだけた裸同然の男女が寝転がり、二、三人で折り重なってもつれています。重なる吐息、湿った肉のぶつかる音。彼らはくすくすと忍び笑いを洩らし、品定めするような視線を向けてきました。

 よくよく見れば、もつれあう者たちは性的に倒錯しているようでした。

 無精ひげを生やしたいかつい女や、筋骨隆々ながら胸に膨らみのある男がいました。女装した男や少年、もしくは男装した女であるようです。

 どちらともつかない中性的な容姿の子供もいます。ざんばらに髪を切られて大人に組み敷かれ、はくはくと喉を鳴らし、涙を流して呻いています。薄物に身を包んだ女がけたたましい笑い声をあげます。

 鼻をつく酒の匂い、床に転がる食べ散らかした料理の皿。酒を浴び見せつけるように腰を振る女。背後から責めたてる男。部屋はむせ返るような退廃の香りに満ちていました。淫靡な煙に狂わされたのか、はたまた命令で狂態を演じているのか……目を覆いたくなるほどのおぞましい光景が広がっていました。

 広間の一番奥に、陛下が傲然と座しておられました。

 綿を詰めた柔らかな寝椅子にゆったり寝そべり、真鍮の煙管きせるを咥えておられます。両脇に双子の美少女が侍って酌をし、男の奴婢が投げ出された白いおみ足を揉んでいます。

 ふうっと気だるげに息を吐くと、四隅の香と同じく紫色の煙が上がりました。

 起きたばかりなのかお着物は乱れており、化粧もされていないようです。

 しかし、天稟の美貌は酒にも妖しい煙にも毒されず、薄暗い部屋の中で宝玉のごとく輝いていました。周囲はともかく、陛下自身が卑猥な行為に耽ったご様子はありません。

 心苦しくも退廃を見慣れてしまったのか、氷雨様も至極冷静です。

 黒曜の瞳が私を捉えました。

「来たか。ちこう寄れ」

 氷雨様と私は、広間の中央まで進んで平伏しました。

「面を上げよ」

 許しに顔をあげますと、陛下は私を穴が開くほど見つめ、血のように赤い唇を軽く歪めました。

「なるほど。此方の夢をていたのはこれか。迷い込んだのか、それとも……?」

 そう言われた瞬間、心ノ臓が跳ねました。

 それでは、やはり……陛下もお気づきだったのです。

 私と陛下が夢の世界で繋がっており、一時はからだをも共有していたことを。

 一つのからだに二つの意識。互いに互いの見たものを覚えている。

 だとしたら、櫛を振り上げて竹尾の眼に刺し、私を救ってくださったのは陛下だったのでしょうか。

 何も知らない氷雨様が、煙にゴホゴホと咽せながら尋ねました。

「陛下、仰せの通りに連れて参りました。我が奴婢に何用でございましょうか」

「簡単なことじゃ。氷雨、この者を此方にくれ」

「……は?」

 氷雨様は驚きの声をあげられました。

 陛下は氷雨様に私を譲渡せよと命じられたのです。

「聞こえなんだか。紫乃を此方に献ぜよと申しておる」

 畳みかけるように、陛下は強く命じられました。

 私は氷雨様の背を見つめました。氷雨様が一言「諾」と言えば、私は陛下のものになります。

 元々主人の意向で売買される身ですから、私の意思など一切関係ありません。それに陛下の命令は絶対です。逆らえるはずがありません。

「ですが、この者は……。到底陛下にお仕えすること叶わぬ不肖の身。差し上げてもご不興を買うことは必定ひつじょうです。そもそも、これの何がお気に召されたのでしょうか」

「其方には関係ない」

「恐れ入りますが、他の者で代替えさせていただきとう存じます。すぐにご用意いたしますゆえ」

「ならぬ。これがよい」

「されど……」

 尚も渋る氷雨様に、陛下は苛々として煙管を従僕に叩きつけました。熱い灰がこぼれ落ち、浴びた従僕が悲鳴をあげます。

「わかった。対価じゃな。紫乃を献ずるなら其方に侍従長、従五位下じゅごいのげの位を与えよう。奴婢一人に破格のあたいじゃ。不足はあるまい」

「従五位下……」

 氷雨様の声は微かに震えました。

 私を献ずることを迷っておられるようです。

 何せ差し出せば念願の官位が手に入るのです。無位無官の日々から脱することができるのです。氷雨様の地位はひとまず安定し、他の方々からも侮られなくなります。

 氷雨様は下を向き、しばし沈黙しました。陛下の真意を測りかねているご様子です。自分の忠義を試されているのか、それとも遊ばれているのかと。

 私は自分が氷雨様の心で天秤てんびんの皿にかけられているのを感じました。

 本来なら、位という重すぎる分銅ふんどうに叶うはずはありません。

 ですが、陛下の元へ行けば私は一日と持たず殺されるでしょう。

 迷いの末、氷雨様はきっと顔を上げ、きっぱりと言われました。

「大変申し訳ありませんが、陛下といえども紫乃を差し上げるわけには参りません。どうかご容赦を」

「なぜじゃ」

「……」

「なぜかと問うておる。婢ごときに執着する理由を述べよ。戯言は好かぬが、これを愛しているとでも?」

「……まさか」

 氷雨様は苦し気に息を吐きました。

 私は底知れない闇にすうっと吸い込まれていくような心地がしました。

 次いで涌いてきた悲しみが、じわじわと波紋のように広がってゆきます。

 わかっていました。氷雨様が大事に想われ愛しまれているのはお腹の子。

 雨音です。決して私ではないのです。いくら主を愛しても、私が愛されることはないのです……。

 陛下は尚も意地悪く問いかけます。

「ならば此方にくれても良いではないか。位と引き換えにするのだ。たこうついた買い物ならば早々に舌を切ったりはせぬ」

「それでも承服いたしかねます。これは……その、私の子を身篭っておりますゆえ。子まで手放すわけには参りません」

「ほう……」

 陛下の目がすっと細まり、残虐な光を湛えました。

「懐妊しておるとな。腹の子は本当に其方の子か? 奴婢であるぞ。日々犯されつくし、下人にも粟一杯で身を任せように」

 違う、と私は心の中で叫びました。

 膝の上で握りしめた拳が怒りで震えました。お腹の子は、間違いなく氷雨様の子です。この方と決めたのに、誰が、誰が他の男にからだを許しましょうか。私は潔白です。貞潔です。氷雨様を想う心は本物です。

 私を信じてくださっているのか、氷雨様も挑発には乗りませんでした。

「私の子かどうかは生まれてみればわかります。虹水が滴れば私の子。そうでなければ謀った罪で母子共々手打ちにするまで。陛下、我々は水龍の子孫なのです。いつでもその血が証となります」

 虹水と言った瞬間、陛下の柳眉が逆立ちました。

 カシャンと音がして、煙管が投げ捨てられました。足を揉んでいた奴婢が手を離し後ずさりました。

「あくまで庇うか。血は争えぬものじゃ。奴婢の子は、やはり卑しい女を好むとみえる。失望したぞ、氷雨。其方が貴人の妻を迎えぬのもそういうわけだったか」

「陛下、それは違います」

 氷雨様はそこで一歩前に進み出ました。

「奴婢は奴婢でしかありません。私にも然るべきところから正室を娶る気持ちはございます。現に想う方はおりますゆえ」

「誰じゃ。豪族の娘か。女官か。なんでも言うてみよ。其方が想うおなごを与えようぞ」

 陛下は私の方をちらりと見ました。

 眼差しだけで、お怒りがひしひし伝わってきました。

 奴婢の分際で王族の子を身篭った私を、腹立たしく思っていらっしゃるに違いありません。

 献上を断られ、今度は腹いせに氷雨様に正室を与えようとなさっています。

 私を、どうすることもできない身分のやいばで切り刻もうとなさるのです。

 氷雨様は、意を決したように言われました。

「では恐れながら。私が想う方は……目の前におわす陛下にございます。お披露目の日から、私は陛下こそをただ一人と決め、いただきたいと思って生きて参りました。今でもその気持ちに変わりはございません」

「……此方を?」

「はい」

「まことか」

「まことでございます。身の程知らずと知りながらも、どうしても諦めきれませんでした。どうか今後は私こそをお傍に置いて、国政を顧みていただきたく。ご乱行を慎んで、女王の品格をお取り戻しくださいますよう」

 陛下は目を見開きました。

 そして天井を仰ぐと、狂ったように笑い始めたのです。

「く、くく……ははっ。あははははははっ! そうか。そうか。わかったぞ。其方の想いはわかった。しかと受け止めた。良いぞ。散々使い古された身じゃ。今更どうなっても構うものか!」

 陛下は一際高く叫ぶと、私を射殺すように睨みつけました。

「紫乃、其方はそこで見ているがいい。大事な主人が意中の女と婚姻する様をな。せいぜい言祝ことほげ。祝福せよ。皆の者、宴じゃ」

 宴という言葉に、女たちが歓声をあげました。

「さあ、お前たち。まずは我が夫と遊んでやれ。いかにも真面目で誠実な夫殿じゃ。奴婢しか知らぬからだでは此方は満足できぬ」

 陛下が命じると、部屋の隅でもつれていた男女がむくりと身を起こしました。

 犯していた子供を打ち捨て、わらわらと氷雨様に寄っていきます。

 両腕を掴み、背後から腰に縋りついてきます。

 常軌を逸した事態でした。

 違います。こんなものが王族の婚姻であるはずがありません。陛下は何を考えてこんなことを……!

 押さえつけられた氷雨様が振り向いて怒鳴りました。

「紫乃、ここを出よ。見るな!」

 私は言われたとおりに立ち上がり、広間の入口まで走りました。

 しかし、女の着物を纏った男がゆく手を防ぎます。

 けらけらと笑いながら、私の首に短刀を突きつけます。

 肩を強く掴まれ、その場に座らされます。弄ることに慣れきった、抗えば殺すことも辞さない狂気の視線を感じます。

 狂っています。何もかもが狂っています。

 私たちは狂った集団に蹂躙されようとしています。

 陛下の嘲りの声が聞こえます。

「紫乃、じゃ。そこで見ていよ。目を閉じればえぐる。耳を塞げばぐ。刮目して己の主人を見ていよ。これは此方に抗った罰じゃ。氷雨ではない、お前の罪じゃ。お前こそが意思なき罪悪を犯したのじゃ」

 私は見ました。

 なすすべもなく、氷雨様は男たちに押し倒されました。

 その口に酒器を突っ込まれ、無理矢理に酒を飲まされます。香を吸わされます。女たちが群がって、幾度も唇を重ねます。口移しに酒を飲ませています。衣を剥がされ、露わになった肌に何本もの汚穢な手が蛇のように這います。のたくります。口づけて、噛みついて、ありとあらゆる辱めを与えていきます。

 私は見ていました。

 氷雨様が男たちに女たちに散々蹂躙される様を。冠がとれ、髪がほどけ、床を舐め、這いつくばらされて屈辱に震え、強要された快楽にからだが弛緩ちえんして悶える様を見ていました。目を逸らすことができませんでした。涙も出ませんでした。氷雨様の心とからだが、無残に引き裂かれてゆくのを見ていました。薄群青の瞳が困惑と絶望に染まり、やがて力を失って閉じられる様を見ていました。四肢はぐったりとして投げ出され、尚も群がる獣欲の渦に呑みこまれていきました。酒と妖しげな香とで頭は朦朧もうろうとし、抵抗を封じられればなすすべもありません。男たちは征服の咆哮こえを上げ、女たちは嬌声をあげ続けました。卑猥な言葉を投げつけ、性差を越えてありとあらゆる方法で氷雨様を弄びました。何度も何度も。私の一等愛しい方を!

 陛下は琵琶を奏でなから、淫らな宴の乱痴気ぶりを愛でました。

 狂った声で歌いました。


 歌え、歌え、歌え、歌え、歌え、歌え。

 笑え、歌え、舌を切れ。

 笑え、歌え、四肢を断て。

 笑え、歌え、頭を落とせ。

 笑え、歌え、根を絶やせ。

 笑え、歌え、笑いながら殺せ!


 あの歌でした。

 かつて夢の中で、伊邪夜様が私を焼きながら歌ったあの歌でした。

 こんな淫猥な宴の乱れきった渦中にあっても、天性の鶯舌は何の障りもありませんでした。美しい声でした。やんやと喝采があがりました。淫らな者たちも調子を合わせて歌いました。

 陛下もまた、歌いながら見ているだけでした。

 婚姻する、夫にすると言いながら、氷雨様に指一本手を触れることはありませんでした。犯されて恥辱に震える氷雨様を冷たく見下ろし、ひたすら歌って、あざ笑い続けました。一切の情けも慈悲もなく、自分を憧憬どうけいし焦がれ続けた者に残虐な仕打ちを与えたのです。

 命令に従わず私を献じなかった、ただそれだけのことで!

 暴虐は延々と続き、とうとう氷雨様は力尽きました。酒と体液に汚れたまま、放り出されて床に転がりました。それを介抱する者もいませんでした。

 陛下の命令で、さらなる酒や料理が運び込まれました。

 女たちに裸で踊らせ、砂金をばらまいては競って拾わせ、淫らな歌舞は続きました。


 ……どれほどの間、地獄を彷徨っていたのでしょう。

 夜明けが近くなる頃、宴はお開きになりました。

 私のもとへ、やっと解放された氷雨様が戻ってきました。

 顔は悄然としており、何の感情も読み取れません。

 半裸の状態で着物も御髪も乱れきっていました。からだのあちこちに鬱血の痕があり、脂粉しふんや紅がべっとりとこびりついていました。

 氷雨様は穢されてしまいました。想いも踏み躙られました。

 私はけつまろびつしてお傍に行き、震える手で必死にお着物を直しました。

 唇についた紅を自分の袖で拭いました。それしかできることがありませんでした。

 氷雨様は無表情のまま、縋りつく私をぼうっと見下ろしていました。

 それから私の髪をくしゃりと撫で、

「終わったな」

 とだけ呟かれました。

 それは汚辱に満ちた夜の終わりであり、氷雨様の恋の終わりでもありました。


 

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