第十五話 覗く者、覗かれる者




 その日、言いつけられた簡単な家事を終えると、私は部屋に戻り一人静かに過ごしていました。

 特にすることもないので、八尋様からいただいた櫛を取り出して眺めます。

 氷雨様は最近、鶏磐に戻られた八尋様に手紙を出されました。

 暗い世情と日常の細々としたこと、私が身篭ったことなども書かれたようです。

 厳重に封をし、使いの者に持たせて鶏磐に向かわせましたが、先方に届くには何ヶ月もかかるとのことでした。

 国内はともかく、国を越えての文のやり取りはとても時間がかかります。

 国境では検問・検閲がありますし、一般人が越えるには日数を要します。国書ではなく私用の手紙なら尚更です。

 ……八尋様はお元気でしょうか。

 櫛を撫でながら、あの豪快な笑い声を思い出しました。

 できることなら、またお会いしたいものですが……。

 それは私が、というよりは氷雨様のためです。

 陛下が即位されてからというもの、氷雨様は滅多に笑われなくなりました。王宮でのお辛い立場が心痛を増すのか、吹き荒れる粛清の嵐に気が休まらないのか、難しいお顔をされていることが多いのです。

 雨音のことを話す時だけ表情が和らぎますが、またすぐにお顔を曇らせて「この子が生まれてくる頃、私は生きているのだろうか」などとしんみり仰います。それから月を見ても酒を飲んでも、かつて八尋様と過ごした楽しい日々を懐かしまれるのでした。

 そのたびに、私は己の至らなさを思い知ります。私ではだめなのです。

 身の回りのお世話と夜伽と子を産む以外は氷雨様のお役には立てないのです。八尋様なら、打ち沈む氷雨様の心をも癒せると思うのですが……。

 そんなことをつらつら考えていると、段々と眠くなってきました。

 私は櫛を着物の内側にしつらえた袋に仕舞い、床に横になりました。

 目を閉じると睡魔が波のように押し寄せてきて、あっという間に呑みこまれていきました。



 ―え、―え、―え、―え、―え、―え。

 笑え、―え、―を切れ。

 ―え、歌え、――を断て。

 笑え、―え、―を落とせ。

 ―え、歌え、―を絶やせ。

 笑え、―え、笑いながら……



 ……ああ、またです。

 どこからか、歌声が聞こえます……。あの人を殺すためのおぞましい歌です。

 ピーという笛の音、ポロンポロンと鳴る琴の音……。

 やんやと囃す声、どっと巻き起こる哄笑も。

 荒い息遣いと、女の嬌声のようなものまで……。


 歌と外の声が気になって、そっと目を開けました。

 そこは……案の定、東のお屋敷の自室ではありませんでした。

 まず見えたのは金の蒔絵を施した青い天井です。

 自分を見下ろす水龍の鋭い眼は、なぜかとても大きく見えました。

 私は再び端瑠璃宮のどこかにいるようでした。

 今度は椅子ではなく、ふかふかの寝台の上に横たえられています。

 起き上がろうとしましたが、からだがうまく動かせません。ばたばたと手足を振ると、もみじよりも小さな手が視界を横切りました。

「あう、あうぁ……」

 吐息のような呻き声がして、自分が発したものだとわかりました。

 私ではない私です。まともな言葉になっていません。

 私は三度みたび、誰かのからだの中にいるのでした。それも今度はどうやら赤子のようです。

「皇女様、お目覚めですか」

 声を聞きつけたのか、隣室から女官が飛んできました。

 私を抱き上げ、顔を近づけて笑いかけてきます。

 若い女官の顔には見覚えがあります。彼女は確か……艶夜様の乳母の方のような……。翠の宮にいた頃、何度か艶夜様に付き従う姿をお見かけしました。

 乳母は私をあやすように揺らしながら、部屋の中を歩き回ります。

「さあ、ご覧なさいませ。全て皇女様への贈り物でございますよ。美しいですねぇ。よろしゅうございますねぇ」

 乳母は感嘆しながら私に贈られたらしき錦の反物や碧玉の首飾り、毛皮、鮮やかな色をした南国の果物などを見せて回ります。

 純白の絹のむつきにおくるみに、宝石を散りばめたお守りの短剣、何十本という豪華な櫛、人形などの遊び道具。貴人の女児のためのありとあらゆるものが揃っていました。

 美しい動物たちもいました。緑と金の目をもった毛足の長い白猫、金の鳥かごに入った赤や青の小鳥たち。水槽を泳ぎ回る骨まで透けた魚たち。どれも初めて見る素晴らしい宝物でした。

 奴婢に生まれた私が何一つとして得られなかったものを、今の私は当然のように所有していました。

「さぁ、お母様のところへご挨拶に参りましょう」

 ひととおり贈り物を見せて回ると、乳母は私を抱いたまま部屋の外に出ました。外にはまた数名の女官が控え、しずしずと後をついてきます。

 先触れが「艶夜皇女様のお成り」と言いながら、摺り足で隣の棟に走ってゆきます。

 名前を呼ばれてはっきりしました。

 私はどういうわけか過去の、十四年前に生まれた赤子の艶夜様の中にいるのでした。ということは、ここは後宮なのでしょう。

 隣の棟に入り、数部屋をまたぎ、絨毯や調度品を全て赤に揃えた豪奢な居間へ入りました。

 乳母は腰を低くして御簾越しに「御方様」と呼びかけます。

「入れ」と声がして、中へ進みますと、中央の肘掛け椅子に伊邪夜様がゆったりと腰かけておられました。

 伊邪夜様は、白蝋のようななめらかな素肌に薄い寝間着を羽織ったきりでした。全身から匂い立つような色香を漂わせています。絶対的な高貴、人間離れした完全無欠のお顔。見惚れてしまうしかない凄絶な美に圧倒されます。

 女官が数名、萎縮気味にお傍に侍ってお顔にお化粧を施しています。どうやら伊邪夜様は寝起きで、ここはお化粧室のようです。

「皇女様をお連れしました」

「そうか」

 伊邪夜様は私を一瞥すると、すぐに顔を背けてしまわれました。特に興味を示されません。少し寂しい気もしましたが、貴人の親子関係とは淡泊なものなのかもしれません。

 乳母は恭しく礼をし、私を抱えたまま化粧室を出て謁見の間に入りました。

 謁見の間も金銀の調度品や宝飾類、沢山の花にあふれていました。もはや置くところがないのか、並べられた机の上に雑然と積み上がっています。

 拝謁を望んで多くの人が詰めかけており、人々は私を遠くから見て「おめでとうございます」「ご機嫌麗しく」と口々に挨拶を述べました。禁じられているのか、近くに寄ってくることはありませんでした。


 お化粧とお着替えが終わったのか、伊邪夜様が謁見の間に現れました。

 まずは奥宮からの使いが進み出て、皇王陛下から伊邪夜様への数々の贈り物を読み上げていきます。

 漆の高坏に山と盛られた砂金、絹織物、香木の伽羅きゃら、さらに昨日獲れたという大きなひぐまや猪、きじが平台に乗って運ばれてきました。鶏磐から取り寄せたという大鶏の足も献上されました。とても滋養があり煮詰めた汁を飲めば産後のからだに良いそうです。

 贈り物の紹介が終わると陛下の側室方と思われる女人の方々が現れ、伊邪夜様に丁重に挨拶を述べられました。どの方も見目麗しいのですが、美貌も品格もご身分も伊邪夜様には到底及びません。側室方もそれが身に染みてわかるらしく、心から感服しているご様子です。

 その後も挨拶は延々と続き、昼近くになると翠嵐様がいらっしゃいました。

 翠嵐様は伊邪夜様に、庭で摘んだという瑞々しい生花を奉げました。

 それまでは黙って無感動のまま挨拶を受けていた伊邪夜様も、翠嵐様はお隣に置いて果物や菓子を勧められます。

 翠嵐様は特別のもてなしを喜ばれ、一心に伊邪夜様をお慕いされます。

 生母やきょうだい全員に死を賜った義母を恨む風もなく、その美と慈愛に心酔されておられるようです。伊邪夜様が大事に遇されるので、皆も翠嵐様を敬います。

 翠嵐様は私の傍にも来て、お言葉をかけてくださいました。

「今日は眠らぬのだな。いつもはうとうとしておるのに」

「お泣きにもなりませぬ。朝から大層ご機嫌でいらっしゃいます」

「そうか。艶夜は偉いな」

 翠嵐様は私を褒め、頭を優しく撫でてくださいました。

 仄かに胸が熱くなるのを感じました。こんなにも沢山の人に誕生を祝福され優しくされるなんて初めてのことです。自分のことではないと知りつつも、嬉しくてたまりません。


 伊邪夜様は午前の謁見を終えると、献上された砂金と香木を側室方や女官たちに分け与えられました。「余った食材は下人たちにやれ」とも仰いました。

 たちまち大きな歓声がわき、皆はひれ伏して感謝を述べ、伊邪夜様を讃えました。

 それから伊邪夜様は翠嵐様と共に軽く食事を召し上がり、お部屋に戻られました。翠嵐様は伊邪夜様がお許しになったので、学者を呼んでお勉強されたり、庭を散歩されたりしました。

 私は午後を眠ったり起きたりしてのんびりと過ごしました。

 腹が空けば乳を与えられ、股が湿れば絹のむつきを取り替えられました。

 誰も彼もが私を大事にし、口を開けば褒め称えました。


 夕方になると、公務を終えた皇王陛下が伊邪夜様のもとへいらっしゃいました。夕餉は家族四人の食卓となりました。

 陛下も翠嵐様も、伊邪夜様と時間が過ごせて本当に幸せそうでした。

 食事が終わると、翠嵐様は名残りを惜しみつつご自分のお部屋に戻られました。

 伊邪夜様は陛下と二人になると乳母を呼び寄せ、私を受取って膝の上に置きました。

 私の顔を覗きこみながら花のような唇を開かれます。

「さて、艶夜でございます。陛下の御子でございます。わたしは后としての務めを果たしました。今だ猜疑うたぐる者もおりますが、この子は我が琉斌に仇なす者ではないれっきとした証となりましょう」

「そうであるな。間違いない」

 陛下は深々と息を吐き、眉間に皺を寄せられました。おずおずと手を伸ばし、無骨な指で私の頬を撫でました。

「皇后よ、今になって思う。余は間違っていた。余は自らの武勇を誇りながら王にあるまじき臆病を抱えていた。この根深い臆病ゆえに神威かむいを宿す神葛の力を恐れたのだ。『聖来の蔓』が、正統なる女王のみにしか継承されぬ力とは知らなんだ。家臣の言うままに一族は皆有していると思い込み、其方の係累を死よりむごい目に遭わせた……」

「……」

「だが余は捕らわれた其方をひと目見た瞬間、其方の虜となった。何を失ってもいい。其方にだけは憎まれたくない、恨まれたくないと思った。其方を欲する余を許し、愛して欲しいと願った……」

「我は何も恨んでおりませぬ。琉斌も陛下のことも。ただ我が子の幸福だけを願っておりまする」

「そうか、ならば安心せよ。余に仕え、世継ぎまで産んだ其方の地位は揺るぎない。翠嵐を後見として、艶夜を必ず立太子する」

「それを聞いて安心いたしました」

 伊邪夜様は満足そうに微笑むと手招きし、私を乳母に戻しました。



 それから数日間というもの、私は甚だ幸福のうちに過ごしました。

 私一人に十数人もの女官が仕えており、昼夜関係なく傍に侍ります。

 腹が空いては泣き、おしめを濡らしては泣き、むずがって泣いては世話されます。ただ泣くだけで良いのです。周囲の誰もが私に優しくしてくれます。

 しきたりなのか、毎日のように伊邪夜様に会いに行きます。

 伊邪夜様に吸い寄せられるように翠嵐様や陛下も来ます。

 翠嵐様はことのほか私を可愛がってくれます。私は初めて家族というものを、家庭の温かさを知りました。こんなにも優しさと労わりに満ちた世界があったなんて……。

 伊邪夜様は、間違いなく後宮の絶対権力者でした。

 人を寄せつけない神々しい気を放ちつつも、後宮の女人や下官からは大層慕われていました。お美しさに加え、稀少な宝物を惜しげもなく下々へ与えるからです。また従僕に意味のない折檻や手打ちはなさいません。慈愛に満ちた聖母様とも崇められていました。

 金や絹を賜るたびに女官たちはほくほく顔をつき合わせ、伊邪夜様を褒め称えました。子供を産んだ側室方とお子様には死を賜ったけど、艶夜様の地位を固めるためには仕方ない……と噂し合いました。

 そうなのです、伊邪夜様は私の為にあのような恐ろしい所業を成し遂げられたのです……。

 愛する我が子のためなら致し方ない、そんな思いも涌いてきました。

 艶夜様の中に在るせいか、私の中に伊邪夜様への敬愛の念が芽生えてきていました。

 そんな夢のような日々が、七日ほど続いた後のことです。

 その日も、私は乳母に抱かれて寝かしつけられておりました。

 心地よい揺れにうとうとしかけたその時でした。

 外から透き通るように美しい歌声が聞こえてきたのです。



 金銀珊瑚きんぎんさんごの首飾り

 月の雫と玉桂たまかつら

 虹で染めたる綾錦あやにしき

 いりゃせん、いりゃせん

 いりゃせん何も

 あなたとくらべりゃ

 小石と枯れ木と襤褸ぼろのきれ


 あなたのいないこの世など

 光も色もありませぬ

 嘘偽りのみ溢れいで

 ありゃせん、ありゃせん

 ありゃせん未練

 務めを果たせば

 追って地の中、根の国へ


 いりゃせん、いりゃせん

 あなた以外

 ありゃせん、ありゃせん

 のぞみなど



 歌声は近づいてきて、私の部屋の前で止まりました。

「御方様」

 と、女官たちの動揺する声が聞こえます。

 伊邪夜様が歌いながら、私の部屋に来られたのです。

 こんなことは初めてでした。

 乳母は私を抱えたまま、慌てて外へ出ました。

 伊邪夜様は供も連れず、寂し気な微笑を浮かべてぽつねんと立っておられました。

「艶夜を」

 とだけ言って、私を胸に抱きました。

 そのまま、ふらふらと庭へ降りてゆきます。

「御方様、お待ちくださいませ。おからだが冷えてしまいます」

「ついてくるな。一人にせよ」

 追いかけようとする女官たちを制し、伊邪夜様は樹木生い茂る庭をすたすたと歩いていきます。

 運ばれながら見上げたお顔は気高く凛然として、少しお疲れな以外は変わりないように見えました。

「あなたのいないこの世など光も色もありませぬ……」

 尚も小さく歌いながら名も知れぬ大樹の前まで来ると、伊邪夜様は足を止めました。

 大木の固い木肌に触れると、しばらく目を閉じてじっとしていました。

「……ここがよい。一番うるさくないところだ」

 伊邪夜様は私を大樹の根本に降ろし、幹に立てかけました。

 自らも中腰になると、懐から細長い筒を取り出しました。

 それは短剣でした。鞘から潔く引き抜くと、粲々と降り注ぐ木漏れ日に銀色の刃が鈍く光りました。

 伊邪夜様は私を見下ろしたまま、厳かに告げられました。

「種子よ、其方は人にほだされてくれるな。琉斌が神葛を滅ぼしたのではない。人間が、神々われらを滅ぼしたのだ」

 次の瞬間、ズシャッと鈍い音がしました。

 刃が伊邪夜様の真っ白な喉に深々と刺さりました。

 何が起きたのかわかりませんでした。伊邪夜様が自らの喉に短剣を突き立てるなど……想像だにしませんでした。

「く、う……」

 微かに嗚咽のような声が漏れました。

 最後の力でやいばが引き抜かれると、喉からブシャアと勢いよく血が吹き出しました。幹に立てかけられた私に雨のように降り注ぎました。真っ赤な血が産着を、顔を、温かく濡らしていきます。

 伊邪夜様の血液。体温。

 私をこの世に生みだした人の命が……散ってゆく!

 伊邪夜様は、どうっと仰向けに倒れました。

 尚も溢れる血が黒土にじわじわと染みていきます。

 長い睫毛に縁どられた瞳は固く閉じられ、もはやこの世の何も見てはおられません。

「……御方様? お、御方様あああああ――っ!」

 禁じられても追ってきたらしき女官の悲鳴が辺りに響き渡りました。

 後宮を統べる皇后の突然の死に惑乱したのか、ヒャーとかアーとか言葉にならない奇声を発しています。

 私は血まみれのまま、大きくなってゆく人々の声を聞いていました。

 信じられない思いで、目の前に転がる美しい遺骸をただ見つめていました。



 ……。

 …………。

 そこで、私は跳ねる魚のように勢いよく飛び起きました。

 ゼイゼイと呼吸が荒く、全身に汗をかいています。

 また夢を見ていました。今度は随分と長い夢です……。

 私の意識は過去へ飛び、後宮で生まれた艶夜様のからだに入り、皇女として幸福な日々を送り、そして唯一伊邪夜様の自害する姿を見た……。

 なんと恐ろしいことでしょう。あまりに生々しく臨場感がありました。

 喉がひどく乾いています。水が飲みたい。

 立ち上がろうとしたところで自分のからだに影が差していることに気づきました。

「……よぉ、お目覚めか。のんびり昼寝とはいい身分になったもんだなぁ」

 竹尾でした。寝ている間に、竹尾が部屋に入ってきていたのです。

 何をしに……と思ったところで、私は本能的に足裏で床を蹴りました。

 逃げなくては、そう思ったのです。

「お、行かせねえぞコラ」

 後ろから声がしたのと同時に髪を掴まれ引き倒されました。

 転がった私の口を竹尾の手が塞ぎます。

 押さえつけられながらも私はバタバタと懸命に暴れました。

 目的はわかっています。嫌というほどわかっています。

 顔を捩り、手が外れた隙に指を噛みました。

「てめぇ!」

 怒声と共に、パアンと音がして目の前に火花が散りました。弾けるような痛みに殴られたのだとわかりました。

「奴婢ごときが調子に乗るんじゃねぇ。ご主人様に汚ねえ股で取り入ったくせにお腹様とは笑わせらぁ……どうせ犬の子だろうが」

 竹尾はにたにた笑いながら何度も何度も私を殴りつけました。

 瞼の上にも鈍い痛みが走りました。頭を掴まれ完全に組み伏せられています。逃げられません。

「ちっとおとなしくしてろ。すぐに終わるし、腹ぼてなら孕みもしねぇ。痛い目に遭いたくなかったらご主人様には黙ってな」

 竹尾は、私の裳を太ももまで捲りあげながら下帯を緩めています。

 昼間から、主の留守中だからこそ私を暴力で組み伏せ、凌辱するつもりなのです。世にも悍ましい所業が始まろうとしていました。

 嫌だ。嫌です。絶対に嫌。こんな男に好きにされるわけには……!

 竹尾が私の着物の衿をがばりと開き、胸を露わにしたその時でした。


(下郎、ね!)


 突然、頭の中で私ならざる者の声が響きました。

 右手がびんっと引き攣り、開かれた襟の内側を探ります。

 手が振り上がりました。シャッと何かに当たり、切り裂くような音がしました。

「う、うぎゃあああああああ……!」

 竹尾の絶叫が響き渡りました。私は右手を見ました。手には朱色の櫛が握られていました。竹尾は両手で左目を押さえて喚いています。

 目からボタボタと鮮血が滴っています。

 櫛の先端には、血液とどろりとした体液がこびりついています。

 私は……懐に持っていた櫛を竹尾の目に突き刺したのです。

 違う、突き刺したのは私ではありません。

 櫛を使うなんて、そんなこと考えもしなかった。

「畜生! てめぇ、よくも。殺してやる!」

 竹尾が叫びながら、私のお腹を力いっぱい蹴り上げました。

 あまりの痛みに悶絶します。二、三回床を転げました。

 お腹、お腹……私のからだで今一番大事なところです。私が命をかけて守らなくてはならないところです。ここには氷雨様の子がいるのです。

 櫛を握りしめたまま必死に床を這いつくばります。

 外に、外にさえ出れば……。

 しかしまたもや髪を掴まれて倒されます。

 背中を蹴られ、引っくり返され矢鱈滅法に顔を殴られます。

 その間も竹尾の血が降り注ぎます。

 お願い、助けて、誰か助けて……。誰か!

「ちょっとすごい声がしたよ」

「紫乃のところじゃないかい」

 声を聞きつけてか、人が走ってくる音が聞こえます。

 雑司女が二人部屋に飛び込んできました。

「竹尾……? これはどういうことだい……」

「くそっ!」

 竹尾は女たちを押し退けて部屋を飛び出し、裸足のまま庭に降りました。

 血を滴らせながら裏門の方へ走っていきます。

「紫乃、大丈夫かい」

 竹尾が逃げたことと、私の衣服の乱れぶりから女たちはすぐにことの次第を察したようです。顔を見合わせると、すぐに男たちを呼びに行きました。

 私は汚れた櫛を握りしめたまま、ぶるぶるとおこりのように震えました。

 竹尾に犯されずにすんだ安堵以上の絶大な恐怖に襲われていました。

 間違いありません……。気のせいではありません。

 今こそ、悟りました。

 自分の中に、明らかに自分じゃないものがいます。

 その者が私の肉体の危機的状況に言葉を発し、私のからだを操ったのです。

 不思議な夢を見るたび、私は自分の意思とは無関係に、私ではない者のからだの中にいました。

 私はかつて伊邪夜様に生きながら焼かれました。

 私は伊邪夜様となって琉斌の子らに死を賜りました。

 私は艶夜様となって伊邪夜様の死を見届けた……。

 もしや交換なのでしょうか。

 浮遊する意識と引き換えるようにして、私のからだに自分でないものが入ってくる……?

 ……誰? 誰が入ってくる?

 わからない、何もわからない。

 私は……私の存在こそが一等わかりません……。


 

 お屋敷はいっとき騒ぎになりましたが、醜聞を恐れてかすぐに静まりました。

 私が白昼堂々襲われたことには、いつも陰口を叩く女たちも同情的でした。

 ぶっきらぼうながらも慰めの言葉をかけ、部屋に点々と散った血を拭いてくれました。

 私は泣きながら顔を洗い、冷たい水で腫れた頬を冷やしました。

 汚れた櫛も水で洗いました。

 その後は暗くなっても灯りをつけず、部屋で櫛を握りしめたまま踞っていました。

 八尋様。どうか私をお助けください。

 この櫛で私と雨音をお守りください……。

 そう祈り続けました。


 夜も更けた頃、門の方から人の声がして、氷雨様が邸内に戻られたことを知りました。

 音を立てずに廊下に出ると、使用人たちがやいのやいのと氷雨様に群がっています。

 竹尾が起こした暴挙を伝えているのでしょう。

「竹尾は戻って来ません。奴の方に非があるのは確かです」

「賎しくも紫乃は手つきになった身。ご主人様の御子を守ったのです」

 男たちの声がほそぼそと聞こえてきました。

 奴婢が平民を傷つけた場合、まず死罪は免れません。

 といっても法で裁かれるのではなく凄惨な私刑で殺されます。

 ですが、氷雨様は私に非がないことをわかってくださるはずです。

「紫乃」

 しばらくして私を呼ぶ声がしました。

 飛ぶように駆け寄って、神妙にお部屋に入ります。

 氷雨様の前に座ると、そのお顔は少し青ざめていました。

「皆から聞いた。竹尾に襲われたそうだな。大事ないようで良かった。こんなことをしでかしたからには、奴がここへ戻ってくることもあるまい。安心せよ。お前を罰する気もない」

 私は深く安心しました。

 しかし、その安心は次の言葉であっさり打ち破られました。

「だが、こちらも不可解極まりないことが起きた。陛下がお前をご所望だ。夕刻、午睡から目覚めると突然に私を召し出してな、お前を王宮に連れてこいと仰る」

 ……陛下が?

 なぜ私をお呼びになるのでしょう。

 日々、国や人民を顧みず暴虐を繰り返しておられる方が、私に何の御用があって……? しかも午睡の後とは。

 嫌な予感しかしません。

 黙りこくってしまった氷雨様も同じお気持ちのようでした。

  

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