第十四話 懐胎と変容と
艶夜様は即位後、跡継ぎを定めず翠の宮を閉鎖されました。
宮で唯一生き残った氷雨様には、ご自分の傍仕えを命じました。
身の回りのお世話をする侍従のような役回りですが、八名いる侍従の一人には数えない極めて異例な待遇でした。新体制において、陛下は氷雨様に官位をお与えにならなかったのです。名誉職というわけでもなく、実に微妙なお立場でした。
私は政のことはよくわかりませんが、異国の賓客を除けば、宮廷では生まれもった身分と官位が全てと聞きます。
豪族方は氷雨様を表だっては侮りませんが、尊重することもなく、常に一定の距離を置きました。陛下も気まぐれに声をかける以外は、空気のように扱われます。口さがない人々は、氷雨様は干されていると噂しました。
異動に従い、私も奥宮に詰めるようになりましたが、主は王宮内で完全に孤立しているようでした。
陛下はまた、率先して人間の舌を召し上がるようになりました。
かつて翠嵐様から賜っていた歌の褒美は、いつの間にか常食となってしまわれました。
どこで調達したのか「
斬児は筋骨隆々の大男ですが、いつも黒い覆面を被っていて顔はわかりません。覆面からは大きな目だけがぎょろりと覗いて、艶夜様に舌切りを命じられると「アアア」だの「エエエ」だのと奇声を発しました。身分は奴婢で、首筋に私と同じ血雫の刻印がありました。
それでも即位当初は一日に一人、舌も一枚だったのですが、そのうち毎食のように所望されるようになり、二人、三人と殺される奴婢の数が増えていきました。舌も年齢によって味が違うのか、子供か若い男女に限られました。
王宮内の奴婢が尽きかけると、臣下に献上するよう求め、皆はこぞって自宅の奴婢や奴隷市場で子供を買い漁って陛下に差し出しました。
陛下は舌切りの現場をも好み、御前にて死を賜るのもたびたびでした。
玉座の間は常に血の匂いが充満し、食事時になると生きながら舌を切られる奴婢の悲鳴が絶えませんでした。悲鳴を聞くたび私は震えあがり、自分の食事もろくに喉を通りませんでした。
連日奴婢を殺すことは労働力の減少でもあり、とうとう宰相様が艶夜様に殺す奴婢を減らすよう
「どうか牛の舌でご辛抱いただきますように」とも諭されました。
すると艶夜様は宰相様に謀反の意があるとして即刻捕らえ、一族郎党共に処刑されてしまいました。
それも宰相様の若い妾と子供だけは王宮に連行し、目の前で舌を切り取らせて召し上がったのです。皆は震えあがり、
舌を食べれば食べるほど、陛下の超然とした美貌は輝き、
先王の代から、内政は宰相様の手腕でもっていたようなものでした。
宰相様が処刑された後、陛下は毎晩素性の知れない若衆と酒宴に明け暮れるようになり政治を顧みなくなりました。政は有力な豪族方に欲しいままにされ汚職が横行しました。国の未来を憂い、腐敗を止めようとした勇士は、暗殺されたり追放されたりしました。
人々の腐敗と堕落にも、力を持たない氷雨様はなすすべもありませんでした。横暴がまかり通り、連日人が殺されていくのをただ見ていることしかできませんでした。
陛下は舌を食べて上機嫌になるたびに、鶯舌を披露しました。
そして陛下の歌を聞くと、どういうわけか氷雨様や他の人々は頭がぼうっとして、自分が何をしているのかわからなくなってしまうのでした。
東のお屋敷に戻り、私にお話くださる時になって初めて日中の記憶が曖昧なことに気づかれるのです。
これもよくよく考えてみれば不思議です。
私もこれまで何度も陛下の歌を聞きました。
しかし、深く感動こそすれ記憶を失くすことは一度もなかったからです。
夏も盛りの
暑さのためか、それとも日々の緊張にプツリと精神の糸が切れてしまったのか、私は奥宮の控えの間で立ちくらみを起こし気を失ってしまいました。
気がつくと、どういうわけか正殿にある
典薬寮は貴人のための医療施設および介抱所で、私の身分では治療を受けることは許されません。
親切な方が運んでくださったのでしょうが、うかうかしていてはお咎めを受ける可能性があります。慌てて起き上がって部屋を出ようとしますと、間仕切りの白い布越しに人影が二つ見えました。
そっと覗くと、初老の
お二人は向かい合って卓を囲み、御典医様は紙に丸薬のようなものを包んでおられました。
「さて、下女の紫乃殿のことですが。倒れたのは軽い貧血ですが、それ以外にもからだに障りがありますな。三ヶ月ほどか、身篭っておられる」
私は驚愕しました。身篭る、勿論意味はわかります。
御典医様は私のお腹に……子供がいると仰っているのです。
慌ててお腹に手を当てました。ここに新しい命が宿っているなど
氷雨様も目を丸くしましたが、すぐに柔らかな微笑を浮かべました。
「そうか。それは重畳。私の子だ。それも
「なんと。若い方はよろしいですな」
御典医様は氷雨様の返事に呆れた声をあげました。
主人が使用人に手をつけるのはよくあることですが、奴婢を孕ませた上に
「産み月はいつか」
「順調にいけば
「来年には父親か……。存外照れくさいものだ」
氷雨様は少し
差し出された紙包みを受取ると、気づいていたのか私に振り返り「帰るぞ」と言われました。
その日は、陽の高いうちに東のお屋敷へ帰りました。
奥宮で失神したことへのお咎めはありませんでした。
「よいのだ。いつ出仕しようが退出しようが、誰も気にはしない。元より、私に務めなどないからな」
帰りの車のなかで、氷雨様はそう寂し気に呟かれました。
私のお腹に恐る恐る手を伸ばすと、優しく撫でてくださいました。
お屋敷に着くと、氷雨様は裏手にある蔵へ入っていかれ、しばらくして桐の箱を二つ抱えて戻ってこられました。
桐箱には絹で包んだ短剣が一振りずつ入っていました。
「父か……。私は父を知らぬ。親になるといわれても、まだ実感は涌いてこないが……血族が増えるというのはこそばゆくも嬉しいものだ」
氷雨様はご自分の前に一振り、私の前に一振り、音をたてずに置きました。
「これは父上が亡くなられた後、形見分けでいただいた双子の短剣だ。生前は一度もお会いすること叶わなかったが、私を息子と認めてくださっていたのだろう。銘は『
さあと促されて、私は恐る恐る雲水に触れました。
雲水は白い鞘からして大変豪勢なものでした。白蝶貝と真珠が散りばめられた鞘を引き抜きますと、青みがかった鋭い刃がギラリと光りました。
「帰りに考えていたが、男でも女でも名前は『あまね』にしよう。雲水を守り刀として命と誇りを守るがよい。さて、字はどうするか」
氷雨様は文机に向かい、硯に墨を摩り始めました。
筆を持つと紙に幾つも漢字を書いて思案しておられます。
少しして、字を書きつけた紙を私に差し出しました。
「
そう言われた瞬間、私の眼から涙が溢れました。
お腹の子供は間違いなく氷雨様の子です。それを氷雨様も全く疑っていらっしゃらない。奴婢の私が産む子を認知し、守り刀を与え、名づけすらしてくださったのです。今から子供の誕生を待ち望んでいる。これ以上の喜びはありません。
あまね。雨音。字面は固さがありつつも優しい音を持つ名です。
私は生涯下賎の身ですが、雨音は奴婢にはなりません。貴人として生きていけるのです。
鞘に戻した雲水を胸にしかと抱き、とめどなく流れる涙を袖で拭いました。
今こそ断言できます。胸を張って言えます。
私ほど主人に恵まれた幸運な奴婢はこの世にはいないでしょう。
氷雨様は私を抱き寄せると、その腕の中にすっぽり収めてしまいました。
「身篭ったからには、明日からは供をせずともよい。屋敷で待て」
私はご命令に大きく頷きました。
本心を言えば、昼も夜もお傍にいたい……。王宮へもお供をしたい。
ですが、身重では色々と至らない面も出てきます。今日のように倒れてしまってはご迷惑をかけてしまいます。
私一人のからだではなくなってしまった以上、まずは無事に出産を終えなくてはなりません。
翌日から、私は王宮へのお供を外され、日がな一日お屋敷内で過ごすようになりました。
他の使用人たちにも懐妊が伝えられ、重い家事労働は免除されました。
氷雨様の命で食事の量も増やされました。今より広いお部屋も与えられました。朝、氷雨様をお見送りした後は、簡単な掃除や裁縫など細々とした家事をして過ごしました。
懐妊したことで使用人たちには「お腹様」「腹黒様」と揶揄され、随分陰口を叩かれました。それも当然でしょう。今まで見下していた奴婢が、妊娠したことで特別待遇となり、主人に大事にされ始めたのですから。
屋敷で過ごすうちに、困った問題が起きました。
家人の竹尾です。彼がどうにも不審な動きをするようになったのです。
王宮に氷雨様を送り届けると車を置いたままお屋敷に戻ってきて、私をつけ回すようになりました。時には無理矢理からだを触ってきたりもして、そのたびに屋敷中を逃げ回らねばなりませんでした。
もしや、氷雨様の留守中にこれ幸いと私を手籠めにする気なのでしょうか。
とんでもないことです。私のお腹には氷雨様の子がいるのです。
何があっても、主の名誉と雨音を穢されるわけにはいきません。
腹立たしく思いながらも、日中はなるべく人がいるところで過ごし、氷雨様が帰られると片時も離れずお側にいるようにしました。
お屋敷のすぐ外で、竹尾が朝服を来た御仁と立ち話をしていることもありました。王宮からの使いのようですが、中を伺うばかりで屋敷内には入ってきません。しかも昼間に来る使いのことを、氷雨様自身は全くご存知ないようでした。なんだか不気味です。
世相はどんどん暗くなっていきました。
王宮のことは氷雨様のお話でしかわかりませんが、陛下の暴虐は日々苛烈を増すばかりでした。
粛清の嵐が吹き荒れ、取り巻きの豪族方も些細な言いがかりをつけられては処刑されていきました。陛下は処刑した貴人の財産を全て没収し贅沢三昧。王宮には街の娼婦や男娼が呼ばれ、酒池肉林の淫猥な宴が繰り広げられているとか。
連日、見世物として残酷な拷問や公開処刑が行われ、舌を食べるために奴婢が殺され続けました。
とうとう都に奴婢が尽きると、陛下は人間狩りを命じました。
女子供が王宮に連れ去られては戻ってこない事件が頻発し、民草は恐怖のどん底に突き落されました。豪族方や貴人を始めとして、多くの人々が都から逃げ出し始めました。氷雨様も憔悴の色が濃くなってゆきました。
主のおからだを案じつつも、私にも変異が現れました。
王宮に通わなくなったのに、また不思議な夢を見たのです。
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