第十二話 氷雨の慈悲、艶夜の慈悲




「早く歩け。立ち止まるな。止まれば打つぞ」

 歩みが少しでも遅くなると、衛士の罵声が飛びます。バンバンと叩く音も聞こえてきました。見せしめでもあるまいに酷い扱いです。

 隣を行く伊穂理様の顔は屈辱に青ざめていました。私はともかくとして伊穂理様は西郡の姫君。生まれてこの方、このような粗略で理不尽な扱いをされたことは一度もないはずです。本当においたわしいことです。

 生温なまぬるい闇を縫うようにして、私たちは随分長いこと連れ回されました。

 何度も角を曲がり、門をくぐっては直進して引き返し、王宮内を意味もなくぐるぐる回っていたようです。溜息と共に「これで三周だ」という声も聞こえてきました。

 衛士たちは、歩かせながら上からの指示を待っていたのかもしれません。

 月が天頂高く昇る頃、私たちは正殿へ続く大門を抜け、正殿の裏手にある仮牢に入れられました。縄は解かれず、むしろすらない地べたの上に座らされました。

 仮牢は王宮内で罪を犯した者や、牢舎から呼び出した囚人を取り調べる間入れておく留置所です。穴を掘った半地下に設けられており、上から下まで鉄格子がきっちりとまっています。あくまでも臨時の牢ですので、三部屋ほどしかありません。普段は数名、もしくは誰も入っていない時もあります。

 そこへ男も女も関係なく一気に何十人も詰め込んだのですからたまりません。じめじめとした牢内は押し合いへし合いし、人の体温で一気に暑くなりました。

 着物の下を、嫌な汗が幾筋も伝っていきます。腐った食べ物と糞尿のすえた匂いがします。人同士が密着して湿った吐息が混じり、心ノ臓の音まで聞こえてきそうです。正確な数はわかりませんが、翠の宮に仕える者は百名を下らないはずです。翠嵐様の持ち物である奴婢まで加えれば、一体どれくらいの人数になるのか……。

 それでも貴人の伊穂理様に気づくと、近くの下人たちは身を捩ってじりじりと後ずさりました。私たちの周囲は少しだけ空間ができて、空気の流れがよくなりました。

 牢の前には衛士が幾人も立ち、松明を掲げこちらに目を光らせています。

 一応にも牢内が落ち着くと、人々はひそひそと話を始めました。

「畜生、どうも見ねぇ顔だと思ったらあれは近衛隊の配下だ。奥宮に詰めている奴らじゃねえか。陛下の命令は絶対だから、衛士の分際であんなに威張ってやがるんだ」

「命令ってなんだよ。一人も生かさねぇてなんだよ。嘘だろ。冗談だろおい」

 男たちが話すのに触発されたのか、身を強張らせたまま黙っていた伊穂理様も口を開きました。

「まさか、私たちが翠嵐様の下手人と疑われているわけでは……」

 そんな……。私たちはずっと宮にいたのです。

 薨御の前も、薨御の知らせの後もです。

 後宮内で亡くなった翠嵐様の死に関与できるはずがありません。宮にいた者は持ち場さえ離れていなければ、お互いに無実を証明できるはずです。

 尚も衣穂理様は悄然と呟きました。

「それとも宮の中に、下手人の協力者がいると……?」

 あれこれと推測の声が飛び交う中、突然「違う」という声がしました。

 声がした方を見ると、髪をふり乱した下人が俯いたまますすり泣いていました。確か炊屋の煮炊き番です。何度か粥をもらったことがありました。

「違う。そうじゃない。下手人がどうこうじゃない。みんな殺される。一人残らず死ぬんだ。同じだ、姉ちゃんの時と同じだ……」

「姉ちゃん……?」

「俺の姉ちゃんは昔、後宮付きの下女だったんだ。陛下はお后様がご懐妊なさるとそりゃあ喜びなさって、後宮の下女に至るまで米や絹や銀をくださった。大盤振舞だ。そん時は俺も米が食えたし、親父は絹を売って酒をたらふく飲めた。姉ちゃんが王宮に勤めていて本当に良かったと思ったもんさ」

 そこで男は一旦言葉を切り、喘ぐように大きく息を吸いました。周囲は固唾を飲んで次の言葉を待ちます。

「でも……お后様が亡くなると昼夜が逆さになったように急転直下だった。陛下は悲しみのあまり、お后様に仕えていた女たち全員に死を賜ったんだ。采女も奴婢も関係ねぇ。全員だ。女たちを庭に並べて片っ端から撲殺した。姉ちゃんも頭をカチ割られて死んだ。仕えているといっても、姉ちゃんは女官方の裁縫係だった。お后様のお傍どころか、お顔さえ見たことがなかった。それなのに……問答無用で殺された」

「そんな。あんまりだ……」

「俺たちも同じだ。翠嵐様が亡くなったからには殺される。王族が亡くなると、傍仕えは全員お供させられるんだよ」

 男は膝の上にポタポタと涙をこぼしました。

 私たちは信じられない想いで、男が泣いて震えるのを見つめました。

「……嘘」

 衣穂理様が首を振りながら、嘘、嘘と何度も呟きました。

「王族が亡くなれば後を追わされる。殉死……。では私はこれから死を賜るというの。姉さんはこのことを知っていた……? 父様も? だから私を身代わりに……?」

 衣穂理様の声が段々小さくなっていきます。

 私も茫然としました。

 私は翠嵐様の従僕ではありません。氷雨様の持ち物です。

 ですが、こうして一緒くたに捕らえられてしまったからには宮の人たちと同じ運命を辿るのでしょう。ましてや平民でもない奴婢なのです。無実だろうが、間違って殺されようが路傍ろぼうの小石程度にも問題になりません。間違いと認められても、せいぜい賠償として金子か代わりの奴婢が下賜されるだけです。これまでがそうであったように。

 氷雨様……氷雨様は殉死のことを知っておられたのでしょうか。

 知っていて私を探しに来て、名を呼んでくださったのでしょうか。

 氷雨様。私は……貴方様にお別れもできず死んでいくのでしょうか。



 私たちは死の恐怖に怯えながら、まんじりともせず夜を過ごしました。

 眠る者は誰一人としていませんでした。眠れるはずもありません。

 殉死が本当なら、私たちの終わりは刻一刻と近づいてきているのです。明日にはもうこの世にいないかもしれません。

 恐怖は神経を研ぎ澄ませます。私は悲嘆の闇に沈みながら、何度も考えました。考えたくないのに考えてしまいました。

 自分は一体どんな死を賜るのか。後宮の女官と同じように撲殺なのか。僕殺なら何度打たれるのか。何回打たれたら死ねるのか。死ぬまでにどれくらい血を流し、痛みと苦しみに悶えなくてはならないのか……。いっそひと思いに斬首してくれたなら……。

 毒ならばどうでしょうか。毒だって相当に苦しいはずです。杏奴様は毒杯を賜って大変お苦しみになった……。美しい顔を苦悶に歪めて、からだを硬い床に打ちつけてのたうち回ったはずなのです。

 死そのものよりも、死に至る過程を考えるだけで、からだ中の血管が沸騰しそうになります。熱い。熱いのです。これは牢内の蒸し暑さからではありません。私は生きているのです。目の前に迫る死ですが、まだどうしようもなく生きているから、思考してしまうからこんなにも苦しい。熱い。悲しい。やりきれない。覚悟ができない。到底できそうにありません。


 全く気が休まらないまま、空がしらじらと明けてきます。

 いっそ恐怖に気を失ってしまいたかったのですが、それも叶いませんでした。伊穂理様も目を開け、虚空を睨んでおられます。

「夜明けだ……」

 誰かが外を見て呆けたように呟いたその時でした。

 バタバタと人が降りてくる音がして、鉄格子の扉が開きました。

 松明を持った衛士が数名牢内に入ってきました。

 踞った男たちを押し退け、誰かを探しているようです。

 あちこちから女の悲鳴が上がりました。もしや乱暴目的の物色でしょうか。だとしたら一番に狙われるのは……。

 伊穂理様がぎゅっとからだを固くしました。ごくりと唾を飲む音が聞こえました。

「違う」

 衛士たちは吐き捨て、女たちから手を離しました。

 そして、私たちの前にやってきました。私の胸倉を掴むと着物の襟を一気に広げました。否応なく乳房が露わになりました。

「何をする。私の婢に乱暴は許さぬ」

 伊穂理様が叫びました。「私の」と仰って庇ってくださったのです。

 構わず衛士は私に松明を近づけました。

「左の胸に血雫の刻印……紋様は蔓。こいつだ。連れていけ」

 そう言うや、衛士たちは私の腕を掴んで立たせ、二人がかりで外に引き摺り出しました。

「紫乃!」

「おい、やめてやれ」

「穢さずに死なせてやれ」

 伊穂理様に続いて、牢内から次々に非難の声が上がりました。

 しかし、鉄格子は無情に閉まり中の人たちは再び閉じ込められてしまいました。

 私は階段を登り、なすすべもなく衛士たちに引っ張られていきます。

「……全く氷雨様もこんな婢のどこがいいのやら」

「からだつきは悪くないがなぁ。あれだ、よほど締まりがいいんだろ」

「違いねぇ」

 彼らは下卑た笑みを浮かべながら私をじろじろ見ます。

 どこぞの茂みにでも連れ込んで犯すつもりなのでしょうか。もしそうだとしたら……。

 衛士たちはわき道に逸れることなく、真っ直ぐ奥宮へ続く石畳の道を進んでいきます。

 入り口の大扉の前まで来て、私は目を見張りました。

 扉の前に立っていたのは氷雨様でした。

 昨日とお召し物は同じまま、寝ていないのか目の下にうっすらと隈を浮かべておられます。

 主の姿に一気に力が抜けるのを感じました。

 私の特徴を衛士に告げ、牢から出してくれたのは氷雨様だったのです。

 衛士たちは、私を氷雨様の前に投げ出しました。

「縄を解け」

 氷雨様が厳かに命じると、衛士たちは舌打ちしつつ小刀で拘束していた縄を切りました。手が自由になると私ははだけた衿もとをかき合わせ、這いつくばるようにしてお傍に行きました。衛士たちは去らず、少し離れたところからこちらを見ています。

 氷雨様は腰を落とし、声を顰めて言いました。

「紫乃、よく聞け。艶夜様は奥宮に運ばれた翠嵐様のお傍に侍って一夜を過ごされた。夜が明けきれば、一度後宮に戻るために出てこられる。そこで私はお前を返してくれるよう嘆願するつもりだ」

 どこまでも落ち着いた声でした。

 氷雨様は私を取り戻すために艶夜様に直訴されるというのです。

 私は嬉しく思う前に心配でたまらなくなりました。もし直訴のせいで更なるお怒りを買ったら……と思うと身が震えました。


 やがて、奥から喪服を着た真っ白な一団が現れました。

 さらさらと衣擦きぬずれの音が聞こえてきます。艶夜様です。私はその場に平伏しました。

 先触れの下官、女官を従えた艶夜様の前に氷雨様がさっと歩み出ました。

「艶夜様、お待ちを」

「氷雨か。そのころもはどうした。其方も早う身を清めて兄上の喪に服せ」

「無礼は承知の上。しかし、どうしても今申し上げたきことがございます」

「なんじゃ」

 艶夜様のお声はぞんざいで仄かに疲労が滲んでいます。

 無理もありません、突然翠嵐様がお亡くなりになり、衝撃も冷めやらぬまま一晩を過ごされたのです。

「この者は私の奴婢ですが、昨夜間違いがありまして。翠の宮の者と誤って捕らえられたのです。陛下のご命令は絶対ですが、どうか私にお返しいただきたく。艶夜様でしたら陛下にお取りなしが可能かと」

「……婢、面を上げよ」

 降ってきた声に、私は頭を上げました。

 すぐ目の前に艶夜様が立っておられました。

 やはり以前夢で見た伊邪夜様と全く同じお顔でした。

 伊邪夜様……艶夜様は伊邪夜様……?

 いいえ、いくら生々しかったといってもあれは夢なのです。一緒にしてはいけません。

 上から下まで雪のように真っ白な装束を纏い、前で組んだ手を袖に隠しておられます。

 装身具は一切身につけておられませんが、簡素な様が返って清廉な美しさを引き立てています。通夜で泣かれたのか、つぶらな瞳は縁が赤く染まっておられました。

 唯一のごきょうだいであり、仲睦まじかった翠嵐様が何者かにしいされたのです。その悲しみに深く打ち沈んでおられるようでした。儚くも高潔なお姿に私は胸を打たれました。

「其方か。またうたな。兄上のしもべでなく氷雨の持ち物だったか」

「ご存じでしたか」

「一度宮で目にとめただけじゃ」

「艶夜様、どうかこの者にお慈悲を。私にお返しください」

 しかし、艶夜様は懇願する氷雨様に冷たく言い放ちました。

「ならぬ。兄上を亡くされた父上のお悲しみは深い。宮の者を全て兄上に添わせたい意向は覆らぬ。とく諦めるが良い。代替えはすぐにくだされる」

「いいえ、諦められません」

 艶夜様は、そこで唇の端を少しつり上げました。氷雨様の予期せぬ反抗を興味深く思われたようです。

「ほう、これは面白い。氷雨、なぜこの婢にこだわる。たかが奴婢ごときに」

「身分は関係ありません。ただ……私は自分の持ち物が私の意思と関係なく死を賜るのが嫌なだけでございます。それが例え陛下のご命令であっても」

 氷雨様は挑戦的にも、不遜にも、きっぱりと言いきりました。

 何がそんなにも主を強気にさせるのか、薄群青の目は爛々と輝き退く気配を見せません。

「この者はそれほど遊び甲斐があるか」

「ええ、良き玩具です。死ぬまで弄びます。もしこれを翠嵐様の元に埋めるというなら、今この場で斬り捨てます」

 埋める……。今、氷雨様は埋めると仰いました。

「本気か。ここを奴婢の血で汚すか」

「生憎、私は冗談が苦手です」

 氷雨様は不敵に笑いながら、腰の長剣をすらりと抜き放ちました。

 そして躊躇うことなく、私の首に鋭い刃先を押し当てました。

 あと少しでも動けば、私の首にやいばが食い込みます。

 ざっくりと、それはもう易々と皮膚を切り裂き骨を断つでしょう。

 しかし、なぜでしょうか。朝日に照り輝くやいばを見ても怖くはありません。

 ここで艶夜様のお許しがなければ私は死にます。

 牢舎に繋がれ、近々に外に引き出されて死ぬ。翠嵐様のお供として必ず死ぬ。

 いいえ、それは、それは嫌です。どうせ死ぬのなら氷雨様に斬られて死にたい。その方が苦しみは短いのです。愛する人の手にかかった方が何百倍も何千倍も幸せです。氷雨様は私に、慈悲ある死を賜ろうとされているです。

 喜びに顔が熱くなるのを感じました。死、それはすぐそこに……。

 今や感謝感激を入り混ぜた嵐となって迫り来ています。

 氷雨様は尚も言いました。

「ですが艶夜様。この者を追わせるなら、主人である私も埋めるが道理では。私は翠嵐様の近習だったのです。なぜ、私はお許しになる」

 すると、艶夜様の声音は急に優しくなりました。

「何を言うか。其方は此方の従兄弟。琉斌のはらからじゃ。どうしてはらからを埋められよう」

「……はらから。いつもそうだ。私を奴婢の子と蔑みつつ、そうして都合の良い時だけ王族になさる。そのはらからを、これまで弄んできたのは艶夜様のお身内にございます。私は……王家の玩具ではございませぬ!」

 氷雨様の激昂に、辺りは静まり返りました。

 下官も女官も顔を伏せ、決してこちらを見ようとはしません。

 艶夜様は氷雨様の顔をじいっと見つめました。

 それから、ころころと鈴を転がすように笑い出しました。

「そうか。其方、琉斌に飼われても心は死んでおらぬか……。無駄な足掻きじゃな。だが、無駄は無駄で遊ぶには良い。良いぞ。減った供御くごの頭数は合わせてやろう。その婢を許す。はよう持ち帰れ」

 そう言うと、艶夜様は私には目もくれず歩き出しました。後に女官たちが続きます。

 私をお許しになられたのです。お慈悲をくださったのです。

 その神々しいお姿を見送ると、私は再び床に頭をつけて平伏しました。

 氷雨様は長剣を鞘に戻し、深々と息を吐きました。

 厳しいお顔は崩れません。まだ深い懊悩を抱えた表情です。

「紫乃、覚えておけ。艶夜様でも陛下でもない。お前の死は私が決める。さあ、帰るぞ。屋敷に戻ったら白装束を出せ。翠嵐様のもがりが始まる」

 氷雨様は何かを振りきるように、大股で歩き出しました。

 慌てて後を追いかけます。

 私は運よく首の皮一枚繋がって助かりました……。

 ですが、牢内に残された宮の人たちはどうなるのでしょうか。

『紫乃!』

 私を庇ってくださった伊穂理様の悲痛な声が、幾度も頭の中でこだましました。




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