第十一話 水に還す者




 私は赤子から一旦目を離しました。さっと手を水平に振りました。

 冷酷極まる処分の合図でした。

 子供たちの首に次々と絹紐が巻かれていきます。足が浮き上がるほどに強い力で絞め上げられます。

「あっ、ひゃ……お、あ……ハア……」

 子供たちは窒息し、泳ぐように手を伸ばし何度も宙を掴みました。

 口から泡を吹き、目から涙を溢れさせました。

 溢れ出した水滴が、落ちながら丸まって白い床の上をころころと転げていきます。

 虹色の珠です。虹水です。虹水が、幼子のからだを滴り落ちてゆきます。

 つるりとした肌から生まれる七色の宝石が、子供たちの無残な死を色彩ってゆきます。

 虹水を持つからには、この子たちは琉斌の王族……。

 ということは私は一体……? 

 私はなぜ琉斌の子を淡々と殺めているのでしょう。

 苦しみは長くは続きません。一人、二人と力尽き床へ崩れ落ちていきます。私が彼らに死を賜ったのです。ばたばたと折り重なった子供たちの遺骸と、その周囲に散らばる無数の虹水……。

 残すは一番端に立つ年長の少年と末の赤子のみとなりました。

 私は長子と思われる少年に目を向けました。

「ひっ」

 少年は目が合うと初めて声をあげました。

 その白く柔和な顔だちはどこか見覚えがあります。

 彼は視線に我に返ったのか、目から大粒の涙をこぼしながらその場に膝をつきました。

 足ががくがく震えています。恐怖に失禁したのか、股のあたりがじわじわと濡れていきます。幸か不幸か、この少年だけは母親の死も兄弟の死も理解できる年齢だったのです。

 溢れ出した涙も虹水となって床に散らばりました。それを這いつくばってかき集めると、私に向かって差し出しました。

「母上様、お優しく慈悲深い母上様。どうか……どうかお許しください。これを、私の虹水を差し上げます。ありったけの虹水を差し上げます。虹水は万病に効く霊薬、不老長寿の薬でございます。飲めばお腹様の栄養になりますし、母上様の美貌も引き立ちます。私は死を賜った愚弟、愚妹たちとは違います。母上様のお役に立ちます。いつでもこの翠嵐めから虹水をお絞りください。ですから、どうか命だけは……命だけはお助けください」

 必死に助命を乞う少年……ああ、この方は翠嵐様だったのです。

 伊邪夜様を愛するあまり、ご自分のお子を縊り殺された皇王陛下。

 翠嵐様は虐殺された兄弟の中でただ一人の生き残りだったのです。

 ということは、私が見ているのは過去の出来事なのでしょうか。

 私は今、かつて後宮におられたという伊邪夜様の中にいるのでしょうか。

 艶夜様の生き写しという神葛の女王。

 おそらくは、かつて『私』を鎖で縛り、滑車で吊り上げて、生きながら焼いたあの美しくも恐ろしい方の中に。

 身中の異なる存在など関知しないのか、外を向いた私の声はどこまでも涼やかでした。

「水はいらぬ」

 そう言った瞬間、翠嵐様の手からパラパラと虹水がこぼれ落ちました。

 目は絶望で大きく見開かれました。

「陛下はわたしの子を琉斌の次代の王にすると仰せられた。その障害となりえる者はいかようにしても構わぬと約された」

「わ、私は王位などいりませぬ。私の望みは母上様と父上様に誠心誠意お仕えしお役に立つことだけです。他には何もいりませぬ。母上様以上に尊い方はおられません。生まれてくる御子も、私が必ずやお守りいたします」

「まことか。我の子を愛してくれるか」

「まことでございます」

 翠嵐様はしゃくりあげながら、鼻水を啜りながら懸命に声を張り上げます。

「翠嵐、其方は我にまことの忠義を尽くすと申すか」

「尽くします。なんでも致します」

「そうか。ならば……」

 そこで、私はたった一人残った女官へと視線を向けました。

 目が合った女官はああっと高く叫んで、抱いていた赤子を取り落としました。

 落ちて目が覚めた赤子は、ホギャアホギャアと火がついたように泣き出しました。

「沈めよ」

 私は再び命じました。

 今度は女官でなく、床に這いつくばった翠嵐様へ申し渡しました。これ以上とない残忍と驕慢と慈悲と慈愛を込めて。

「……はい、母上様」

 意味を理解した翠嵐様の声は掠れました。

 すっかり血の気が引き、幽鬼のような顔です。それでも立ち上がると、ふらふらと赤子へと近づいていきます。

 おのが命のために、生まれてまもないきょうだいを手にかけようというのでした。

「翠嵐様、おやめください。おやめください。いけません、なりません……」

 女官が両手を合わせて懇願しますが、翠嵐様は構わず泣き叫ぶ赤子を拾いました。

 そして、赤子をたらいの中に落としました。のみならず、全体重をかけて押さえつけました。

「ホギャアア……フガッ、ホギャ、アア、ア……」

 赤子は泣きながら水の中で暴れ、バシャバシャと何度も水飛沫を飛ばしました。翠嵐様の顔は濡れました。濡れながら、また目から涙があふれ出しました。涙は虹水となってたらいに落ちてゆきました。

 少しすると鳴き声は止みました。

 たらいの中で赤子が動かなくなると翠嵐様は手を離し、よたよたと私のところへ戻ってきました。

 その顔は笑っていました。

 泣きながらも、にたにたと笑っていました。狂気が滲んでいました。死の恐怖と初めての殺人とで、正気の箍が外れてしまったのでした。

「母上様、お言いつけを成し遂げました。私は孝行を致しました」

「良い。翠嵐、其方は我の子と認めよう。その忠義に免じて其方は許そう」

「ありがとうございます、母上様。ありがとうございます……」

 翠嵐様は再びひざまずき、私のくつに何度も接吻を繰り返しました。

 手を伸ばし頭を撫でてやると、うっとりと恍惚めいて濡れた手のまま膝に縋ってきました。

「ああ母上様、お美しい母上様。今後はこの翠嵐を頼りにしてくださいませ。なんでも致します。水がいらぬと仰るなら、毎日お花を摘んでお届けに参ります。毎日、母上様を讃えて暮らします。お花を……母上様の愛するお花を」

 ………………花。

 花とは……?

 …………え……なに?

 何か大きな声が聞こえ……




「紫乃、紫乃」

 突然名を呼ばれて、私は目を開けました。

 部屋は暗く、卓に置いた灯りの炎がゆらゆらと揺れています。

 目の前に伊穂理様の厳しいお顔がありました。

 私はいつの間にか眠ってしまい夢を見ていたのです。酷い悪夢でした。

「先程から外が騒がしいの。何か起きているんだわ」

 確かに、外からは怒号や悲鳴らしきものが聞こえてきます。

 物の壊れる音、板を蹴破るような音。バタバタと宮になだれ込んでくる複数の足音。

 私は様子を見に恐る恐る廊下に出ました。伊穂理様も後をついてきます。

「まだいるぞ。全員ひっとらえろ」

 宮に闖入してきたのは衛士でした。

 槍を振りかざし、こちらに気づくや、大股で突進してきます。

 逃げる間はありませんでした。私は首を掴まれて勢いよく押し倒されました。

 頭を打った痛みで瞬間意識が遠のきます。

 すぐに引き起こされて後ろ手に拗り上げられ、縄をかけられました。

 伊穂理様も同様に捕まり、縄で縛られています。

「何をする下郎。私は翠嵐様の采女。ただちに無礼をやめよ」

「陛下のご命令だ。翠の宮にいる者は身分関係なく全員捕らえよと」

「……なんですって」

 これは……どういうことでしょう。わけがわかりません。

 翠嵐様が亡くなって、宮で待機していただけなのに。

 私たちが一体何をしたというのでしょうか。


 宮は混乱の渦中にありました。

 私たちは縛られたまま、庭へ連れていかれました。

 周囲を見れば、見知った顔が幾つもありました。皆、私たちと同様に縛られています。抵抗して殴られたのか頬の腫れた下人もいます。その数数十名。その後もどんどんと数が増えていきます。

 どうやら本当に貴賤関係なく、宮で働く者全員が捕らえられたようでした。采女や氷雨様の同輩の近習の姿も見えます。

「立て。歩け。もたもたするな」

 一人残らず集めると、私たちはまるで重罪人のような扱いのまま宮を出て歩かされました。

 道の脇に点々と篝火が焚かれていますが、王宮内のどこへ向かっているかはわかりません。

 その時、行列を見咎めたのか遠くから私を呼ぶ声がしました。

「紫乃、紫乃!」

 氷雨様でした。忘れるはずもない主の声です。

 少しの間離れていただけなのに、ひどく懐かしく感じました。

 奥宮の方から、氷雨様が一団に向かって走ってきます。

「氷雨様。ここです、ここです」

 伊穂理様が背伸びしながら叫びました。

 しかし、衛士二人が両手を広げ氷雨様の往く手を阻みました。

「なりません。氷雨様は奥宮へお戻りください」

「なぜだ。この者たちをどこへ連れてゆく」

「陛下のご命令です。翠嵐様の従僕を捕らえ、一人として生かすなと」

 一同に、大きなどよめきが走りました。

 暗闇のあちこちから素っ頓狂な悲鳴が上がりました。

 一人も生かすな……。

 ということは、私たちはこれから殺されてしまうのでしょうか。

 なぜ……? 一体なぜ?

「紫乃は違う。あれは私の持ち物だ。生殺与奪の権利は私にある」

「ご命令です。お従いください」

 氷雨様の怒声にも、衛士たちは全く怯みません。

「嘘……何を言っているの。たわけたことを」

 伊穂理様の悲痛な叫びが響きます。

「氷雨様、どうかお助けください。紫乃も私も何もしておりませぬ。お咎めを受けるようなことは決して」

 業を煮やしたのか、後ろの衛士が私たちに向かって怒鳴りました。

「行け!」

 私は背中をどつかれよろめきながら、氷雨様の顔を見つめました。

 氷雨様も私を見つめました。

「止まるな。行け! 早く進め!」

 衛士が私の縄を掴み、ずるずると引き摺り出しました。

「紫乃!」

 再び、主の声を聞きました。

 懸命に振り向きましたが、続く人々に呑まれ、氷雨様は見えなくなってしまいました。

  

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