第十話 水に還る者
薨御……それは皇王陛下に次ぐ皇太子殿下が亡くなるという意味です。
その日の午後、やけに母屋の方が騒がしく気になって外へ出ると、ちょうど氷雨様が宮へ走りこんでくるところでした。
お顔は蒼白で私は胸が騒ぎました。
氷雨様は宮に飛び込むなり、主だった貴人を集め、翠嵐様が身罷られたことを告げました。
物陰から様子を伺っていた私は、悲しみと怒りに震える声を聞いてしまいました。氷雨様が激情されるのは滅多にないことです。
どうして、なぜ翠嵐様が……?
到底信じがたい……皆もそう思っているはずでした。
氷雨様を囲む人たちの中に伊穂理様の姿も見えました。袖で口もとを覆い、震えておられます。
「氷雨様。一体あちらで何が……」
「わからぬ。私は後宮には入れない。中の様子までは……。急ぎ奥宮へ伝令を飛ばす。一旦人を集め、後宮の入り口にて待機する他ない。中に下手人が残っている可能性もある」
「下手人! それでは翠嵐様は殺さ……」
「滅多なことを言うな。まだ何もわからぬと言った」
「私どもはどうすれば」
「ここに残れ」
そんな緊張を孕んだ会話が聞こえてきます。
騒ぎを聞きつけた下人たちもわらわらと庭に集まってきました。
不安げにことの次第を見守っています。
氷雨様は同輩の近習や衛士など男衆を集めると、また宮を出ていかれました。
女官方には部屋から出ぬよう命じられたようです。
伊穂理様が私を見つけ、裳をからげてあたふたと庭に降りてこられました。
手招きでなく呼びつけるでもなく、自ら土の上に立つとは相当に動揺しておられます。
「紫乃、とんだことになったわ。翠嵐様が……いえ、詳しいことはまだわからない。お前は氷雨様の婢。お戻りになるまで私の傍にいなさい」
それは命令でした。そのまま私の袖を引いて、ご自分の部屋へ引っ張ってゆきます。
私は付き従い、宮の東側にある采女のための広いお部屋に入りました。
「扉は開けておいて。何かあった時にすぐに出られるように」
と言われたので扉は開け放ったまま、腰を下ろした伊穂理様のお側に侍りました。
伊穂理様はすぐに私の手を握られました。指先が微かに震えています。
「離れないように」
気丈に振る舞いつつも、体温を通して伊穂理様の不安や焦燥が伝わってきました。
半刻ほどして、近習の一人が号泣しながら宮に戻ってきました。
そして、翠嵐様がお亡くなりになったのは本当だと皆に告げました。
後宮にて、何者かに襲われ首を絞められたというのです。
宮は蜂の巣を突いたような騒ぎになりました。何人もの人間が廊下をバタバタと走り抜けていきました。あちこちから女性の泣く声が聞こえてきました。
伊穂理様もしばらく茫然となさった後、その場に打ち伏してさめざめと泣かれました。一族のために翠の宮へ参ったのに、翠嵐様の死で全てが無に帰したのです。
それにしても、皇太子殿下が後宮にて白昼堂々暗殺されるなんて……そんなことがありえるのでしょうか。
皇王陛下の正室である皇后や側室にあたる妃、その他陛下に仕える女性が住まう後宮は広い王宮の中でも最も特殊なところです。四方を石造りの高い塀に囲まれ、警備は奥宮並みに厳重です。曲者が入る隙などないはずです。
後宮に入れる王族は陛下と後宮でお育ちになった翠嵐様のみですし、内部のことは秘匿されていて外には漏れてきません。現在、艶夜様以外にどういう女人が住まわれているのかもわかりません。
時が経つにつれ、次々と宮に人がやってきては色んなことを言いました。
誰もがひどく興奮し、泣き喚き、情報は
それでも彼らの言うことをまとめると、翠嵐様は艶夜様の居室の居間にて何者かに首を絞められて殺害されたとか。艶夜様と女官たちは別室にいて、宴の準備を整えて戻ったら、翠嵐様が床に倒れていたのです。首には太い縄のようなものを巻いた跡があり、顔は青紫色に腫れ上がって既に絶命されていたとのことでした。
すぐに王宮の全ての門が閉じられ、下手人の捜索が始まりました。
貴人から下働き、出入りの商人まで全員が持ち場に留め置かれ、外に出ることを禁じられました。
陽が落ちても、氷雨様は宮に戻ってこられませんでした。
暗くなると外は盛大に
炊屋だけは動いているようで、夜も更けた頃に食事が運ばれてきました。
伊穂理様は少しだけ食事を召し上がり、それから私の膝を枕にして眠ってしまわれました。私は伊穂理様に厚手の布をかけ、水だけを飲むと座ったまま目を閉じました。
疲れていました。からだではなく、昼からの騒動で心が疲れていました。
こうしてじっとしていながらも、氷雨様のことが心配でなりません。
今、王宮のどちらにおられるのか。
食事は召し上がられたのか。
おそらく今夜は泊まりになりますが、衣服の替えはお持ちなのか。
早くお戻りになりますように……。傍へ行ってお世話できますように。
それだけを願っていました。
……。
…………。
………………。
……………………。
ホギャア、ホギャア……。
どこからか赤子の泣き声が聞こえてきます。
宮の外からでしょうか。それとも中?
しきりにしゃくりあげる音も、鼻水をすする音も。
誰か、それも複数の人間が泣いているような……。
誰……?
泣き声が気になって薄らと目を開け、私は飛び上がらんばかりに驚愕しました。
そこは、先程までいた伊穂理様のお部屋ではありませんでした。
お部屋よりずっと広く、天井は高く、視界の端に金の蒔絵と水龍の彫り物が見えます。水龍……これは王宮内でよく見る琉斌の象徴です。
どうやら端瑠璃宮の一広間のようですが、入ったことのない部屋です。
以前、艶夜様の披露目で通された奥宮の玉座の間でもありません。
いつの間にこんなところに移されたのか見当もつきません。伊穂理様の姿も見えません。
しかも私は豪華な部屋の中央、一段高いところに置かれた椅子に腰かけていました。
ふと下を見れば、奇妙なことに私のお腹は丸く大きく膨れています。
腹を守るように、金糸と銀糸で細かな刺繍を施した赤い帯を巻いています。
着ている着物も肌触りの良い上質の絹です。こんな豪華な着物を着たのは初めてです。
何がなんだかわからず正面を向くと、そこには自分と同じく絹の着物を着た子供たちが一列に並んで立っていました。男児も女児もいます。十歳にも満たないような幼い子ばかりです。
一番端に、女官に抱かれた赤子の姿も見えました。
闇の中で聞いた泣き声はこの子のものだったのかもしれません。
十数人の子らは、皆きょとんとして私を見つめています。なぜここにいるのかわからないような顔です。
この子たちは一体……?
子供たちの後ろには紺の朝服を着た下官が数人並び、さらにその後ろには鎧をつけ剣を携えた衛士の姿が見えました。
これだけ沢山の人間がいるにも関わらず、広間はしいんとして不気味な静寂に包まれていました。
私の視線に気づいたのか、下官の一人が恭しく頭を下げました。
「十七名、これで全員でございます。ご側室方はご指示通り庭にて」
「ご苦労であった」
穏やかで優しい声がしました。私が発したのです。
私の口が開いて言葉を発し……いいえ、いいえ、違います。
これは私ではありません。私ならざる者が応えたのです。
私は……また私ならざる者の中にいました。
前に見た悪夢のように、私の意思に反した私が存在して勝手に声を発するのです。
目の前の布の人形を抱いた女児が、不安そうに辺りを見回しました。
「母様……? 母様はどちらですか」
私は反射的に応えました。
鈴を転がすように軽やかで、慈悲深い声でした。
「母御か。其方の母は神の
「はい。私も神の御園に行きとうございます」
女児は無邪気に笑って答えました。
無垢であり、
私も微笑みました。笑いたくないのに勝手に目が細まり、口端が反るのがわかりました。
「良い。送れ」
「はっ」
心得たように、下官が前に歩み出ました。
その手には細い白の絹紐が握られていました。
絹紐をするすると女児の首に巻きつけると、ぎゅうと両端を引っ張ったのです。
「ふぇ……? あ、あ……はっ……へ?」
女児は自分に何が起きたか全くわからないようでした。
それから強い圧迫に気づいて、自分の首に食い込んでいく紐を凝視しました。
「か、あ、さ……ま? は? ほえ……ふぁ……」
紐がぎりぎりと絞まります。
抱きしめていた人形が、ぼとりと床に落ちました。
口をぽかんと開き、舌を突き出し、小さなからだがばたつきました。
悶絶し、苦しむとさらに力が篭りました。
子供たちは絞まる首と、窒息して青黒く変色していく顔を食い入るように見つめています。女児の口からは涎があふれました。
「ヒイイイイイ……」
悲鳴をあげたのは赤子を抱えた女官でした。
見ていられないとばかりに顔を伏せ、背中を丸めてガタガタ震えています。
私は縊られて、もがき苦しむ女児から目を離しません。離せないのです。
私ならざる者がこの子の死をしかと見届けようとしています。瞬きすらせずに。
女児の手足がぶるぶると痙攣しました。
それが幼い命の最後の足掻きでした。
一線を越えてしまうと、からだは力を失いました。
ぐにゃりと折れ曲がり、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちました。
子供たちは絶句し、立ち竦んでいます。
突如として賜った『死』というものがまだ理解できないのです。
死んだ子もそうでした。命が何なのかもわからない命を、容赦なく摘み取ったのです。この……私が!
衛士の一人が水の入った大きなたらいを持って来て、女官の前に置きました。
私は尚も命じます。蕩けるように甘い声で歌うように命じます。
「沈めよ」
女官が弾かれたように顔を上げました。
「御方様、どうかご慈悲を。皇女様はお生まれあそばしてまだ
「赤子であるからこそだ。知性をつければ苦しみは増す。これ以上の慈悲はない」
「どうか、どうか寛大なご処遇を。私にはできませぬ。お許しくださいませ。お許しくださいませ……」
そのまま女官は平伏してしまい、動こうとはしません。
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