第九話 伊穂理の想い
「紫乃、紫乃」
うららかな昼下がり、しきりに私を探す声が聞こえてきます。
今までは私を呼ぶのは氷雨様のみでしたが、最近新たな方が加わりました。
柔らかな女人の声に、控えの間からひょこりと顔を出すと手招きする伊穂理様の姿が見えました。
辺りに人がいないのを確かめると私の袖を掴み、ぐいぐいと引っ張ってゆきます。意外と強引な方でこちらは逆らうことができず、なされるがままです。
宮の奥の間に行った日から、伊穂理様はなぜか私に興味を覚えたようでした。
氷雨様からあれこれと聞きだしたようで、暇ができるとこっそり下人が詰めている北の離れに遊びに来られます。
そして、私を呼び出すと決まって人のいない湖の裏手へ連れて行き、あれこれと日頃のことをお話になるのでした。確かに私なら、何を言っても上に漏れ伝わる心配はありませんが……。
伊穂理様は、琉斌の西部を治める
西郡様は神葛を攻めた際に武勲をたてたとかで皇王陛下に認められ、これを機会に宮廷内での発言力を増そうと図っているのだとか。それを快く思わぬ他の豪族と軋轢を生んでいるとも聞きます。
伊穂理様はご一族の意向で、翠の宮に参られたのでした。
同じ貴人の方々といることはなく、いつもお一人で過ごされているようです。王宮のしきたりや暮らしに馴染めず、宮の中で孤立しているという噂もありました。
いつものように湖の裏手に回ると、伊穂理様は大木の根に腰かけ、はあと疲労の滲む溜息をつかれました。
何か面白くないことがあったのでしょう。整ったお顔は冬の空のように曇っています。
「……嫌だわ。本当に嫌。息が詰まって窒息しそう。口を開けば西の山猿は生意気、黙っていれば面白味がないと言われ。着物が華やかでも地味でも陰口を叩かれ、四六時中人の目を気にして。王宮がこんなところとは思わなかった。宮仕えなどもう懲り懲り。許されるなら一日でも早く里へ帰りたい……」
そう言って、同じ采女の方々から受ける陰湿ないじめを嘆かれます。
特に地方出身であることを馬鹿にされ、田舎者と侮られるのが悲しくて仕方ないようです。伊穂理様も西郡の里では、一族の姫として大事に育てられた方です。現在との落差が尚のこと身に染みるのでしょう。
ひとしきり愚痴を言うとすっきりされるのか、諦念の滲む笑顔に戻られる時もありますが、最下層の奴婢にしか本音を吐けないというのも切ないものです。
伊穂理様は話している間、私の手をぎゅっと握っていました。
手だけではなく、時折髪や頬や胸などからだにも触れてきます。人の体温に触れていると安心するようでした。
お話を聞いていると、軽やかな笛の音が聞こえてきました。
湖の方を見ると、遠目に王族用の豪華な舟が
先を行く舟に乗っておられるのは翠嵐様と艶夜様でした。
並んで座り、翠嵐様は艶夜様の細い腰に手を回しておられます。恋人や夫婦のように仲睦まじいお姿でした。
同じ舟に扱ぎ手と女官数名を従え、続く舟に笛や琵琶や
音楽を奏でさせながら、お二人は優雅な舟遊びを楽しんでおられるのでした。風に乗って、談笑の声も聞こえてきます。
「……私は乗せて貰えなかったの」
伊穂理様が舟を見て、悲し気に呟きました。
翠嵐様のお供が叶わず、叶わないからにはすることもないので暇つぶしに私を呼び出したようです。
伊穂理様は更に自虐気味にこぼされました。
「ねぇ、紫乃。どうして私がこの宮に来たか知っている? 決まりきったこと。翠嵐様のお手つきになるためよ。采女は、殿下の側室候補なのだから。正室にはなれずとも、殿下の妻の一人になるために送りこまれたの。それが西郡の一族の望みであるから。私も当初は我こそはと意気込んでいたけれど……」
そこで伊穂理様は、ううっと声を詰まらせました。
堪えきれず溢れた涙が、すうっと頬を伝っていきます。
「……でもだめね。翠嵐様は采女などには目もくれない。やはり艶夜様とご結婚なさるつもりなのだわ。よいお年なのに一人も妻を迎えなかったのは、艶夜様の成人を待っておられたとしか」
結婚……ご兄妹で結婚などそんなことがあるのでしょうか。
お母君は違いますが、父君は同じ皇王陛下のはず……。
とそこで、私は以前小耳に挟んだ艶夜様の出生の噂を思い出しました。
艶夜様は陛下のお子ではなく、伊邪夜様と別の男性との間に生まれた方であるという。もしそれが本当ならご兄妹に血縁関係はありませんが……。
「それに艶夜様とご結婚されれば、翠嵐様の地位は
陛下は伊邪夜様のために、ご自分のお子を縊り殺した……。
確かに後宮には数多の美女がいるのに、お子様は翠嵐様と艶夜様お二人のみです。生まれなかったのではなく全員殺されていたとは……。
ですが、私は伊穂理様の話に戦慄すると同時に、どこか安堵していることにも気づきました。
兄妹でありながらも、翠嵐様が艶夜様とご結婚されるのであれば氷雨様の恋は叶いません。
氷雨様が艶夜様と結ばれることはない……。
つい、そうなってくれたらと願ってしまいました。浅ましいことです。醜いことです。艶夜様は氷雨様の希望であるのに……。
やがて舟からは楽の音に合わせ、歌声が聞こえてきました。
艶夜様が立ち上がり、片方の手は翠嵐様と繋いだままもう片方の手で緋色の扇をかざして朗々と歌い始めたのです。
藤波の咲きて盛かりし春を待つ
千歳散りても不死なるものを
藤波の咲きて盛かりし君を待つ
決して離れぬはらからの花
あなたが目覚めたときから、わたしは見ていた
帰る場所はどこにもなく
すがるべき愛も夢も希望もなく
短い命すら惜しめずに
ただただ、花弁をもぎとられ
それが尊きさだめならば
生涯にいかほどの光があったのか
わたしの手は枝となり
わたしの足は根となり
わたしの目は鳥となり
わたしの耳は祈りをきく
あなたは還る、還ってくる
あなたは咲き、わたしは包む
たとえ散っても、雨降る花弁を拾い集める
縫い合わせる、よみがえらせる
なのに気づけば
枝は広がらず胸にもつれ
根はふるえて立ち竦み
鳥はあふれる涙に溺れ
祈りはようとしてつむがれない
かりものの胸の中で
ひたすら憐憫に溺れて
思い惑うわたしの夢
咲くあなたをつつもうにも
祈りはあまりにも幼く
愚かで脆弱な嗚咽ゆえに
藤波の咲きて盛かりし春を待つ
千歳散りても不死なるものを
藤波の咲きて盛かりし君を待つ
決して離れぬはらからの花
それは、湖上で繰り広げられるなんとも不思議な光景でした。
舟上の会話はわからないのに、どうしてか歌だけははっきりと聞こえてくるのです。
切ない愛の歌が、空気に染み渡るように流れてきます。
もはや歌しか聴こえません。歌は心を打ちます。ぐわんぐわんと打ちます。
先程から、視界は艶夜様しか映しません。
あまりに美しく尊い、天上の太陽よりも月よりも神々しく輝ける御方。
愛される価値にあふれた御方。精巧な彫像のように完全無欠の美貌。心を揺さぶる鶯舌。女の私でもどうにかなっていい、どうにかされたい、そう思うほどの艶かしさ……。
またもや、感動の嵐が涙となって頬を伝いました。
隣りの伊穂理様も泣きじゃくっておられます。
紫乃、紫乃としきりに私の名を呼んで縋ってこられます。
艶夜様の歌が心の堰を落としたかのように、次々と言葉が溢れ出しました。
「……聞いて。お願いだから聞いて。私は、本当は伊穂理ではないの。伊穂理は姉の名。姉はここへ来る少し前に熱湯をかぶって酷い火傷を負ってしまった。傷ものになってしまったから、妹の私が代わりに差し出されたの。私は所詮身代わりに過ぎない。名もからだも借りものの偽者なのよ。そして、知っているの。姉の火傷は事故なんかじゃない。宮仕えを嫌がって、自ら熱湯を足にかけたの。一度王宮へ行ってしまえば、二度と里へ帰れないことを知っていたから……!」
伊穂理様は感極まって叫び、私の胸に顔を
私はそっと伊穂理様を抱きしめました。そうすることしかできませんでした。
静かに背中を
私たちは抱き合ったまま、しばらくじっとしていました。
やがて伊穂理様は顔を上げて、涙を拭いました。
「紫乃、お前は恋をしたことがある? 殿方を知っているの? ……いいえ。つまらぬことを聞いたわ。奴婢が無事でいられるわけがなかったわね」
はい。無事か無事でないかと問われたら、私の操は無事ではありません。
しかし、この世で一等愛しい人に奉げておりますから、何の悔いもありません。私の肌で氷雨様の心が慰められ、悦んでくださるならそれでよいのです。これからも、許されるなら何度でもこの身にお情けを賜りたいと思います。
伊穂理様は大きく息を吐き、私の肩に頭を乗せました。
「私にも本当は好きな人がいたのよ。父の末弟に当たる方で年下だけど、誰よりも私のことを大事にしてくれて……いずれはこの人の妻になるのだと信じていた。王族の側室より、田舎で好きな人の正室になる方がどれだけ幸せかしれないわ。姉さえ傷ものにならなければ今頃は……」
伊穂理様は、右手にはめた青銅の指輪を天にかざしました。
指輪は太く、深い緑色で細かな紋様が刻まれています。指先で何度も撫でそっと口づけられました。
「お別れの時にこの指輪を貰ったの。馬鹿だった。もう逢えないなら、ここへ来る前に私の全てを差し上げてしまえば良かった。そうしたなら少しは心が救われたのに。誰にも顧みられず、虚しい時を食まずに済むのに……」
また伊穂理様の頬を涙が伝いました。
西郡の里にいる愛しい人を思い出したのでしょうか。
一族のために翠の宮にいらしたのに、翠嵐様は艶夜様に夢中で側室になれる望みはありません。
私も伊穂理様も苦しい恋をしています。今生では許されない恋です。
ですが、まだ傍にいられるだけ私は恵まれているのかもしれません。
いずれは捨てられるとしても今だけは……。
いつの間にか、楽の音も歌も止んでいました。
舟遊びは終わったようで、舟はゆっくりと岸へ戻ってゆきます。
それを見て、伊穂理様は預けていた身を起こされました。
「……いけない。早く戻らねば」
長いようで短い暇つぶしは終わったのでした。
私は再び袖を引っ張られ、母屋の方へ戻って行きます。
伊穂理様は先程までの涙が嘘のようにしゃんとしておられます。
馬小屋の前を通り過ぎたところで、わあああと泣き叫ぶような声が聞こえてきました。
馬小屋の先は行き止まりです。
その一番奥で屈強な下人が数人、奴婢らしき女を取り押さえ後ろから羽交い絞めにしていました。髪を引っ張り頭を鷲掴みにして、なんとか固定しようとしています。
「ヒイアアアアア! お許しを、おふゅるじを……」
女はひどく殴られたのか顔が真っ赤に腫れ、口から血を流しています。
泣き叫びながらなんとか腕を逃れようとしますが、数人がかりではどうにもなりません。
男たちは頭を固定すると、無理矢理に女の口をこじ開けました。
そして、ぎらりと光る鋏(はさみ)を口に突っ込んだのです。
バチンと何かを断つような嫌な音がしました。
「ギイイイ……エエエエファ……ア!」
途端、人の声とは思えぬ奇妙極まる悲鳴が響き渡りました。
最後は声ではなく吐息のようでした。
地面にボタボタと赤いものが散りました。血でした。女の口から鮮血が溢れ出し、地面を濡らしていきます。
「見てはだめ!」
伊穂理様が鋭く叫び、私の袖を強く引きました。
足早に歩きながら、伊穂理様の横顔は恐怖に引き攣っていました。
「……まただわ。艶夜様が歌うと必ず人が死ぬ。翠嵐様が褒美に舌をお与えになるから」
それを聞いて私は肝が冷えました。
直接見聞きしなかっただけで、艶夜様の舌喰いは相も変わらず続いていたのです。
「今では歌うごとに殺されているわ。頻度は上がる一方。かの方の鶯舌は死を呼ぶの」
私たちは人のいない湖の裏手に回ったために、舌を刈り取る現場を目撃してしまったのです。
そして、取ったばかりの血も滴る新鮮な舌がこれから宮の宴卓にのぼるのです。
奴婢から切りとった舌を艶夜様は食される。
天女のような美貌に、蕩けるような艶美な笑みを浮かべて……。
誰もそれを止めない。止められないのです。
私は愕然としました。王族の華やかな舟遊びの裏で、今日も自分と同じ奴婢が虫けらのように殺されているのでした。
しかし、それは大いなる悲劇のほんの序章に過ぎませんでした。
その数日後――。
宮に飛び込んできた氷雨様の大声に、私も伊穂理様もただただ驚愕するしかありませんでした。
氷雨様は真っ青な顔で、震える声でこう叫びました。
「翠嵐様が……
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