第八話 夢見た櫛を
初夏の
庭では、氷雨様と八尋様が鉄剣で打ち合っておられます。
八尋様がお屋敷に来て以来、毎朝欠かさず行われている剣の稽古でした。
お二人ともに早起きをして、暑くなる前にからだを動かし汗を流すのです。
私は縁側にて正座し、稽古の様子を見守っていました。
「踏み込みが甘い!」
「ぐっ」
八尋様の一声に、氷雨様の剣はなんなく弾かれます。
腰を落として打ちかかっても軽々と
元から体格が違うというのもありますが、八尋様は長旅の中で何度も実戦を経験されています。諸国の町や村、山野に
対して氷雨様は一度も戦に出たことがなく、実戦の経験はありません。
日常でも常に護衛がついており身の安全は保障されていますが、武勇を誉れとする琉斌の教えに従い剣を
元服前までは市井の剣豪を屋敷に呼んで剣を習い、元服後は八尋様から指導を受けています。
八尋様が鶏磐に帰ってしまえば、しばらく……いえ、数年は会うことが叶いません。ならば、少しでも師の剣術をものにしようと瞳は真剣そのものです。
ぎりぎりとせめぎ合い鉄を削ったかと思った次の瞬間、八尋様はぶんと大きく腕を振りました。氷雨様は剣ごと跳ね飛ばされ、立ち上がったところで喉に長剣を突きつけられました。
「参りました……」
荒い息を吐きながら悔しそうに言うと、八尋様は豪快に笑いながら剣を引かれました。
「ここまでにしておくか。ほどほどにしておかぬと老体に堪える」
「何を仰る。私をなんなく打ち負かしておいて」
氷雨様は軽口に呆れながらも、縁側に振り返りました。
「紫乃、私は後でよい。先生のお世話を」
ご自分よりもまずは八尋様のお世話を命じられ、さっと靴を脱ぎ部屋に入っていかれました。
私は用意しておいた水の入ったたらいと布を引き寄せました。
「おお、暑い暑い」
と、八尋様は諸肌脱ぎながらこちらにやってきます。
上半身裸になると縁側に腰掛け、広く大きな背中を向けました。
固く引き締まった筋肉が汗で濡れています。私は水に浸した布を固く絞って、おからだを丁寧に拭いていきます。
「うむ、気持ちがよい。いつもすまんな」
八尋様は手に持った長剣で膝を叩きながら上機嫌に笑います。
相手が誰であっても態度は変わりません。下々の者の奉仕にもきちんと礼を言ってくださいます。それが奴婢の私には殊更嬉しく思われます。
生来蔑まれることには慣れていますが、心の底にはやはり同じ人として扱われたい気持ちがあります。甚だ厄介で複雑な感情ですが、どうしてもそう思ってしまうのです。
首と背中を拭き終わると、八尋様は私にくるりと向き直りました。
「そうだ、紫乃。其方にも随分世話になった。今生の別れとは思いたくないが、これからは会うのも難しかろう。形見というほどのものではないが、礼に進ぜたいものがある」
そう言うと八尋様は剣を放り出し、裸のままバタバタと寝起きされているお部屋に飛び込んでいかれました。
少ししてまた出てこられましたが、その手には何か握られています。
戻ってくると、油紙に包まれた平たいものを手渡されました。
「これだ。これは
言われるがままに包みを開きました。
中から出てきたのは、なんと朱色の
先端は爪のような形をしていて、銀色の綺麗な貝がはめ込まれています。
漆の櫛……一目で大変高価な物とわかりました。
こんなものをどうして私なぞに……?
それに一般的に、異性に櫛を贈るのは求婚の意味があります。……まさか。
私の動揺を悟ったのか、八尋様は慌てて手を振りました。
「ああっ。違う、違う。そういう意味ではない。其方を妻として貰い受けようというわけではない。妻は十二分に間に合っている。というか、他所に女をつくりなどしたら嫁に八つ裂きにされる。俺はまだ死にたくないのだ。この櫛は土産用に買った。郷には、ちょうど其方と同じくらいの娘がいてな」
娘……これまた驚きです。八尋様にご息女がいたとは初耳です。
奥方様はまだしもお子様までおありだったとは。
しかも私と同じ年頃とは俄かには信じられません。
八尋様は少し気恥ずかし気に頭を掻きました。
「別に娘のことを隠していたわけではない。しかし、口にするのも不憫な子でな。生来不治の病におかされて、外どころか床からも出られぬ身なのだ。殆ど死に体ゆえ、氷雨殿に話すのも
私は再び櫛を見ました。
陽の光を受けて、飾りの貝がきらきらと輝いています。眩しさに目を眇めてしまいます。
こんな美しい貴重なものを、本当にいただいてもよいのでしょうか。
ご息女と私では、あまりに身分の隔たりがあるのに……。
八尋様も手中の櫛を見つめながら神妙に言われました。
「俺が諸国を旅するのは、娘の病を治す薬を探す目的もあった。当初は名医を求めたが、医者は山国には来てくれぬ。これまで万病に効くというありとあらゆる薬を買って持ち帰ったが効き目はなかった。もし、あと試すとしたら虹水くらいのものだが……」
虹水……また意外な言葉が出てきました。
虹水は琉斌の王族のみが持つ虹色の水珠。まさか虹水は難病を治す薬でもあるのでしょうか。
八尋様の声は、どこか苦しげでした。
「だから、俺は尚のこと氷雨殿に鶏磐に来て貰いたかった。一粒、二粒でも虹水を分けてもらえれば……。いや、だめだ。こちらの事情に友を巻き込むなぞ恥ずべきこと。どう足掻いたところで娘は長くない。もう俺も嫁も諦めているのだ。あれは業病からは逃れられぬ。元から生きられぬ運命だったのだ……」
深い煩悶を振りきるように、八尋様は勢いよく立ち上がりました。
何事もなかったように、いつもの明るい笑顔に戻りました。
「櫛がいらぬなら売れ。そこそこの金になる。俺は少し休む。朝餉ができたら呼んでくれ」
私はありがたく櫛を受け取り、たらいをもって立ち上がりました。
八尋様は立ち去りかけたところで、一度足を止めて振り返りました。
「そういえば紫乃、これも前々から疑問に思っていた。其方は……自由の身にはなりたくないのか。このまま氷雨殿に飼われているのが幸せか?」
どういうことでしょうか。
私の幸せ……そんなことは考えてみたこともありません。
私は奴婢に生まれ、奴婢として死んでいきます。
元から決まりきったことです。買われたからには主である氷雨様の傍にあることも、尽くし続けることも。
八尋様は尚も淡々と続けます。
「他国の事に口を出すのは野暮だが、俺は常々奴婢という存在が不思議でならぬ。鶏磐にも身分はある。富裕の者が人を使い、貧しい者は使われ続ける。春を売って暮らす者もいる。だが、奴婢というものは存在しないのだ。どんなに卑しい労働にも必ず対価があり、金子や食料や家畜が与えられる。人が人を飼うことはない。……いや、其方には難しい質問だったか。野生の狼も、
……そうです。奴婢の運命に抗うなど考えられません。
この東のお屋敷を出たところで、私にできることはないのです。
からだに刻まれた血雫の刻印が消えることはなく、身分が覆ることもありません。自由になったところで野垂れ死にするか、また捕まって虐げられるだけです。日々殴られ、犯され、命尽きるまで搾取され続けるのです。
氷雨様の庇護下にあることが私の幸せなのです。
主人の暴力に怯えずに暮らせることがどれだけ幸運なことか……。
「つまらぬ無駄口をきいたな。俺は明日ここを発つ。これからも氷雨殿と達者で暮らせ」
そう言うと、八尋様は静かにお部屋に入っていかれました。
夜になり、皆が寝静まってから、私は自室でこっそりと昼間いただいた櫛を眺めました。灯りにかざしたり、ぺたぺたと触れているうちに大きな喜びがこみ上げてきました。
本当は、ずっと櫛が欲しかったのです。
いずれは枯れてしまう生花ではなく、人の手で作られた売り物の櫛が欲しかったのです。
己には過ぎたものと知りながら、街を行く女人や王宮の女官の方々が身につけている櫛を見るたび羨ましくてなりませんでした。
何よりも艶夜様が身につけておられる金銀真珠をあしらった櫛や
私は人が思っている以上に欲深な人間です。いつも人を羨み、人が持っているものを欲しいと思ってしまいます。実際手に入れられる力もないのに。甚だ強欲で身の程知らずなのです。
櫛はいくら見ても見飽きませんでした。愛しむあまり、銀色の美しい貝に口づけ頬ずりしたりもしました。
もし氷雨様が私に櫛を贈ってくださったら……と愚かな妄想さえしました。
誰よりも愛しい主が、私を妻にと望んでくださる。
決して叶わぬ夢ですが、心で思うだけなら自由です。八尋様は私に櫛という夢を与えてくださったのです。
しかし、眺めているうちに別の不安もこみ上げてきました。
こんな高価な櫛を髪に挿していては誰かに見咎められ、奪われてしまうかもしれません。特に王宮の方々には分不相応と罰を受けるやも……。かといって、どこかに置いておいたら盗まれる可能性があります。
迷った末に、櫛を頭に飾ることは諦めました。
奪われるくらいなら隠してしまおうと心に決め、木箱から裁縫道具を取り出しました。
着物を脱ぐと、内側に継ぎ布を当て、針と糸を使って細長い袋を縫いました。櫛を入れるためです。袋の上部だけは縫わず、洗濯をする際には櫛を取り出せるようにしました。
表には出せませんが、これで肌身離さず櫛を持っていることができます。
一人の時に取り出して、密かに楽しむことができます。
翌日、八尋様は名残り惜しまれながら、東のお屋敷を出立されました。
氷雨様が用意した馬に食料を積み出て行かれました。
私は門の外に出て姿が見えなくなるまで見送りました。
見えなくなった後で、左胸を押さえると、確かに固い櫛の感触があります。
櫛は八尋様の形見であり、今や一番の宝物でした。
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