第五話 艶夜のひみつ
私は相変わらず氷雨様のお供で王宮に参る日々でした。
艶夜様は披露目をしたことで、王宮内は自由にお出かけができるようになりました。
今までは後宮の外へ一歩もお出になれなかったので、水を得た魚のようにあちこちを歩き回り人々に眼福をもたらしました。
とはいっても、勿論お一人ではありません。
どこへ行くにも、必ず乳母や女官が付き従っています。
翠の宮にも頻繁にお越しになり、翠嵐様と兄妹仲睦まじいひと時を過ごされているようでした。
その日も、私は控えの間にて氷雨様のお戻りを待っていました。
控えの間は厚い布で幾つも間仕切りがしてあり、従者同士が顔を突き合わせることはありません。
私はあてがわれた区画で、いつも一人で過ごしていました。
間仕切りはありますが、壁ではないので人々の話し声は聞こえてきます。
おしゃべりな人もいて、王宮内の様々な噂話が耳に入ってきます。
隣りには数人の従者がいるようで、ぼそぼそと話す声が聞こえてきました。
「……は? 皇女様は陛下のお
「なんでも皇女様の乳母が酔った拍子にぼやいたんだとよ。皇女様から虹水が
「そりゃ怪しいな。だが後宮には陛下しか入れねえはずだ。誰がどうやってお后様と通じ合えたんだ。ばれたらただじゃ済まねぇ」
「それだが、お后様は皇女様を産んでからすぐにご自害なさったって話だ」
ひそひそ話は続いていましたが、私は音をたてずに立ち上がり外へ滑り出ました。
話を聞いていて、どうにも恐ろしくなったのです。
艶夜様が陛下のお子でないなんて……本当かどうかはわかりかねますが、陛下に知られたらどれほどお怒りになることでしょう。
これは何も聞かなかったことして、炊屋の辺りをふらふらと歩いていますと、
最近翠の宮にいらした方で、すらっとお背が高く見目麗しい方です。
直接お声をいただいたことはありません。
采女は王族方のお世話をする高貴な女官ですから、私のような下賎の者に構うことはないのです。
高坏には、揚げ物の菓子が盛ってあります。
おそらく、これから翠嵐様のお部屋に運ばれるのでしょう。
伊穂理様は、奥の間に続く廊下の前まで来て立ち止まりました。
奥を覗きこむように身を屈め、また立ってという動作を何度か繰り返されました。奥へ進むことを躊躇うような素振りです。
それから諦めたように振り向き、遠くから見ている私に気づきました。
周囲を見渡し、誰もいないことを確かめると手招きされました。
「ちょっとお前。こちらへおいで」
呼ばれたからには従わねばなりません。
早足でお側へ行って、膝をつき頭を垂れました。
「このお菓子を奥の間へ持っていっておくれ。先刻、艶夜様がいらしておくつろぎの最中なの。部屋に入ったら、卓に置いてすぐ出てくるように」
降ってくる伊穂理様の声は早口でどこか焦りを帯びていました。
予期せぬお言いつけですが受けるより他にありません。
私は謹んで高坏を受け取り、それを持って奥の間へ進みました。
奥は、初めて足を踏み入れる場所でした。
翠嵐様の居室は母屋を離れ、人工の大きな湖の上に建てられています。
水辺に渡された屋根つきの橋を進むと、大きな樫の扉が見えてきました。
扉の前には、護衛の
が、どういうわけか彼らは扉の前で槍を抱えたまま
一体、何が起きたのでしょうか。
驚きつつも、摺り足で近くに寄り顔を近づけると男たちは目を閉じスースーと穏やかな寝息を立てています。
どうやらぐっすりと眠っているようです。
何故、彼らはこんなところで眠りこけているのでしょう。
務めの最中に寝たとあらば、厳罰を免れないでしょうに。
扉の向こうからは、ぽろんぽろんという琵琶の
そして、合わせるように歌声も……。
恋し、
わたしは、わたしはいずこへ
流れ流され雲のよう、水のよう
この身を契ってお慕いしても
どこにも留まれぬ根無し草
愛し、憎しは蔓の鞭
あなたは、あなたはいずこへ往くか
地を踏み、森を抜け、山を越え
わたしを振りきり、ねじり切っても
辿りつかせぬ新天地
美しい歌声は艶夜様でした。
子守唄のようにゆっくりとしながら、哀愁漂うどこか悲しげなお声でした。
しばらく歌を聞いた後、私は意を決して中に入ることにしました。
眠りこけた衛士は気になりますが、艶夜様が歌っておられるなら賊が侵入したわけではなさそうです。
そっと扉を開け、部屋へ入るとそこは西域の厚い毛織物を敷き詰めた控えの間でした。
丸い卓が置かれており、その前に采女が二人仰向けに倒れていました。
外の衛士同様に眠りこけています。
不可解すぎる出来事に戸惑い、その場に立ち尽くしていると不意に歌声が止みました。
「
高く澄んだ声に続いて、一段上がった奥の部屋の御簾が揺れました。
琵琶を持ったまま御簾を上げ、顔を覗かせたのは艶夜様でした。
そのお姿を見て、私は危うく高坏を取り落しそうになりました。
艶夜様のお召し物はひどく乱れていました。
胸元は大きく開き、痛々しいほどに細い肩が露わになっています。
淡い乳房をさらし、帯は解けかけて頼りなげに引き摺られ……何より、その蒼白のお顔。目の縁は泣いたように赤くなり、唇の紅は指で塗り広げたように滲んでいました。
御簾の奥の様子も見えてしまいました。
奥の部屋には大きな長椅子が置いてあり、その上に半裸の翠嵐様が横たわっていました。
左腕は力なく投げ出されて床に落ち、
これは一体……。
お二人はここで何をされていたのでしょう。
艶夜様は私を強く
「婢か。
詰問に、私は激しく動揺しました。質問の意味もわかりませんでした。
耳に難はありません。艶夜様の歌もお声もちゃんと聞こえます。
それ以上にあられもないお姿を見てしまったことに気づくと、慌てて高坏を卓の上に置きその場にひれ伏しました。
喉元に、一気に恐怖がこみ上げてきました。
いけない。これはいけない……。
私は惑乱しました。何も考えられませんでした。
お辞儀をして立ち上がると、お許しもなく部屋を飛び出しました。
無我夢中でした。倒れた衛士の脇を、廊下を一気に走り抜けました。
翠嵐様と艶夜様の事情はわかりません。知りたくもありません。
ですが、見てはいけないものを見てしまったことだけは確かでした。
後で何らかの罰を受けると思うと、涙がこぼれそうになりました。
王族に無礼を働いたからにはどれほど罵倒され、打擲されても仕方ありません。氷雨様にも迷惑をかけてしまいます。
息を荒げながら母屋へ戻って庭へ降りました。
心ノ臓がばくばくと脈打っています。全身から汗が吹き出しています。
泣きたいのを必死に堪え、しばらく
落ち着いてから再び濡縁に上がると、私を探していたのか伊穂理様が駆け寄ってきました。肩を強く掴まれ、揺すぶられました。
「お前、用は成し遂げたの。成し遂げたのね?」
かろうじて頷くと、伊穂理様はホッと息をつきました。
「もしや、お前も見てしまったの? 恐ろしいことよ。なんと恐ろしいこと。いくらお母君が違うとはいえ……。だめよ。見たことを他言してはだめ。王宮で口の軽い者は生かされないのだから」
伊穂理様は尚も口にできないことを興奮気味に呟いた後、まじまじと私の顔を見て言いました。
「お前は確か……氷雨様の従僕。名はなんというの?」
「……」
私は黙って俯きました。そうするしかありません。
沈黙に、伊穂理様は身分上の厳格な決まりを思い出したようでした。
「そう、言いつけを守っているのね。私はここでは新参者だし、さほど気にしないのに。いいわ、氷雨様に聞いておきます。これからも手伝ってもらうことがあるかもしれないし」
そう言うと、伊穂理様は肩から手を離し、楚々と去っていかれました。
私と話しているのを見られては困ると思われたのかもしれません。
それにしても、伊穂理様も不思議な方です。
他の女官の方々は私にお声がけどころか目もくれませんのに、直接奥に用事を申しつけるなんて……大胆というかなんというか。恐れながら、あまり貴人らしからぬ方だと思いました。
半刻ほどして艶夜様と翠嵐様が奥の間から出てこられました。
扉の前で眠っていた衛士や采女の方たちも一緒です。
お見送りのため、私も下人たちの一番後ろにひれ伏しました。
「
と鷹揚な声が響きました。
顔を上げると、翠嵐様も艶夜様も先程の乱れたお姿が嘘のようにきちんとされています。
艶夜様が、私の顔をじっとご覧になりました。
先程の無礼のお咎めかと震えましたが、何も仰らず、供を引き連れて出て行かれました。氷雨様は衛士と後に続き、艶夜様を後宮まで送っていかれるようです。
私が見間違いをしたのかと思うくらいに、その華奢な後ろ姿は泰然としておられます。
お咎めを受けなかったことにホッと胸を撫で下ろしました。
奥の間で見たことは努めて早く忘れようと思いました。
翠嵐様が艶夜様をお招きになると、後日返礼として後宮からお招きがあります。その招待の礼として、また翠嵐様は艶夜様を翠の宮へお招きになります。
こうして延々と行き来があり、翠嵐様は美しい妹君と過ごされるのがこの上なく楽しいのか、やがて毎日後宮に入り浸るようになりました。
氷雨様が翠嵐様から聞いたことには、艶夜様のお部屋の庭には大きな藤の木が植えられており、それは不思議なことに一年中花を咲かせているとのことでした。
一年中咲く藤なんて聞いたことがありません。東のお屋敷の藤とは品種が違うのでしょうか。
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