第四話 死と孤独と恍惚と




 東のお屋敷に戻ると、はや火点ひともし頃になりました。

 長いようで短い、短いようで長い一日でした。

 王宮で何があろうとも、私の役目は変わりません。

 どんなに陰惨なものを目撃しようとも、落ち込んでいる暇はありません。

 むしろ、働いていた方が余程気がまぎれます。

 私はいつものように氷雨様の夕餉の用意をし、給仕をし、湯浴みを手伝い、寝所の支度を整えました。

 氷雨様は疲れたのか、今夜は早めにお休みになりたいようでした。

 早々に着がえて寝所へ入ると胡坐あぐらをかき、引き戸をぴったり閉めさせました。

 私は一日の最後の務めを果たすべく、氷雨様の前に座りました。

 お話を聞くためです。

 寝る前のひととき、氷雨様は私に色々なことを話されます。

 六年前にこのお屋敷に来た時からそうでした。

 下女の私を日記代わりとして、外で見聞きしたこと、街の噂話、琉斌の歴史や地理、王宮でのこと、ご自分の考え等々をつらつらとお話になるのです。

 饒舌な時もあれば何度も沈黙を挟む時もあり、楽しいことがあれば笑い、ごく稀に愚痴もこぼされます。

 成人される前は、杏奴様も交えてお話になりました。

 お二人の会話や笑い声を聞くだけで、家族や家庭というものを知らない私も、胸がぽうっと熱くなったものです。

 私は氷雨様のお話から色んな言葉を知り、覚えることができました。

 私の知識の殆どは、氷雨様から伝え聞いたことなのです。


 燭台の火がちろちろと揺れて、憂いに満ちたお顔を照らし出しています。

 少し躊躇うような素振りを見せた後、氷雨様はゆっくりと口を開きました。

「紫乃、今日はお前も疲れただろう。随分とむごいものを見せた。だが、ああいう残虐な振る舞いも仕方がないことなのだ。琉斌の民は勇猛を尊ぶ。王や王に連なる者は、多くの敵をほふり蹂躙してこそ英傑と称えられる。今は戦がないゆえ、ああいう残忍なことをして王族の権威を示すしかないのだ。一種の見世物だ。艶夜様も好き好んで舌を食べたとは思えぬ」

 ……そうなのでしょうか。

 盆の上の舌を見た時のパッと輝いたお顔。

 私には、艶夜様は自らの意思で人の舌を食べたように見受けられました。

 あれも演技なのでしょうか。喉や声によいと言われて、不承不承ふしょうぶしょう食べているのでしょうか。

 疑念が顔に出たのでしょう。氷雨様は苦笑されました。

「理解できぬという顔をしているな。まあ、私もそうだ。私も車引きを殺されて辛い。奴婢は持ち物であるが牛馬とは思わん。人牛などとはあまりな仰りようだ。私の母も奴婢だ。母が畜生なわけがない。私が人と牛の合いの子なわけがない」

 強く言いきりながらも、氷雨様の声はさらに沈みました。

 お母君の杏奴様のことを思い出されたのでしょう。

 杏奴様……。私も三年前の悲しいお別れを思い出しました。


 元々、杏奴様が王宮を出されたのは、王弟殿下の正室や側室方からの苛烈ないじめが原因でした。卑しい奴婢が王族の寵愛を受けるなど、高貴な身分の方には屈辱でしかなかったのです。

 特に氷雨様をお産みになられてからいじめは激しさを増し、呼び出されて冷水や汚物をかけられる、砂や泥を食べさせられる、樫の棒で打擲ちょうちゃくされる、着物を引き裂かれる、火をつけられるなどは日常茶飯事で時には命の危険すら感じるほどでした。

 また王弟殿下はその事実を知っても悶着を嫌ってか、奥方たちをおいさめにはなりませんでした。

 杏奴様は助けてくれる人もなく、赤ん坊の氷雨様を抱えたまま日々の酷い仕打ちを泣いて耐えるより他がなかったのです。

 それでも杏奴様が王宮を出されたのは、折檻で美しいからだに傷がつくことを王弟殿下が嫌ったからでした。

 東のお屋敷に移られてから十年以上経っても、杏奴様の美貌は衰えませんでした。

 時々は密かに王宮に呼ばれ、王弟殿下のご寵愛を受けておられました。

 夕刻、王宮からお迎えが来るとお一人で出かけられ、明け方頃に戻ってこられるのが常でした。氷雨様が王宮に呼ばれることはありませんでした。王弟殿下は、氷雨様には興味を示されなかったのです。

 ところがある日、偶然王宮で杏奴様を見かけた皇王陛下がその珍しい風貌を見てご自身の後宮へ収めるよう申し渡されたのです。

 奴婢は持ち物ですから、貸し借りや譲渡もよくあることでした。

 陛下の命令は絶対です。王弟殿下であっても逆らうことはできません。

 王弟殿下は命を受け、すぐさま杏奴様に死を賜りました。毒杯であったと聞いています。

 お屋敷に戻ってきた時、杏奴様の死に顔は安らかでしたが、喉や胸には爪でむしった跡が生々しく残っていました。着物は吐血で汚れていました。

 毒を飲まされ、血を吐いて最後までお苦しみになったのです。

 杏奴様の死は私の知る中で、最も悲しい死のかたちでした。

 地獄の境遇から助け出してくれた恩人を、恩返しもできないままわずか三年ほどで失ってしまったのです。

 氷雨様は杏奴様の髪を撫で、頬を撫で、涙ながらに「父上は母上を深く愛されていたのだ」と仰いました。そう思わなければやりきれなかったのでしょう。

 後にも先にも氷雨様の涙を見たのはその時だけです。

 杏奴様の死に、私は別の意味で絶望しました。

 奴婢への愛が、世間にいう真っ当な愛ではないことを思い知ったからです。

 権勢を持つ王族から寵愛を受けても子を産んでも、大きなお屋敷を賜っても生活に不自由がなくても杏奴様は奴婢でした。奴婢は死ぬまで奴婢。決して自由にはなれず人間扱いもされず、その命はどこまでも主人の気分次第なのです。

 杏奴様に死を賜った王弟殿下も、二年前に病気で薨去こうきょされました。

 正室、側室方との間に沢山のお子がおありでしたが、皆病気や事故で夭折され、残された子息は王宮に住まわなかった氷雨様お一人のみでした。


 氷雨様は自身に言い聞かせるように、淡々と続けられました。

「私は虹水が証となって父上に認知されたが、母の身分ゆえに難しい立場に立たされてきた。私は長らく琉斌王家の中でいない者とされてきた。今は父上も亡くなり後見人もない。かくなる上は臣下として翠嵐様にお仕えし、最高位の宰相を目指すしかない。……だが、その他にも望みはある。艶夜様だ」

 私の胸は、涌きあがってくる悲しみにじくじくと痛みました。

 今や、皇女である艶夜様こそが、氷雨様の新たな希望になったのです。

「艶夜様は、私とは違って最も尊い血筋だ。琉斌と神葛の両王家の血を引いている。今日の披露目で確信したが、天性の鶯舌も神葛の血が成せるわざだろう。……そういえば、お前も神葛の生まれだったな。祖国のことを知りたいか」

 氷雨様の問いかけに、私はこくりと頷きました。

 本心を言えば故郷の神葛よりも、艶夜様のことが気になりました。

「神葛の王家は女系で、代々女王が治めていた。王族には『聖来せいらつる』という不思議な力があり、声で人を操ることができたという。

 琉斌王家も、元々は始祖の水龍から受け継いだ力を持っていた。しかし、何百年と時を経るうちに血は薄まり、虹水を持つ以外は普通の人間と変わらなくなってしまった。だからこそ、琉斌は神葛を恐れた。自分たちが失ってしまった神代の力を有している一族を、なんとしても打ち滅ぼし征服したいと願った。

 建国以来、琉斌は何度も神葛と交戦してきた。そしてとうとう十七年前、今上陛下は神葛を攻め滅ぼし、女王の伊邪夜様を捕縛した。伊邪夜様は琉斌に連行され、陛下の後宮に収められた。三年後、伊邪夜様は艶夜様をお産みになられた。ご出産の後で身罷みまかられたが、艶夜様は母君の生き写しという。……ああ、あの方が欲しいものだな。一目見て心が融けた。艶夜様をいただければ、私の道も開けよう」

 私には言外げんがいに匂わすことが、手に取るようにわかりました。

 皇王陛下に溺愛されている艶夜様の婿に収まれば、氷雨様の地位は安泰です。艶夜様自身にも王位継承権があります。次代は皇太子の翠嵐様ですが、翠嵐様にはまだ正室もお子もありません。

 万が一のことあれば妹の艶夜様が即位され、その夫君は絶大な権力を手中にできるのです。氷雨様も琉斌の王族らしく、この国を統べるための野心をお持ちなのでした。

 氷雨様は艶夜様を想ってか、何度も切なく息を吐きました。

「いかんな。酒も飲んでないのに今宵は饒舌すぎた。忘れてくれ」

 自嘲気味に笑うと氷雨様は立ち上がり、御帳台へ向かわれました。

 中に入ろうとして足を止め、少し間を置いて振り返りました。

「紫乃、おいで」

 どこまでも優しく、おおらかな声でした。

 私はこみ上げる歓喜に咽せそうになりながら、御帳台の中へ入りました。

 絹の幕がはらりと落ちると同時に抱きしめられました。

 二人で床になだれ込みました。

 御帳台の中は暗く、顔は見えません。

 それが救いでした。闇が私の生来の卑しさを隠してくれます。

 氷雨様のからだからは、着物に炊きしめた沈香じんこうの香りがしました。

 高貴な香りです。貴人にしか許されない香りです。

 元より、私などには到底手の届かない尊い方なのです。

 わかっています。今こそこの身に思い知っています。

 男の人は、元よりからだと心が切り離された生き物であると。誰かを想いつつも、他の女を抱けるものなのだと。焦がれているのは艶夜様であり、私にはお情けをかけてくださるだけなのだと。

 それでも嬉しいと感じてしまうのは、私が決定的に何も持たない空虚なはしためだからです。

 私には何もありません。本当に何もありません。

 人は生まれが全てなのに、艶夜様のような美貌も鶯舌も地位も財産も、人として扱われる身分さえもありません。

 完全なからだでもありません。生まれつきの欠陥品です。価値のない駄馬です。落伍した牛です。

 せいぜい言うことをよく聞いて、身の回りのお世話をするくらいしかできません。どんなに誠心誠意尽くしたとて、氷雨様の出世のお手伝いも叶いません。

 闇の中、肌と肌とが触れあいました。

 氷雨様は私を抱きしめ、口づけてくださいました。

 私も懸命に応えました。ひしと縋りつきました。悦んでいただきたくて、昼間では考えられないほど大胆に振る舞いました。

 さらけ出した左の乳房を掴まれました。

 刻まれた血雫の刻印をなぞるように愛撫されると、首を大きく振って身悶えしました。はしたない女です。卑しい女です。氷雨様は、その卑しい肌をいっとき愛してくださろうというのです。ありがたいことです。情け深いことです。

 それなのに、沸々と涌きあがってくる醜い思いがぎりぎりと心を苛みます。

 蔦のように上から下まで絡み合って、快楽に揺すられながらそんな資格もないのに艶夜様に嫉妬してしまいます。

 艶夜様……。美しい御方。心を蕩かすような美しい声。

 高貴な血筋、身分、権力、氷雨様に愛される全ての要素を持った御方。

 何もない私に比べ、この世の栄華、栄光の全てを手中にされている御方。

 本来氷雨様に抱かれるべき御方……。

 ああ、悔しい。悔しすぎる。嫌です。嫌です。だめです。だめです。いけません。苦しい。苦しすぎます。押し潰されそうです。熱くて熱くて、溶けてしまいそうです。

 あの方をこんな風には愛さないで。こんな風に激しくしないで。

 もしそうなったら、気が狂ってしまいます。心が壊れてしまいます。

 いいえ、壊れてしまってもいい……。壊れてしまっても!


 なるように任せていると、氷雨様の胸を水滴が伝っていきました。

 汗かと思いきや、幾分大きな珠で闇の中できらりと光ります。

 虹水でした。肌から、虹水がこぼれています。

 氷雨様は私のなかで心安らいでいるのです。他ならぬ、私のなかで。

 思わず胸に口づけました。こぼれた虹水を口に含みました。

 ちゅうと吸い上げて、つるんと呑み込んでしまいました。

 氷雨様、許してください。私は罪を犯しています。

 貴方様の何であっても欲しいのです。

 貴方様を愛しています。この世で唯一、私を牛馬扱いしない貴方様を愛しています。人間もどきの私に、貴方様こそが人間らしい感情を植えつけたのです。私に人を愛することを覚えさせたのです。貴方様の心に沿いたくて、これまで生きてきたのです。貴方様は私の全てです。

 わかっています。この恋は許されません。

 許されないのに、それでも欲しいのです。水一滴すら欲しいのです。

 わかっています。これまでがあまりに幸福すぎたのです。恵まれすぎていたのです。呑気に貴方様の情けに溺れていられたのです。

 わかっています。嫌というほどわかっています。

 いつかは貴方様も然るべきところから、正式な奥方を迎えられる。

 艶夜様でもそうでなくとも、別の方の夫君になってしまわれる……。

 貴方様は未来永劫、私のものにはならないことを……!  

  

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