第三話 人牛の舌




 王宮へ到着すると車を降り、車引きと竹尾を置いて王宮の右手にある皇太宮へと進みました。

 ここは通称、みどりの宮と呼ばれています。

 翠は第一の親王、日嗣ひつぎの皇子、宮が東の位置にあるため東宮とうぐうとも呼ばれる皇太子殿下のための御色です。東は四季の春に配されており、万物生成の意を持ちます。瑞々しい翠緑すいりょくは草木が一斉に芽吹く春の色、琉斌の繁栄を願うめでたい色なのです。

 そのため、建物の青にも幾分翠が混ざっています。現在は皇太子の翠嵐様がお暮らしになっておられます。

 ですが、私が翠嵐様に直接接することはありません。王宮に通い始めて半年近く経ちますが、お顔を拝することすら滅多にありません。

 翠嵐様の日常のお世話は、采女うねめと呼ばれる高位の女官が取り仕切っています。采女は地方の豪族出身の子女と定められ、貴人であることは当然の上、容姿に優れ、才長けた女性のみが選ばれます。

 私は宮の北側に位置する下人用の控えの間に詰めて、氷雨様の休憩時などにお世話をします。そのほか、この宮の方たちに命じられればお手伝いもします。


 中へ入り、廊下を歩いておりますと前から当の翠嵐様が近習を二人従えて歩いてこられるのが見えました。色が白く柔和なお顔立ちで、恰幅の良い方です。世継ぎの証である萌黄もえぎ色のお召し物を着ておられるので遠目にもすぐわかります。

 氷雨様は立ち止まり、その場で一礼しました。 

 私は膝をついて深く頭を垂れました。

 氷雨様は立ったままお迎えできますが、私は許しがあるまで拝顔は叶いません。下賎ゆえに、直に見ることも無礼になるのです。

 貴人に対しては、お声がかかるまで決して口を利いてはいけませんし、かかることもまずありません。

 氷雨様は翠嵐様の前に立ち、改めてお辞儀をしました。

「氷雨か。よく参ったな」

 翠嵐様は氷雨様に、友人にでも接するように気軽に声をかけられました。

 臣下とはいえ氷雨様は従兄弟に当たられますから、同じ王族として気安く思われるのかもしれません。

「殿下、ご機嫌うるわしく。本日も私めを存分にお使いください」

 ははは、と翠嵐様は鷹揚に笑われました。

「雑事に其方は使わぬ。同じ虹水を持つはらからなのだからな。のんびり構えておれ」

「いえ、殿下のお側にあることが私の務め。せめてどこへなりとお供を。これからどちらへ?」

「奥宮だ。艶夜えんやの成人の披露目ひろめをすることになった」

「……艶夜様が。一体またどうして。随分急なことのように思いますが」

「なに、いつもの陛下の気まぐれだ。どちらにせよ、近々きんきんに妹は披露目をする予定であった。それが今日になっただけのこと。昨夜のうちに布令ふれは出たが、今朝方正式にお召しがあって参るところだ」

「では私も父の名代として、ご挨拶をせねばなりますまい」

「良い。叔父上亡き後、王族で成年の男子は其方そなたくらいものだからな」

 と、氷雨様はこのまま翠嵐様につき従うご様子です。

 皇王陛下のおられる奥宮へ行かれるようでした。

 私は奥宮へ参れる身分ではないので、ここで一旦お別れです。

 頭を下げたまま、じりじりと後ろへ後ずさりました。

 しかし、そこで翠嵐様は意外なことを言い出されました。

「そこな下女も連れてよい」

「ですが、この者は……」

「構わん。一人でも多くの者へ披露目をとの陛下の仰せだ。下々の者にも眼福を与えよう」

「ありがたき幸せ。この者にとってもこの上ない名誉となりましょう」

 氷雨様は私へ振り向き、黙って目配せしてついてくるよう命じました。

 私は立ち上がり、頭を下げたまま粛々と後に続きました。



 王宮の正面に位置する正殿は、各国の大使や来訪者を迎えるところです。

 玄関口に当たるところで様々な役所が置かれ、その奥にある奥宮にて政が行われています。また奥宮は皇王陛下がお暮らしにになっているところでもあります。

 当然警備も厳重で、入るのは初めてでした。道行く人々も立派な方ばかりで、私のようなはしためは気後れするばかりです。

 氷雨様の背に隠れるようにして、玉座の間へ入りました。

 玉座の間はどこもかしこも群青色で、壁や天井には波打つ金の文様が描かれています。まるで水底にいるようです。

 太い柱の全てに、琉斌王家の始祖である水龍が彫られています。

 巨大な水龍は獰猛どうもうな目をかっと見開き、人間を鋭い爪で掴んで喰らおうとしています。供物は大抵子供や若い娘で、服を引き裂かれ腕や足を失い、恐怖と絶望に歪んだ顔で水龍を仰いでいます。

 恐ろしい絵ですが、琉斌の武勇を誇る定番の構図でもあり、街中でも似たような版画や彫り物が売られています。


 玉座の間には、既に多勢の人が集まっていました。

 周囲を伺うと、確かに身分を問わない寛大なお披露目のようで、翠の宮の女官や下働きの姿もありました。既に拝顔の許しを得ているようでした。

 階段の上の玉座には、皇王陛下が腰かけておられます。

 この国を統べる皇王陛下を拝するのはこれが初めてでした。

 でっぷりと太っておられ、髭を生やしたいかついお顔だちです。

 即位されて三十余年、何度も近隣諸国にいくさをしかけ、とうとう隣国の神葛を滅ぼされた恐ろしい御方です。

「陛下、お待たせしました」

 翠嵐様はまっすぐ玉座に進まれ、皇王陛下に向かって一礼すると、陛下の右隣に立たれました。

 氷雨様へのお声がけは特にありませんでした。

 臣下と同じく下座に立ったままです。

「殿下がいらして、ようやく揃いましたな」

 白い顎鬚あごひげをたくわえた老人がしずしずと進み、陛下の左隣りに立たれました。宰相様でした。この方も一度遠目にお姿を見たことがあるだけです。


 王族を始め、琉斌の高貴な方々が一堂に会する中、固唾を飲んで見守っていると「艶夜皇女おうじょ様のお成り」という先触れの声が聞こえてきました。

 しばらくして、二人の女官にかしずかれ、艶夜様が玉座の間に入って来られました。

 私はそのお姿を見て、思わず息を呑みました。

 皇女様が、この世のものとは思えないほど美しかったからです。

 肌は蝋石ろうせきのように白くきめ細かく、小さなお顔につぶらな黒曜こくようの瞳、すっきりとした鼻梁、花のように可憐な唇は神の造形としか思えないほど完璧です。長く艶やかな黒髪は結い上げて金銀の櫛を挿し、額には雫の形をした赤の花鈿かでんが描かれておりました。

 女の私ですらうっとりと見惚れてしまう、呼吸すら忘れてしまう美貌でした。

 華奢なおからだは、袖の長い白の上衣に真紅の鮮やかな背子はいし(上着)と白銀の裳に包まれ、腕に薄桃色の透き通った比礼ひれをかけておられます。

 艶夜様が纏われた真紅のお着物は、とてもよく目立ちました。

 琉斌の群青の只中ただなかにあっても呑まれず、自身の存在を主張し続ける力強い赤でした。

 声をあげる者はいませんでした。

 皆は絶句したまま、艶夜様の超絶的な美に圧倒されました。

 この世のものどころか同じ人間とは思えない……誰もがそう思っているはずでした。

 氷雨様も目を見開き、艶夜様を食い入るように見つめておられます。

 水を打ったようにしいんと静まり返る中、艶夜様は視線を集めながら玉座に進み、皇王陛下の前でお辞儀をしました。

 深い水底のような静寂を打ち破ったのは、陛下の寛闊かんかつなお声でした。

「さて、余の愛娘の艶夜だ。先日、晴れて十四となった。本日、成人の披露目を行う」

 心得たように、宰相様がつつと前に歩み出ました。

「艶夜様、お久しゅうございます。なんとお美しく成長されたことか。天女の如き輝きに、老いぼれは目がくらむばかりでございます。まさに伊邪夜いざや様の生き写しでいらっしゃる。陛下も艶夜様を前にしては、かの御方がしのばれることでしょう」

「……それを言うな」

 陛下は額に手を当て、悩まし気に目を泳がせました。

「余も最近は、これを伊邪夜と見間違うこと頻繁である。これは、あまりにそのものだ。娘でなければ、後宮に据え置いて外には決して出さぬものを。しかし、琉斌の皇女なれば王族としての務めがある。成人したからには婿を探さねばならぬ。国内くにうちで片付かなければ外に出す」

 婿という言葉に、どよめきが走りました。

 女子の成人は十四歳。

 今回の披露目は、艶夜様の結婚相手を探すためのものでもあったのです。

 私はそっと氷雨様の様子を伺いました。

 その横顔は緊張に固く張り詰め、薄群青の瞳にどこかうっとりとした熱が浮かんでいました。

 私の胸に、ちくりと針で刺されたような痛みが走りました。

 もしや氷雨様も、艶夜様の絶世の美の虜になってしまわれたのでしょうか……。

 当の艶夜様は、陛下のお言葉に驚きを隠せないようでした。

 結婚は寝耳に水のようです。

 ぱっと玉座に駆け寄られると、甘えるように陛下の膝にすがりました。

「父上、何を仰せられますのか。嫌じゃ。結婚など嫌じゃ。此方こなたはどこにも行きませぬ。この端瑠璃にいたい。琉斌から離れとうない。父上や兄上の傍にいつまでもいとうございます」

 まだ心は幼いのか懸命に訴えられますが、陛下は首を横に振りました。

「ならぬ。其方の婚姻は必定。だが、其方の意にそわぬ婚姻は強いぬ」

「本当でございますか」

「今まで、余の決定に嘘があったか。さあ、艶夜。歌うのだ。余の治世を、琉斌の繁栄を、其方の鶯舌おうぜつたたえよ」

 はい、と艶夜様は健気に頷かれました。

 意に沿わぬ結婚はしなくてすむことに安堵された様子です。

 くるりと私たちの方へ向き直りました。

 二、三度大きく息を吸うと、胸に手を当てて歌い出されました。



 かつてかつての神代かみよの頃に

 泉の龍が恋をした

 水汲み娘に恋をした

 つのりつのった愛の果て

 娘を泉に引きこんで

 やわいからだを呑み込んで

 生まれたるは虹色の皇子みこ

 琉斌よ、永遠とわに栄えあれ


 虹の珠は誰にもやらぬ

 艱難辛苦の道のさき

 東の果てに国を建つ

 龍の子はみな勇猛果敢

 大地も人も呑み込んで

 滅ぼしたるは蛮勇の徒

 そびえたつは水の都

 端瑠璃よ、永遠に栄えあれ



 それはなんという、なんという声であったのか……。

 優しく儚い小鳥のさえずりのような声が玉座の間に響き渡り、居合わせた者の心を嵐のように激しく揺さぶりました。人間がこんな声を出せるのかと思うほど、高く清澄な声でした。

 頬を熱いものが伝っていきました。

 私は泣いていました。あまりの感動に、心がせきを切って涙を溢れさせたのです。

 なんということでしょう。

 艶夜様は国一番の美貌のみならず、唯一無二の美声を持つ歌姫でもあったのです。天は、艶夜様に二物も三物もお与えになったのです。


 歌い終わると、割れんばかりの拍手が起きました。

 王族へのお世辞など微塵も感じられない、心からの賞賛でした。

 陛下が満足そうに目を細め、拍手を制しました。

「鶯舌とは、艶夜のためにある言葉。いや、うぐいすですらこの声には恥じいって泉に身を投げるだろう。自分ほどの技量では生きる価値がないとな」

「我が妹ながら、この天性の才には感服いたします。己の凡庸さが身に染みます。私にも神葛の血が入っておれば、陛下を楽しませることができたのでしょうが」

 翠嵐様が苦笑しながら、相槌を打たれます。

「翠嵐、歌の褒美は用意してあるのだろうな」

「勿論です。たった今、活きのよい者をめさせました」

 翠嵐様はそこで、自信満々に手を叩きました。

 待っていたように、銀の盆や食器を奉げた下官が数人玉座の間に入ってきました。

 翠嵐様の前でひさまずき、盆の蓋を開けて見せました。

 盆の上には赤いものが、二切れ乗っていました。

 遠目には何かの生肉のようにも見えました。

 下官が鉄箸で肉を持ち上げますと、ポタポタと血が滴りました。

 辺りに血の匂いが漂いました。

 下官はよく見えるように、一度肉を大きく掲げると、持っていた小刀で肉を手早く切り分けました。

 それを小皿に乗せると、塩や香辛料らしき茶色の粉を添え、艶夜様に差し出しました。

 翠嵐様は艶夜様に向かって優しく言われました。

「さあ、艶夜。歌の褒美だ。お前のために用意したのだぞ」

「兄上様、ありがとうございます」

 艶夜様は満面の笑みを浮かべると、小皿の肉を箸で摘まみ、何の薬味もつけずぺろりと食べてしまわれました。肉の味をしばし噛みしめました。

「ああ、美味しい。濃厚でコリコリとして、こんなに美味なものはこの世に二つとありません。舌を食べるなら人に限ります」

 艶夜様が言った瞬間、玉座の下にいる者は一様にぎょっとしました。

 女官の間からは、ひっと悲鳴が上がりました。

 私も、自分の肩がビクリと震えるのを感じました。

 ……舌。人の舌……。

 確かに艶夜様はそう言いました。

 人間の舌は美味いと……。

 盆の生肉が人の舌と知ると、背筋がすっと寒くなりました。

 舌を切るなんて。切られた人間は一体どうなってしまったのでしょう。

 周囲の動揺を感じ取ってか、翠嵐様が辺りを見回しながら言われました。

「案じるな。今回絞めたのは私の奴婢、私の財だ。手持ちの牛を屠殺したのとなんら変わらぬ。艶夜は人牛じんぎゅうの舌が好物でな。美しい声を保つ一番の薬なのだ」

 その声はどこまでも穏やかで優しいものでした。

 だからこそ返って恐ろしく感じられました。

 翠嵐様は次代の皇王となられる尊い御方。

 寛大で下々の者にお優しい翠嵐様でも、やはり奴婢は人ではないのです。牛と同じなのです。

 ……人牛。人ならぬ牛。人のかたちをしただけの畜生。

 人間以下の奴婢ならば、王族のために舌を切りとられてもいい。

 その命を刈り取ることに一片の躊躇ためらいもないのです。

「薬とあらば仕方ありませんな。艶夜様の鶯舌は国の宝でございますから。これからも我々に天福を与えていただかないと」

 宰相様が呵々かかと笑いながら言うと、辺りの空気はすうっと和みました。

 周囲の人々もつられたように笑いました。「奴婢か、それならいい」という声も聞こえてきました。

 艶夜様は尚も嬉々として、盆に残った舌を食されております。

 一切れ一切れを、じっくりと味わいながら食べておられます。

 私は気分が悪くなってきました。

 喉元が熱く胸のあたりがむかむかします。朝の忙しさにまぎれ、水しか口にしなかったのは幸いでした。ここで粗相をしたら、どんなお咎めを受けるかわかりません。吐き気を抑えて、じっと耐えるほかありません。

 氷雨様が退出されない限り、玉座の間を出ることはできないのです。

 その後は踊り子たちの歌舞があり、下々の者へも酒やご馳走が振る舞われました。それらには手をつけず、氷雨様の後ろでかしこまっていました。私の心は氷のように冷えたままでした。

 披露目の宴がお開きになると、また翠嵐様に従って翠の宮へ戻りました。

 氷雨様と別れ、午後は使用人用の控えの間で静かに過ごしました。


 陽が傾く頃に、氷雨様が戻ってこられました。

 そのお顔はひどく沈んでおられました。

 退出し、王宮の門に来たところでその理由がわかりました。

 氷雨様の御網代車はそのままでしたが、車引きの男たちの姿が消えていました。

 艶夜様の披露目で舌を切りとるため屠殺された人牛とは、彼らのことだったのです。

 それも殺してから舌を切ったのでは活きがよくないので、生きたまま切り取り、後は納屋に放りこんで放置したということでした。

 男たちは溢れる血に窒息し、のたうち回って苦しんだ後、出血多量で死んだそうです。

 翠嵐様はすぐに代わりの奴婢をお与えくださいましたので、帰りの車に不自由はありませんでしたが氷雨様は車中ずっと無言でした。 

  

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