第二話 死の残影




 それからは、毎朝のこととはいえ大忙しでした。

 手水ちょうずの後は氷雨様の髪を結い、お召し物の瑠璃紺の朝服ちょうふくを着せました。

 かんむりをかぶれば堂々たるお姿です。王宮にいらっしゃる尊い方の、どなたにも劣ることはありません。

 氷雨様は、この国の皇太子殿下であられる翠嵐すいらん様の近習きんじゅうなのです。

 新年明けてすぐに宣旨を受けて、お仕えすることになりました。

 日中は王宮へ出仕し、翠嵐様のお傍にはべって御用聞きやお話相手を務められます。お務めは、氷雨様が元服してより数年来の望みでもありました。

 私も出仕される日は王宮へお供をします。

 氷雨様が炊屋かしきやから運んだ朝餉あさげを召し上がっている間、大急ぎで自室へ戻ると身支度をしました。

 奴婢は本来、離れの大部屋で男女関係なく雑居しますが、私は氷雨様のお世話のために小さな部屋をいただいています。

 部屋といっても、物置にもならない狭さです。着物を被って横になるだけで埋ってしまいます。それでも大部屋で暮らすことを考えれば、天国のようです。

 木桶に水を張って鏡代わりとし、髪を結いましたが、飾るくしは持っていません。

 それでは、と庭に降りて藤の花を一房摘み、頭に挿しました。

 藤の花には愛着があります。

 六年前の春、私がお屋敷へ連れてこられた日もお庭の藤が満開でした。

 その日は、霧のように細かく冷たい雨が降っていました。

 雨露に濡れ、ぽたぽたと雫を垂らす藤を見て、氷雨様は名前のなかった私に「紫乃」と名づけてくださったのです。しとしとと降る雨に濡れる藤は、格別のおもむきがあると。

 しの。柔らかく、優しい響きがあります。

 氷雨様がこの名を呼ぶたび、密かに誇りに思います。

 貴方様がくれた名が、世界で一等良い名であると――。


 氷雨様のお部屋に戻り、出仕の支度が整ったところで、待っていたように廊下から男の声がしました。

「お車の準備が整いました」

 家人けにん竹尾たけおでした。

 この東のお屋敷に勤める使用人の一人ですが、奴婢ではありません。

 歳は三十過ぎの背の高い痩せぎすの男で一年ほど前に雇われました。

 知らせを受けて、氷雨様はお車へ向かわれます。私も付き従います。

 氷雨様、私、そして竹尾が続きます。

 廊下を歩きながら、私は竹尾の舐めるような視線を感じました。

 着物の内側に見えない手が滑り込んでくるような、首から背中、腰までねっとりと絡みつくような……。ゾワリと、鳥肌が立ちました。おぞましい視線でした。獣欲にまみれた視線でした。

 この男は以前から、ことあるごとに私に言い寄ってきています。

 言い寄るといっても、世間でいう恋心などというものではありません。

 私のからだを欲望のままにもてあそびたいだけです。

 暴力を以って蹂躙する、ただそれだけを目的として機会を伺っているのです。それを当然の権利と思っています。

 東のお屋敷に、女の使用人は何人もいます。

 主に炊屋での炊事、洗濯、掃除などを担当する雑仕女ぞうしめです。

 彼女たちは平民ですし、貴人に仕えるからには身元も確かです。おいそれと気軽に手は出せませんが、奴婢は違います。牛馬以下の存在ですから、身分が上の者には何をされても文句が言えません。男も女も子供も関係なく、命も性も踏みにじられ、搾取されるのみなのです。

 現在、女の奴婢は私しかおりませんから、男たちが欲望を購おうとすれば狙われるのは必然でした。

 しかし、氷雨様は相手が奴婢であっても、従僕間の暴力をお許しになりません。もし発覚した場合は、厳罰に処すと断言されておられます。

 竹尾が私に触れられずにいるのは、やはり氷雨様のおかげなのです。

 いやらしい視線くらいで済むなら、それに越したことはない……。

 そう自分に言い聞かせるのみです。



 門の前には、ぴかぴかに磨き上げられた漆塗りの御網代車おあじろぐるまが停められていました。

 半裸の奴婢の男が二人、地面に膝をついて恭しくこうべを垂れています。

 若く頑健なからだを持ち、琉斌の者ではない浅黒い肌と彫りの深い顔だちをしています。

 車も奴婢も、翠嵐様より下賜かしされたものです。

 車は通常馬や牛に引かせますが、貴人は権力の証として奴婢に引かせます。

 それも御者が車の前板に座り、畜生のごとく鞭で打ちながら走らせるのです。

 振り返ると竹尾の手には、皮紐を編んだ鞭が握られていました。

 ですが、彼が車引きの男たちを鞭打つことはありません。

 これも氷雨様に禁じられているからです。

 そのことが不満なのか、竹尾は無言のまま男たちを睨みつけ、脅すように何度も鞭をしならせました。

「今日も頼む」

 氷雨様は男たちに鷹揚に呼びかけ、車に乗り込みました。

 私も頭をぶつけぬよう気をつけながら後に続きました。

 奴婢ならば本来は徒歩かちで従わねばなりませんが、女の足は遅いという理由で同乗を許されています。

 私たちが座りますと、車引きは太いくびきを持ち上げました。

「ゆけ」

 竹尾が鋭い声で命じると、車は走り出しました。

 彼は鞭を持ったまま並走し、その後を馬に乗った護衛が二人付き従います。



 車は都の大路へと出ました。

 お屋敷は東の端にあるのでまず西へ進み、中央の大路を右折して、北正面に位置する端瑠璃はるり宮へと向かいます。皇王陛下以下、王族の方々が住まう王宮です。国のまつりごとも王宮で行われています。

 氷雨様が暑いと仰ったので、物見(窓)を開けました。

 涼やかな風がさあっと流れ込んできました。

 私はなんとはなしに、外を眺めました。

 朝の通りは、勤めに向かう者、市へ向かう者、買い物を終えて帰る者とで多勢の人で溢れています。人々は、貴人の車を見るといっせいに飛び退いて道を開けます。

「退け、退け、下郎。皇太宮に参る御車ぞ」

 竹尾の甲高い声も聞こえてきます。

 声を張り上げずとも誰も邪魔しないのですが、従者はこうして常に主人の身分と権威を示すのです。


 やがて、都で一番大きい中央市場が見えてきました。

 屋台に積み上がった新鮮な野菜、魚肉や日用品に混じって背にわらを差した十歳くらいの子供たちが見えました。

 背中の藁は身売りの証です。

 子供たちは、市で売られている奴婢なのでした。

 彼らは荒縄で一つに繋がれ、奴隷商人の呼び込みのもと、群がった客に品定めされています。

 中には服を脱がされてからだをまさぐられたり、小突かれたりしている子もいました。その顔は一様に無表情で、死んだ魚のように虚ろな目をしています。

 思わずふうっと溜息がこぼれました。

 何度見てもむごい光景ですが、他人事とは思えません。

 なぜなら私もかつては背中に藁を差され、同じ市場に立たされていたからです。

 他の者より遅く十一で売りに出され、氷雨様に買われるまで雨の日も風の日も商品として衆目に晒されていたのです。


 私は生まれながらの奴婢です。

 親兄弟の顔も名前も知りません。

 唯一わかるのは、十七年前に琉斌に滅ぼされた西の隣国・神葛みつづら国の出身であるということだけです。

 琉斌では、征服した国の民は全て奴隷、すなわち奴婢にします。

 そして奴婢のからだに「血雫ちしずくの刻印」という赤い入墨をほどこすのです。

 刻印は種類があり、私の左胸にある刻印は雫の下につる模様がえがかれています。

 これは神葛との戦勝記念で作られた刻印です。

 私は物心ついた時は琉斌の奴隷商人に飼われていました。

 奴婢は男と女で別々の小屋に隔離されていました。

 同じ奴婢の少女たちが面倒をみてくれましたが、彼女たちも十になる頃には次々と売られていきました。人の入れ替わりが激しく、遠国から連れてこられる者もいて様々な言語が飛び交っていました。

 子供のうちに売られても地獄でしょうが、売られなくてもまた地獄でした。

 器量がよくない者、からだに問題がある者は残され、昼は雑役、夜は男たちの慰み者になる運命でした。逆らえば待っているのは暴力の嵐。子を産んでも、その子も奴婢とされて売られてしまいます。大きな怪我をしたり、病気になって動けなくなると、犬猫のように山野に棄てられました。それはもう、石でも投げるように呆気なく。

 虐げられ続け、救いのない境遇に絶望した奴婢の多くが、まだからだが動くうちにと自ら命を絶ってゆきました。

 幼い頃から、私は朝起きると、縄一つで天井からぶら下がった人間もどきをよく見ました。

 ええ、それは確かに人間もどきでした。

 人と同じ姿かたちをしながらも、生涯人間扱いはされないからです。

 ざんばらに乱れた髪、青黒くなった顔。にゅるりと飛び出した眼球。

 だらりと垂れさがった手。白い足が、朝日の下ぶらんぶらんと揺れている……。足を滴ってぼたぼた落ちる糞尿の匂い。ブンブンと羽音うるさく群がる蠅。それが私の知る、最古の死のかたちです。苦しみもがいた果てに辿りつく、ひどく汚れた惨めな死のかたち。

 同じ部屋の女や子供たちは、死体を見ても悲鳴一つ上げませんでした。

 驚きも悲しみもありませんでした。日々繰り返される蛮行にも死にも慣れきっていました。

 どうあっても人間扱いされないのですから、人間らしい感情も失ってしまったのです。

 小屋は、常に死の匂いが充満していました。

 死は、当たり前のようにすぐ傍にありました。

 死は、艱難辛苦に満ちたこの世から自由になれる唯一の道でした。

 幼い私も漠然と理解していました。

 自分もいずれはこのように天井からぶら下がる、或いは山野にうち棄てられて犬に食われる運命なのだと。

 商品になるうちは食事も衣服も与えられましたが、いつも遠からぬ死を感じていました。


 実は私にも問題がありましたが、奴婢に不足したのかお金に困ったのか、奴隷商人は私を市に出しました。

 かれこれ、ひと月は立たされていたでしょうか。

 そこを偶然通りがかったのが、当時十三歳だった氷雨様と生母の杏奴あんぬ様でした。

 杏奴様は、この国では見かけない金色の髪と薄群青の瞳をお持ちでした。

 杏奴様も奴婢でした。珍しい風貌は異国の出身だからでした。

 遥か南の大陸でかどわかかされてこの国へ連れてこられ、その美貌から王弟殿下に献上されたのです。

 すぐに殿下のお手がつき、お若くして氷雨様をお産みになられました。

 その後、杏奴様は王宮を出られ、東のお屋敷を与えられてそこにお暮らしになっていました。

 杏奴様は当時、氷雨様の世話をする歳の近い下女を探されていたようでした。

 下女は奴婢でなくても良かったのですが、氷雨様が路上に立たされた私に興味を示したので、その場で買い取ってくださったのです。

 そんな価値はないのに、奴隷商人の言い値で相場以上のお金を払ってしまいました。

 こうして私は幸運にも杏奴様と氷雨様と巡り合い、お仕えすることになったのです。

 ですが、一番の恩人である杏奴様はもう……。


「また藤が増えたな」

 氷雨様の呟きに現実に引き戻されました。

 私と同じく、外を見ておられます。

 連なる屋敷の塀の向こう側には、あふれんばかりの薄紫のもやが……満開の藤の花が見えました。

 手入れされていないのか、塀を乗り越えてしだれているものもあります。

 東のお屋敷のみならず、都のあちこちで藤が争うように咲いているのでした。

「ここ数年、春になると都は藤だらけだ。そのうち水の都ではなく、藤の都と呼ばれるかもしれん」

 そう言って、氷雨様は微苦笑されました。私も曖昧に笑いました。

 心の内には昔見た死の残影がこびりついていましたが、努めて忘れようと思いました。

 今は、お仕えする大切な主がいるのですから――。


 前方の御簾みすを少し上げますと、汗だくになって走る車引きの背中が見えました。

 正面には、既に荘厳な端瑠璃宮がそびえています。

 どこもかしこも瑠璃色に塗られた美しい王宮です。

 王宮内は大小様々の川や池があり、人工の噴水が水飛沫を上げています。

 水上の建物は橋で結ばれ、どこにいてもせせらぎの音が聞こえます。

 空は爽快な青、王宮も冴え冴えとした瑠璃色とあって、視界一面が青で塗り潰されるようでした。

 水の国、水の都、水龍を始祖とする王族に相応しいお住まいです。

  

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