第一話 紫乃と氷雨




 狭雲月さくもづき(五月)の初旬のことです。

 朝ぼらけのかすかな光に誘われて引き戸を開ければ、この東のお屋敷で常々一等良いと思っているお庭は、一面薄紫のもやに覆われていました。

 空を見上げれば朧雲おぼろぐもが散り、優しい水色の下、もやはゆらゆらと風にたなびいています。

 あれはなんでしょう……?

 もしや空のおりがほんのりと赤味を帯びて、地上に沈殿したのでしょうか。

 それとも、大地を這う数多あまた生命いのちが初夏の陽気に発奮し、紫の霧を生みだしたのでしょうか。

 いいえ。当初もやと思われたものは、満開の藤の花でした。

 庭は一面、さかりに盛った藤に覆われていました。

 周囲の木々には藤のつるが絡みつき、竹で編んだ丈夫な藤棚にも縦横無尽に広がっています。

 大ぶりの房が何十と垂れ下がり、視界をあでやかに染めあげて、見る者を幻想の美へといざなうのです。

 ほんの数日前までは他の細々こまごまとした花も見えましたし、昨日見た時はまだしぼんでいたのにと、旺盛な発育にいささか呆れながら、柱に寄りかかってふうと息をつけば、背後でかすかに物音がしました。

 ポタリ。ポタリ。

 涼やかな音は、確かに二度聞こえました。

 ああ、これはいけません。戻らなくては。

 私のあるじは眠っている時、あまりに心安らぐとうっかり水に戻ってしまわれるのです。離れたものは、元の場所に戻さなくてはなりません。それが私の務めでもあります。


 新鮮な空気が入るように、引き戸を全て開きました。

 寝乱れた髪をなでつけながら、をさばいて部屋に戻ります。

 寝所の中央には、御帳台みちょうだいえられています。垂れ絹をまくって中の様子を伺いますと、寝台に横たわった主がちょうど目を開けたところでした。

 氷雨ひさめ様。それが主の御名おんなです。

 天井を見つめたまま、まだ少しぼうっとしておられます。

 空の色を少し濃くしたような薄群青の瞳が二、三度瞬きました。

 静かな湖面を思わせる双眸です。とても神秘的な瞳です。私はこの方を形づくるものの中で、瞳こそが一等美しいと思います。

 しかし、今は見惚れている場合ではありません。

 夜は去り、一日は始まっているのです。

 私は氷雨様のおからだを眺め渡し、こぼれ落ちたものを探しました。

 失いものはすぐに見つかりました。

 掛布からはみ出た右手の指先から、虹色の水珠みずたまが二つ落ちて、床に転がっていました。

 水珠はくるんと丸まって、球体になっています。

 それは確かに水……のはずですが、崩れて床に染みることはありません。

 触れると寒天のような弾力があり、光の角度によって様々な色に見え、宝石のようにきらめきます。

 世にも珍しい「虹水こうすい」でした。

 水の精霊である水龍を始祖に持つ琉斌るびん国の王族のからだは、この摩訶不思議な虹水でできているのです。

 注意深く虹水を拾うと、氷雨様の大きくすべらかな手に乗せ、ぎゅっと握りました。

 すると押された水珠は、球体を保ったまま、皮膚にすうっと吸い込まれてゆきます。

 虹水がなくなっても、そのまま手を握っていました。

 手は温かく、昨夜触れあった際の甘やかな熱の名残りを感じました。

 氷雨様がゆっくりと身を起こされました。

 豊かな黒髪は昨夜の洗髪でまだ少し湿り、ほつれたまま背に流れています。

 暑かったのか白の寝巻きははだけ、露出した逞しい胸が呼吸のたびに軽く隆起します。

 汗をかいた肌が妙に色めいて、少し目のやり場に困りました。

 自然とうつむくと、落ち着いた玲瓏れいろうな声がしました。

紫乃しの、よせ」

 どこまでも穏やかに、しかしおかし難い気品と威厳をたたえて、氷雨様は手を離されました。

 途端、かっと頬が紅潮するのを感じました。

 朝を迎えてなお、いっときのお情けにすがる浅ましい心を見透かされたようで、激しい羞恥がこみ上げてきました。

 そうです。わかっています。

 氷雨様が夢を見せてくださるのは夜のうちだけ。朝になれば、決しておたわむれにはなりません。

 氷雨様は琉斌の王族、万民の上に立つ貴人なのです。

 そして私は、牛馬以下の卑しい奴婢。天地がひっくり返っても、その身分差が縮まることはありません。

 慌ててその場に平伏し、額を床にこすりつけてお詫び申し上げますと、少ししてからからと笑う声がしました。

「ああ、そうか。手がうるおっているな。また水が滴ったか」

 お怒りの様子はなく、恐る恐る顔を上げると、氷雨様は口端をゆるめて右手の甲を見つめていました。

 私の無礼は、虹水を戻すためと気づいてくださったようです。

「私が水を零したことは誰にも言ってはならぬ」

 続く冗談には、こちらも思わず笑ってしまいました。

 できないとわかっていて、あえて揶揄からかっておられるのです。

 同時に氷雨様の矜持きょうじも感じました。

 王族が人前で虹水をこぼすことは、俗語で「七色の小便」といって、気が緩んでいる証拠とされます。とても恥ずかしいことで、本来は絶対にあってはならないことなのです。

 袖で口もとを隠した私に、氷雨様はずいっと顔を近づけてきました。

 きりりとした男らしい眉が、今は優しく垂れています。

「お前といるとどうも気安くなる。肌が先に打ち解けたか」

 そう言われると、私は喜びのあまり天にも昇る心地がしました。

 頭は恍惚にゆるゆるとけ、胸は高鳴り、からだの芯がじいんと痺れるようでした。

 私といる時は気安くなる、氷雨様は確かにそう仰ったのです。

「肌が打ち解ける」などは、殊更に罪の匂うお言葉でした。

 罪。そう、これは罪なのです。無論、罪悪を犯すのは私です。

 日頃のご温情だけで満足すべきなのに、身分もかえりみず一心にお慕いする、虹水すらこぼすほどに肌打ち解ける者として、自分だけは特別に預かりたいと大それた想いを抱き続ける……これが罪でなくてなんでしょうか。


  

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