(32)お手本

 午前中に寮に届けられた官吏の制服を確認し、その日の午後に迎えに来たアイラと共に、シレイア達は制服姿で王宮内の執務棟の見学に出かけた。


「皆、制服のサイズは大丈夫みたいね。替えの分も同サイズだから、当面は大丈夫だとして、破損したり汚れたりしたら遠慮なく資材担当官に申し出て頂戴」

「分かりました」

「それでは慌ただしいけど、今日は執務棟の案内をするわ。城内の見取り図は渡したけど、寮からの道順も今日のうちに頭の中に入れておいた方が良いわよ? 明後日からは本格的な勤務が始まるしね」

「はい、お願いします」

「頑張ります」

 シレイアだけではなく、ミリーとオルガも手にしている見取り図と周囲の様子を交互に確認しながら、硬い表情で頷く。


(そうよね。初日から迷子になって、遅刻なんてしていられないわ。今日と明日で歩き回って、大まかな構造を頭の中に叩き込んでおかないと)

 アイラはシレイア達の職場を順に回り、その他にも出向いたり使用したりする施設について説明していった。


「取り敢えず、こんなところかしら? 当面、覚えておくべき場所は一通り回ったから、あとは自分で慣れてみて。それじゃあ私は、勤務に戻るから」

「ありがとうございました」

「よく分かりました」

「もう少し見て回って、きちんと覚えておきます」

 彼女達はかなりの時間をかけて複数の執務棟を歩き回ってから、その中でも各方面に続く通路が集まっているホールで足を止めた。そしてアイラがシレイア達に別れを告げているところで、少し離れたところから横柄な声がかけられる。


「なんだ、お前達。そこを退け」

(うわ、この声ってまさか!?)

 シレイアが弾かれたように振り返ると、そこには予想に違わずグラディクトが背後に複数人を引き連れて立っていた。さすがにシレイア達は動揺したが、官吏としての経験が長いアイラは手振りで後輩達を背後に整列させて道を空け、グラディクトに向かって恭しく頭を下げる。


「王太子殿下、失礼いたしました。どうぞ、お通りください」

 礼儀正しく応じたアイラに対し、グラディクトは頭を下げている彼女達を見下ろしつつ鼻で笑った。


「はっ、女官吏どもか。こんな所で立ち話とは暇そうだな。まあ、大して仕事ができないくせに、口だけは達者な者が揃っているそうだから無理もないが」

「…………」

(なんなの? この広い通路を塞いでいたわけではないし、十分通れたわよね?)

 頭を下げながら内心で腹を立てていたシレイアだったが、続けてグラディクトはとても聞き流せない事を口にした。


「そういえば、エセリアの腰巾着も官吏になっていたんだな。あいつが裏から手でも回したか?」

(何ほざいてんのよ。大して能力もない側付きを、試験を受けさせずにそのまま自分付きにして引き連れているのは、あんた自身でしょうが)

 自分を認めて侮辱してきた相手を、シレイアはゆっくりと頭を下げながら冷め切った目で見やった。彼の背後に、学園内で側付きだった三人が控えている事実に、シレイアは心の中で悪態を吐く。するとここでアイラが一歩前に出て、彼に向かって面と向かって進言した。


「王太子殿下。彼女達は適正に選抜試験を受け、厳正な審査を通って採用された者達です。根拠のない誹謗中傷は、ご自身の威光を傷つける事になるとご理解ください」

「なんだと? 行き遅れの女のくせに生意気な。口の利き方に気をつけろ」

(黙って言わせておけば、この低脳王太子がっ!)

 とんでもない暴言にシレイアはもとより、グラディクト以外の全員の表情が強張った。さすがに腹に据えかねたシレイアが立場を忘れて怒鳴りつけようとしたが、ここで穏やかな声が割り込む。


「王太子殿下。今の発言は、明らかに彼女に対する侮辱です。即刻謝罪された方がよろしいかと」

 どうやらグラディクト達の後を追ってきたらしく、ナジェークが側付き達の背後から現れて苦言を呈した。それに対し、グラディクトがいきり立って声を荒らげる。


「なんだと⁉︎ ナジェーク、貴様、私に指図するつもりか⁉︎」

「滅相もございません。私はただ、謝罪された方が良いと助言しただけです」

「貴様の指図は受けん!」

「そうですか。それでは日報に一字一句そのように記載して、両陛下にご報告いたします」

「貴様、何を言っている‼︎」

 国王夫妻に報告と聞いて、グラディクトがギョッとした顔で怒鳴りつけた。しかしナジェークは、相変わらず淡々とした口調で続ける。


「王太子補佐官筆頭に就任の折、両陛下から要請されました。『まだ若く、経験の浅い王太子の補佐をするのは大変だろうがよろしく頼む。ついては日々の業務について、報告を上げて欲しい』と言われております」

「今は業務中ではないだろうが‼︎」

 盛大に反論したグラディクトだったが、ナジェークは当然の如く言葉を返す。


「何を仰られますか。公人として行動している場合は、その一挙一動が公務に準ずる扱い。いついかなる時でも王太子としての自覚を持って、下々の手本にならなければいけません。それは両陛下が常々口にされ、自らを戒めておられる事でもあります」

「それはっ!」

「然るに王城内、しかも業務中の官吏に対する言動には、必要最低限の礼節を持って対応する。先程の王太子殿下のお振る舞いは、それから著しく逸脱していると思われます」

「そんな事は!」

「ですが、ここですぐに自らの非を認め彼女達に謝罪したのであれば、王太子としての自覚を持って接する事ができたと両陛下もご判断くださるでしょう。どうされますか?」

 穏やかな笑顔で最後通牒を突き付けてきたナジェークに、グラディクトは癇癪を起して叫んだ。


「貴様は、一体誰の補佐官だ⁉︎」

「恐れ多くも国王陛下から直々に御下命を受けた、殿下の補佐官です」

「このっ……」

(ナジェーク様、流石だわ。陛下に任命されているからバカボンの命より陛下の指示が優先って、面と向かってはねつけるとは。まさかそれが分からない、底なしの馬鹿ではないみたいだけど)

 全く動じないナジェークを前にして、グラディクトが相手を睨みつけつつ歯軋りをする。シレイア達はどうなる事かと無言のまま成り行きを見守っていると、側付き達がグラディクトに近寄って囁いた。


「殿下……」

「ここは一つ……」

「お腹立ちでしょうが……」

 何やらこぞって宥められ、グラディクトはアイラから不自然に視線を逸らしつつ、不貞腐れた態度でぼそぼそと呟く。


「その……、先程は悪かった。言い過ぎたと思う……」

(はあ? あんた絶対、悪いだなんて思っていないわよね⁉︎ それに一体、何に対しての謝罪よっ! ふざけんじゃないわよ‼︎)

 誠実さとは程遠い態度に、シレイアは再びキレかけた。しかしそこでアイラが、再度頭を下げて礼を述べる。


「王太子殿下におかれましては、珍しい女性官吏を目に留めていただき恐縮です。それに加え、過分な激励のお言葉をいただく機会に恵まれ、皆、感動しております」

「は? 激励? 貴様、何を言っている」

 アイラの台詞に、グラディクトが本気で当惑した顔つきになった。するとナジェークも、笑顔でわざとらしく告げる。


「さすが殿下。激励の言葉を告げる為に、女性官吏をわざわざ呼び止めたとは。それを耳にされたら、両陛下も殿下の心がけに感心してくださることでしょう」

「何だと?」

(凄い、アイラさんも負けてない! この場であの馬鹿から、私達に対する激励の言葉を引き出そうとするなんて! 意趣返しとしてはなかなかよね! 当の本人は咄嗟に意味が分からなくて阿呆面を晒したけど、それが余計に痛快だわ!)

 シレイアは笑い出したいのを必死に堪え、横に並んでいるミリーとオルガもすぐにアイラとナジェークの意図を察したらしく、口元を歪めながら笑いを堪える。

 ここでアイラ達を呼び止めた理由を、相手を罵倒する為ではなく激励する為だったとしたければ、形だけでも彼女達を激励しておいた方が良いと暗にナジェークに脅されたグラディクトは、国王夫妻の心証を悪くしたくないことから仏頂面で言葉を発した。


「……まあ、せいぜい頑張れ」

 その吐き捨てるような口調は、通常であれば間違っても激励と言える代物ではなかったが、アイラは満足げに笑いながら再度頭を下げた。


「彼女達も感激のあまり、言葉が出ない様子です。誠にありがとうございます。それでは御前、失礼いたします」

 彼女は同様に一礼したシレイア達を引き連れ、踵を返してそのホールを離れた。そして角を曲がったところで足を止める。


「え、ええと……。もう喋っても大丈夫よね?」

「びっくりした……。いきなり王太子殿下が出てきたと思ったら、あんな事を言い出すんだもの」

「以前から思っていたけど、本当に失礼な奴よね! まだ勤務を始めていない私達を馬鹿にするなら分かるけど、アイラさんはベテランなのよ⁉︎」

 他に人通りもない事から、シレイア達は安堵して口を開いた。そこでアイラが、やんわりとシレイアに言い聞かせてくる。


「シレイア……。今からそんなに腹を立てては駄目よ? 官吏や王族の中には、あのように女性というだけで見下してくる人間が、一定数存在しているのだから」

「その筆頭が、あの王太子殿下だってことくらい、分かってはいるつもりでしたが!」

「それなら、良い予行演習になったわね」

「はあ……」

(この手の嫌味とか暴言とか、長く勤務しているアイリさんは数えきれないほど経験があるのよね。一々怒ったりせずに、聞き流すくらいにならないと駄目か。それに聞き流す以上の事をされていたものね)

 事も無げに告げてくすくすと笑っているアイラを見て、シレイアは毒気を抜かれてしまった。するとアイラが、しみじみとした口調で言い出す。


「それにしても、彼は聞いていた以上に有能みたいね。財務局に配属された時から、色々噂は聞いていたけど」

「ナジェーク様は王太子殿下の筆頭補佐官に就任されたんですね。今日知りましたけど」

「私も知ったのは先週よ。就任した直後でも、しっかり殿下の手綱を握っているみたいで流石だわ」

 心から感心している風情のアイラに、シレイア達が口々に訴える。


「でも殿下からの謝罪の言葉を引き出したのはナジェーク様でも、それに便乗して私達への激励の言葉を言わせるように、咄嗟に仕組んだアイリさんは流石です!」

「そうですよ! あの時の殿下のキョトンとした間抜け面と、激励した時の不本意そうな顔を見て、本当に胸がスッとしました!」

「官吏になったら、あれくらいできないと駄目って事ですよね⁉︎」

「あらあら、本格的に仕事を始める前に、余計な事まで教えてしまったかしら。上の人達に怒られてしまうわ。この事は内緒ね?」

 嬉々として褒めてくる後輩たちにアイラは本格的に笑い出してしまい、執務棟見学は笑顔で締めくくられたのだった。





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