whiteday's eve

「ここでダブルクリックして……あっ」


「あ、すまん」


 何度目になるのか。ひとつのマウスに二つの掌が向かい、一瞬重なった後、離れた。拝島はいじまは軽く謝るが、大野おおのはその度に鼓動が速くなるのを感じ、努めて平静を装う。


「……いえ。ダブルクリックしてみてください」


「ああ」


 二人が覗き込むパソコンの画面上では、拝島の手によってフォルダが開かれていた。デスクに座った拝島の右側に大野が立ち、操作を教えている。


「次は……あっ」


「あ、すまん」


 再びマウス上で掌が重なった。大野は、思わずビクリと腕を引く。


(みっともない……こんな気持ちになるのは、私だけなのかしら)


 ブルーライトに照らし出された、いつになく真剣な表情の拝島の横顔を、覗き見る。苦手なデスクワークをしているとは思えない程、その目は真摯な眼差しをモニターに向けていた。それを見てまた大野は、胸が僅かに痛むのを感じる。


(パソコンにヤキモチ妬くなんて……どうかしてる)


「……の。大野」


 ハッとして大野は、思考を現実に戻した。拝島がこちらを見上げ、心配そうに問うていた。


「どうした? 気分悪いのか?」


「あ、いえ! すみません、ちょっとボーっとしちゃって……」


「そうか。無理するなよ」


「はい……」


 大野は持病の喘息の発作で倒れる事が度々あったから、拝島は具合を窺うように凝視する。咄嗟に大野は切り返した。


「あ、あの、それで次は……!」


「ああ」


 視線がモニターに戻るのを見て、今度は安堵した。間近に見つめられ、頬が上気していたからだ。それを見られずに、この醜態がバレずに済んで良かったと、大野は安堵したのだ。


「次は?」


 詰めた息を整えた後、大野は言った。


「……開いたフォルダから、図を挿入してください。その方が資料が分かりやすくなるので、覚えておいてくださいね」


「へえ。なるほどな」


 大野より二年ほど先輩だというのに、初めて聞いた風に驚きながら、拝島は唸った。


「こうすると、拡大・縮小も出来ます」


 マウスを操り、大野はお手本を示す。


「よし。大体分かった」


 と言うと拝島は、大野の掌ごとマウスを握り、今まで教えられた表計算・グラフ・図の挿入などの一連の動作を復習し出す。


「あっ……」


 若干裏返った声が出てしまったが、拝島は気にも留めず初心者同然に大きくマウスを動かす。クリックされると、大野の掌に『ぎゅっ』と力が加わった。


「あ、あの……」


 蚊の鳴くような声で、大野は勇気を振り絞った。


「お前、教えるの上手いな。大野」


 今まで苦手だったパソコン操作が理解出来たのが嬉しいのか、耳を貸さずに彼女の手を握り続ける拝島に、大野は慌てた。動悸・息切れ・目眩。


(倒れそう……)


 実際、身体の力が抜け僅かに大野の左肩と拝島の右肩が触れ、ずり落ちた。


「ん? おい大野、大丈夫か!?」


 立ち上がった拝島が大野の両脇を支え、ようやく二人の掌は離れた。だが始末の悪い事に、今度は上半身が密着する。


(発作より辛い……)


「おい大野、しっかりしろ! 今、医務室に連れてってやるからな!」


 首に腕を回させられ、横抱きにされた所までは、鮮明に覚えている。後の記憶は、曖昧だ。すぐ上にある拝島の視線が、忙しなく前方と大野の顔を行き来する。


 喘息の発作では意識を失う事もあったから、ガタイの良い拝島が医務室に運んだと後から聞いて礼を言うのは日常だったが、彼がこんなにも間近に顔を寄せて、まるで呼吸を確かめでもするように心配してくれていたとは、思いもよらなかった。


「大野、もうすぐ着くからな」


「大野、おろすぞ」


「馬鹿、起き上がるな、横になれ」


 夢うつつのような意識の中に、そんな言葉が木霊した。


    *    *    *


 きっかけは、毎日の朝礼の最後、締めくくりの言葉だった。


拝島芳樹はいじまよしき大野恵おおのめぐみは残るように」


 直属の上司と部下二人揃っての呼び出しとは、大きな仕事か、はたまた始末書かとやや緊張する大野に対し、拝島は何処までも常通りだった。朝礼終わりにはさっさと外回りに出かけられるよう、既に庶務課から資料は持ち出してある。


 顧客リストのファイルとは別に、五~六枚の書類を持った部長は、それを大野に向かい差し出した。ただ黙して立つ部長に、大野は戸惑いながらも書類を受け取る。顧客の審査後、子細報告書として添付する資料なのが、ぱっと見に分かった。


「えーと……」


 資料なのは分かるが、大野はそれがひどく出来の悪いものだと判断する。見出しも無ければ、図解もなく、棒グラフにいたっては、適当に体裁を整えているだけだ。そして大野が担当者名を口に出すより早く、横から覗き込んだ拝島が飄々と言った。


「あれ。コレ、私のじゃないですか」


「そうです。拝島くん」


 部長は、あくまで静かに語る。資料にはまだ部長のサインが施されておらず、それは『未処理』の書類なのだと分かる。処理のしようが無かったのだろう。


「今月に入ってから、特に集中力に欠いているようですね、拝島くん」


 そこには、怒りも呆れさえもない。おそらく、長い間、これと似たような書類が突き返され、今日が堪忍袋の限界だったのだろう。名前を連呼するのは、部長が何か心動いた時の癖だった。


「今日中に頼みますよ。大野くん」


 多くを語らずとも、痛いほど部長のめいが分かった。もう踵を返している部長の背中に、大慌てで大野は声を上げた。


「はい! 今日中に!」


    *    *    *


「ん……」


 『恋患い』から目覚めたのは、終業のベルの音でだった。十八時。午前中に外回りを終え、ランチも済ませ一息ついてから基本操作を教え出したのは、十四時。倒れたのが、十六時頃。二時間近くも眠っていたのか、と大野は天井に光る蛍光灯から目を庇った。


(拝島さんは、喘息の発作だと思っただろうな……)


 浅ましい自分の気持ちが秘められた事に、大野はホッとさえしている己に驚いた。喘息持ちで良かったなんて。それほど、拝島に拒絶と軽蔑を向けられるのが恐かった。


 しかし思い起こせば、マウスごと握り締められた掌は火照り、抱き止められた身体にはゾクリと未知の感覚が走った。


「拝島さん……」


 呟いて、ただ自分で自分の肩を抱き締めるしか、その感覚を鎮める術を知らない大野は、もう一度医務室に独りごちた。


「拝島さん……!」


「……ん~?」


 間の抜けた返事が上がり、大野は思わず飛び上がって上半身を起こした。


「は、拝島さん!?」


 隣のベッドには、布団もかけずに寝ていたらしい拝島が、大欠伸と共に起き上がった所だった。手には一枚の書類を握っている。


(しまった……!)


 大野は、途切れ途切れの意識の中で、今日はもう発作を理由に帰ってしまおうと思っていた。だが拝島が書類を手にしているという事は、部長に『今日中に』とあれだけ念を押された報告書が、間に合わなかったのだろう。医務室に来ているという事は、大野に何かを聞きに来ていたと考える他無く。


「お~、大野。大丈夫か……?」


 まだ半分寝ぼけ眼で、書類をくしゃりと握り潰しながらその甲で拝島は瞼を擦った。大野は慌てる。


「拝島さん、報告書、グシャグシャになっちゃいますよ!」


 しかし拝島はあくまでマイペースに欠伸をしては、


「良いんだよ。それより、大野の身体は大丈夫かって聞いてるんだ」


 昼間パソコンのモニターに向けていた真剣な眼差しで問う。モニターという恋敵から拝島をさらえたような気がして嬉しくなったが、大野はそんな感情がわく事にも、自己嫌悪を感じてしまう。それに、先程の切羽詰まった声を聞かれていた事も思い出し、思わず布団を頭から被ってしまった。


「そうか……。まだ具合悪いか。まぁ、明日でも良いんだけどな」


 言われて再び、部長の『今日中』を思い出した。あの様子では、『今日中』でなければ始末書ものだろう。今しがた潜ったばかりの布団から、大野は忙しく顔を出した。


「あ、拝島さん! 手伝います!」


「いや、後はサインだけだ」


「え? 部長の?」


 ならば何故こんな所に持ってきているのか。しかも、寝惚けた拝島の手によって、その一枚の書類は、報告書として受け付けて貰えるかどうか、かなり皺がよっていた。


「いや。お前の」


「え? 処理のサインは、部長ですよ?」


「だから、これは大野宛ての報告書」


「私宛て??」


 クエスチョンマークを瞬かせながらも、大野はその皺くちゃの書類を受け取った。途端、驚きの声を上げる。それは、嬉しそうに。書類は、今朝見たものから一転、非常に見やすく優れた報告書へと変わっていた。


「凄い、拝島さん! 二時間でこんなに上達するなんて……!」


 しげしげと書類を眺める大野を見て、拝島はやや噴き出した。


「内容も、ちゃんと読んでくれないか?」


「え?」


 そう言えば、これは『大野宛ての報告書』だと、拝島は言わなかったか。不可思議に思いながら、まず大見出しを読んだ。『大野恵が、拝島芳樹にプレゼントをする可能性』。唐突過ぎて、ピンとこなかった。次に中見出しを読んでいく。『ホワイトデーは、男性から告白をする日である』『拝島芳樹が、大野恵に後輩以上の想いを寄せている確率』『拝島芳樹は、甘いものが苦手である』。


 仔細に見ると、いつ撮ったものか、図解は『微笑む大野の横顔』で、円グラフは『拝島芳樹がホワイトデーに欲しいもの』だった。だがそれは九十八%と二%にかろうじて分かれているのみだった。内訳は、二%が『酒』で──残りの塗り潰された九十八%は──『大野恵の唇』だった。


「は、拝島さんこれ……!」


 驚愕と羞恥に、一気に頬を染め上げた大野が二の句を告げずにいると、拝島がクスクスと含み笑いつつ、スーツの胸ポケットから万年筆を取り出した。有無を言わせず、大野に握らせる。拝島は、大野が震える手でこの『報告書』にサインをするまで、何時間でも待つつもりだった。


 今日は、whiteday’s eve。時間ならまだ、たっぷりある。もっとも、医務室のドアに鍵がかけられている事は、大野には知る由も無かったが──。


End.



※ホワイトデーの前日に書いたお話です。

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