うつつ

 領収書の提出は、夏休みの宿題と一緒で、毎日コツコツとこなしておけば困らずに済むのだが、そうではない人間が月末の締日になって悲鳴をあげる。


 高藤たかとう然り──。


「高藤さん……高藤さん、起きてください」


 昼間の外回りで八面六臂の活躍を見せた高藤は、一転、地味に一ヵ月分の領収書の山と戦っていたが、提出期限ギリギリになって睡魔に負け、机に伏していた。それを今井いまいが、遠慮がちに揺り起こす。


 頼まれた訳ではないが、帰り道を共にする程の仲になっていた高藤のピンチを見過ごせる筈もなく、今井も一緒に残業と相成った。あとは、高藤の額の下にある、ほぼ出来上がっている一枚を残すのみなのだが。


「高藤さん……」


「……うーん……」


「高藤さんってば」


「……ん……今井さん……?」


「そうです。提出期限を過ぎたら、始末書……」


「好きです……今井さん」


「……え?」


 見ると、夢かうつつか、高藤は薄く瞳を開けていた。表情を隠すようないつもの黒縁眼鏡はずり上がり、熱っぽい視線が眼球だけで今井を追い掛けている。


 ふだん見た事のないカオ。不意に、耳まで熱くなるのを感じながら、生真面目な性格の今井は、何か答えなくては、と思い到った。ショートカットの黒髪を、赤くなった耳を隠すように撫で付けてから、


「す……好きですよ、私も」


 消え入りそうな声で。途端。高藤が、ガバッと身を起こし、


「今、なんて?」


 と詰め寄った。


「だっだから、私も好きです。もちろん同僚として……」


「ヨッシャ。夢でも良い!」


 今井の弁解じみた後半の台詞は吹き消し、片手を小さく振り上げ、ガッツポーズをする。


「……て、あれ、夢じゃない?」


 高藤はすぐに振り上げた腕の五指をバラバラに動かすと、目を覚ました。


「高藤さん! 提出期限まであと五分です!」


「何だってっ」


 一気に現実に立ち返った高藤は、書きかけだった最後の一枚を手早く仕上げ、管理課へと走りだす。出来ない訳ではないのに、苦手意識で溜めてしまうのだ。


(ごめんなさい……高藤さん)


 本当はまだ十五分あったのに、話をそらしたくて嘘をついてしまった。あれは、夢だと言い聞かせてしまおう。


 しかし、あの時のカオと台詞が脳裡をよぎり、今井はまた血がのぼる頬を両手で隠す。


(まさか……高藤さん。貴方が私を……)


 気の合う同僚としか思っていなかった高藤の突然の告白に、今井は動悸を隠せなかった。この想いには、まだ、名前が付けられる事はない。


End.

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