幸せとは?

 普段寛容な人間ほど、怒らせると恐い。海司かいじは、それを痛感していた。特に晴美はるみは頑固な一面があり、こうと決めたらテコでも動かない事もしばしばあった。


「なぁ晴美……いい加減、機嫌直してくれよ」


「あたしは嘘が嫌いなの。最初にそう言ったでしょ?」


 確かに、付き合ってしばらくしてから、幾つか約束事を決めた。その中の筆頭に、『嘘を吐かない』の一項があったのだ。


 だが海司は嘘を吐いたつもりはない。良かれと思って言った言葉だった。


「美味ぇ」


 その一言が、始まりだった。


    *    *    *


 いつものように、海司は晴美のアパートに泊まる。明日は二人とも仕事だったから、晴美を抱くつもりはなかったが。夕食は、外食かテイクアウト、たまに世話好きの海司が晴美のリクエストを作るくらいだった。


 だが今日は、部屋に入って開口一番、晴美が言った。


「今日は、あたしが作るよ」


「ん? どうしたんだ急に」


「海司に御馳走になってばかりだから……たまには」


 そう言ってはにかんだ晴美の表情は、思わず海司が見とれるほど初々しく艶やかなものだった。もう二年余り一緒にいるというのに。晴美なりに、海司を喜ばせたいという想いの表れなのだろう。


 スーツのジャケットを脱いでワイシャツを腕捲りし、張り切ってキッチンに立つ晴美の何処か嬉しそうな背中を見て、海司は瞳を細め声なく笑った。こんな些細な事が、日々の幸せだった。


 晴美が作ったのは、パスタだった。彩りよく、肉ばかり食べる海司の健康を気遣ってか、人参やパプリカをふんだんに使っている。食器の支度は海司が手伝い、2人の『共同作業』でディナーは出来上がった。


「いただきます」


 海司が珍しくそれを言う。晴美への感謝の言葉だ。晴美は様子を伺うように微笑みながら海司を見詰めている。そんな晴美と目を見交わしながら、海司は料理に口を付けた。


「美味ぇ」


「本当?」


「ああ」


 海司の一言に声を弾ませ、晴美も一口頬張った。――が。フォークをカシャリと取り落とし、晴美は青くなった。そう言えば、レシピとにらめっこするのに夢中で、味見を忘れていた。


「海司、食べないで!」


「何でだ?」


「だってこれ……塩と砂糖、間違えてる! 美味しくない!」


 皿を下げようと手を伸ばす晴美を、やんわりと海司がさえぎった。


「いや。美味ぇぞ。俺はこれで良い」


「嘘! 甘いよこれ!」


「それはそれで良いんじゃねぇか?」


 多少潔癖の気がある晴美が、ついに怒った。


「嘘だよ! 不味いなら不味いって、ちゃんと言って!」


「お前が作ってくれたのが嬉しいから、良いんだよ」


「でも、嘘は吐かないって約束でしょ?」


「だから、嘘は吐いてない。お前の料理なら、例え炭でも美味い」


 言い合いは連なり、つい海司が余計な事を言ってしまった。晴美が、色を変えて腰を浮かす。


「墨なんか作らないよ! たまたま塩と砂糖を間違えただけじゃない! 酷いよ海司!」


(しまった…)


 思ってももう遅かった。『嘘』を吐かず正直に言った結果なのだが、晴美は著しく気分を害し、キッチンへ逆戻りしてしまった。


 海司はパスタを巻いたフォークを目線まで上げ、テーブルに片肘をつき、独りごちた。


「晴美が作るモンなら、何でも美味ぇけどなぁ……駄目か?」


 こうして小さな喧嘩を重ねて、二年余り過ごしてきた。ベッドに入る頃には、晴美の方から謝ってくる事だろう。それさえも、日々の幸せ。


 黙々と一人パスタを平らげていると、キッチンのドアが細く開いた。夜更けまで待つ必要はなかったらしい。フッと目元で笑い、海司は気まずそうにしている晴美を手まねいた。


「嘘じゃなかっただろ?」


 テーブルには、空になった海司の皿が言葉を裏付けていた。それこそが、日々の幸せ――。


End.

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