とびきりの秘密

 一日の乗務を終えて観光バス協会に戻り、後藤香織ごとうかおりは紙コップに入ったコーヒーを飲んで一息つく。左手で持ったそれをデスクに戻し、協会の制服、白い手袋に覆われたそこをチラリと見て、香織はふっと頬を緩めた。その下に、香織は秘密を持っていた。二週間前から──。


 観光バス運転手の山川歩やまかわあゆむと、バスガイドの香織が付き合い始めて三年が経とうとしていた。歩は妻と五年前から別居中で、現在は離婚調停中だ。


 幾つもの季節が過ぎ、幾つもの記念日が過ぎた。だが二人は、取り立ててイベント日に力を入れる訳でもなく、穏やかに暮らしてきた。歩が、週に六日は香織の部屋で暮らすようになるまでには、半年も必要なかった。


 それはまるで、花の一生のようだ、と香織は思う。ひと時咲いて枯れてゆくものではなく、春には花を咲かせ、夏には青葉茂り、秋には実を結んで、冬には雪化粧を施す、一年一年年輪を重ねてゆく樹木のようだと。


 そんな緩慢な幸せの中、二週間前のある日、休憩中のカフェデートで歩が悪戯に香織の左手の薬指に、ストローの袋を結び付けたのだった。綺麗にこよりにしてあったもので、簡単に形は崩れない。香織もお返しに、同じくリング状にしたものを歩の左手薬指に結ぶ。


 素早く手袋を嵌めてしまい、二人は共犯めいた笑いを漏らした。香織は、嬉しそうに、手袋の下のリングを見透かすように左手を太陽にかざした。無論そんな事をしてもリングが見える訳ではなかったが、単なる悪戯が、香織をそこまで喜ばせたのだった。


 家に帰ると、手袋と共に紙のリングも外し、枕元のサイドテーブルにあるピアス入れに大事にしまっては、また翌朝つけて協会に出勤するほどだった。


「歩さんもちゃんとつけてね」


 注文までつけて。


 そして今に至る。香織は、きゅっと左手を握り締めてから、作業日報にとりかかった。


    *    *    *


 翌朝。アラーム音にきっちり反応し、香織は目を覚ます。サイドテーブル上の目覚ましを止めると上半身を起こし、大きくひとつ伸びをしてから、隣に眠る歩を起こしにかかる。それは、毎朝の手強い儀式とかしていた。起きるまで五分はかかる。


 歩がシャワーに入るのを見届けてから、香織は朝食を作るのだった。バタートーストにスクランブルエッグ、野菜サラダ。お世辞にも料理が得意とは言えない香織だったが、それくらいは作れる。もっとも、たまに卵を焦がしてしまう事があったが。


 バスルームから大欠伸をしながら出てきた歩が、食卓についた。バスローブ一枚で、トーストに食らいつく。


 時間差で出勤する為、香織はすでに出勤用意を済ませている。ガシガシと乱暴に濡れた髪をかいて水分を飛ばしている歩に向かい、香織は玄関先から、声をかけた。


「じゃあ歩さん、遅刻しないで」


「ああ、行ってらっしゃい」


「行ってきます」



    *    *    *


 そして再び、香織はコーヒーブレイクの終わりに、左手を眺め笑む。しかしいつもとひとつ違ったのは、作業日報に取り掛かろうとした途端、携帯が鳴った事だった。ディスプレイを見ると、歩からだ。常ならば帰ってきていてもいい時間、嫌な予感がした。


「もしもし」


「香織、ごめん。今から、出てこられるか? 急病人が出たんだ、現場対応を手伝って欲しい」


 実務評価トリプルAの彼から、こんな頼みがくるとは思わなかった。これは余程困ってのものだろう、と香織はすぐに快諾した。


「分かったわ。待ち合わせ場所は何処? ……うん、分かった。すぐ行くから、待ってて」


    *    *    *


 神田にあるカトリック教会聖堂と言えば、ロマネスク様式とルネッサンス様式の歴史あるヨーロピアンな建築で有名だった。香織は歩が心配で、小型車を停めると息せき切って駆けてきた。果たして歩は、のんびりと正面奥で見事なマリア・テレサ作のステンドグラスの鮮やかな色彩を眺めていた。


「歩さん! 大丈夫なの?」


「ああ、来たか香織」


「急病人って? 残りの乗客たちは何処?」


 今にも走り出しそうな勢いの香織に、歩はあくまでもうららかに掌を上げると、その黒く長い髪を撫で付けた。


「歩さん?」


「ちょっとジッとして、香織。ついでに、目、瞑って」


「……え?」


 拍子抜けした香織が長身の歩を見上げて窺うと、人の悪い笑みと目が合った。よく考えれば、協会を通さず、歩が香織に助けを求めるなど、おかしいと思った。騙されたのだ、と気づくと同時に、怒りよりも安堵が勝って、香織は大きく吐息した。歩が喉を鳴らす。


「歩さん、貴方って……」


「良いから、目、瞑って」


 何かもの言いたげに数瞬、香織は口ごもったが、結局何も言わずに言われた通りに瞳を閉じた。衣擦れの音が僅かにしたかと思うと、手が引かれた。


「まだ開けないで」


「……うん」


 手袋が外され、ヒヤリとする金属の感触が指に触れた。


「あ」


「よし。開けても良いよ」


 予感があった。今度は、良い方の予感だ。素手の左手を目の高さまで上げると、薬指に、プラチナに輝く本物のリングが、紙のリングの上に重ねて嵌められていた。


「歩さん……これって……どうして……サイズぴったり……」


 混乱して文脈がなくなる香織に、歩が軽く噴き出した。


「いっぺんに色々聞かないで、香織」


「綺麗……」


 リングの輝きに釘付けになっている香織の顎を捕らえ、軽く頬に口付けてから、歩は囁く。


「これは、婚約指輪」


 と、紙のものを差す。


「で……これが、結婚指輪。香織、紙の方なかなか外さないから、夜中にサイズ測るの苦労したよ」


「歩さん……」


 実感がわかないからか、未だやや唖然とした表情の香織の頬を、歩はごく軽くつねった。


「ハロウ? 夢じゃないよ、痛いだろ?」


「あ! ありがとう、歩さん……!」


「受け取って頂けますか?」


 身を離し胸に手を当て、紳士が淑女にするように一礼してみせると、固まっていた香織の姿勢が、ようやく緩んだ。


「……勿論」


 と、右手で大切にその輝きをなぞる。


「汝、後藤香織は、富める時も貧しき時も……あー……何だっけ。誓いますか?」


 今度は香織が噴き出す番だった。


「歩さん。一番大事な所が抜けてる」


「あーっと……そうか。山川歩を夫にする事を、誓いますか?」


「……誓います」


 少し鼻声で、香織が言った後、歩はポケットを探った。同じデザインの、二回りほど大きいプラチナのリングが現われた。香織は無言で受け取ると、それを歩のゴツゴツした素手の左薬指に嵌める。最初からそのつもりだったのだろう、手袋は左手だけが外されていた。


 香織は、歩よりも幾つか多く誓いの言葉を述べた。


「誓います」


 ぐすぐすと、香織が俯く。


「ああ、泣くなよ。綺麗な顔が台無しじゃないか」


「だっ……て……嬉しくて……」


「誓いのキスしようか?」


 普段ならば、部屋以外でのスキンシップを嫌う香織が顔を上げた事が嬉しくて、歩は我知らず大胆な行動に出た。歯列を割って、香織の感じる部分をまさぐる。


「んんっ……!」


「痛てっ」


 軽く噛まれ、歩は退かざるを得なかった。


「歩さん! そんな誓いのキス、聞いた事ない!」


 名残に鼻の頭が赤かったが、感動も吹き飛ぶ威勢で香織が怒る。だが歩にとっては、怒っていても香織は愛しい存在だった。軽く笑い声を立て彼女を抱き締めると、


「ごめん。じゃ、もう一回」


 顎に親指をかけ上向かせると、鼻が触れ合った。喜びにしっとりと濡れている香織の大きな瞳と目を合わせたまま、一度だけ触れるキスをする。上目遣いに顎を下げ、香織は恥らった。


「これで良いだろ?」


「……うん。嬉しい。婚約指輪の方も、大事にするわ」


「紙だぞ」


「どっちも嬉しいから」


「そっか」


 その時、思い出したように教会の鐘が鳴り響いた。


「キャッ。ビックリした」


「ウェディング・ベルだな」


 一部始終を偶然見かけた神父が気でも遣ったのか、それはまさに二人の為に鳴っているとしか思えなかった。数秒、祝福されるその歓喜を味わった後、だが香織は左手に手袋を嵌めてしまった。歩も黙って倣う。同僚には、二人の関係は秘めている。これはまだ、公に祝福されるべき関係ではなかった。


「……幸せ。帰りましょう、歩さん。残業になっちゃう」


「そうだな、初夜が台無しになる」


「歩さん……! それこそ台無しよ……!」


「えっ。初夜大事だろ。俺、何か変な事言った?」


 空っとぼける歩に、香織が少しだけ笑った。


「ありがとう、歩さん……」


 二人には、秘密がある。白い手袋の左手の下に、それは眩しくプラチナに輝いている。とびきりの、秘密──。


End.

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