ANGELA
僕には好きな
三原さんは目が悪いから、いつも前の方に席を取る。だから僕は、同じ教室の時はさりげなく少し離れて後ろに座って、話しかけるチャンスを窺ってるんだ。今日も僕は、三原さんの斜め後ろ。たまたま三原さんが、鞄の側に置きっぱなしにしたまま席を離れていた携帯が鳴る。無用心だな、と僕はそれを覗き込んだ。僕の待ち受けは隠し撮りした三原さんだから、肌身離さず持っている。
着信が途切れると、待ち受け画面が表示された。それは、シベリアンハスキーの可愛い仔犬の写真だった。そう言えばこないだ、近所で空き巣があったから、番犬として飼い始めたとか言ってたっけ。
「堀川くん、何か用?」
三原さんの携帯を覗いていた所へ当の本人がやってきたものだから、僕は顔には出さなかったものの、内心焦って言い訳じみた言葉と共に振り返った。
「あ、ああ、三原さん。着信してたよ」
「あ、そうなの。ありがとう」
何の疑いも持たず、眩しい笑顔でお礼を言って、携帯を弄る。やがて急ぎの相手ではなかったのか、そのまま携帯を鞄にしまった。ふと思い付きで、言葉が口をついた。
「待ち受け、可愛いね。名前なんだったっけ?」
「あ……堀川くんでも、可愛いとか思うんだ。意外。アンジェラよ」
三原さんがコロコロと鈴が転がるように笑う。確かに俺は、高校では柔道部で、百八十七センチの
「心外だな。僕だって、犬飼ってた事あるよ」
『三原さん』って名前の犬をね。心の内に呟いて、なに食わぬ顔で話を続ける。
「だけどまた、『天使』なんて大層な名前つけたね。雌?」
そう尋ねると三原さんは、珍しく相好を崩して話し始めた。
「ううん。天使みたいに可愛いからつけたんだけど、男の子よ。毎日一緒のベッドで眠ってるの」
何!? 僕の三原さんと同衾だって!? やぶ蛇式に嫉妬心が動き、僕は迷わず迫っていた。
「ねえ、今度アンジェラに会いに行っても良い? そんなに可愛いなら、僕も見てみたい」
「良いよー。今日予定ないから、今日で良い?」
「うん」
約束を取りつけて、僕は思わず心の中でガッツポーズした。
そうか。この手があったか。
初めて赴く三原さんのアパートに思いをはせている内に、あっという間に放課後になった。三原さんが、鞄を持ち教室に入ってきて声を掛けてくる。
「堀川くん、帰れる?」
「うん。準備オッケイだよ」
僕は、達筆過ぎて字が読めない事で有名な教授の講義だったけど、尋常じゃない速さでノートを纏め、十分も前からソワソワと待っていた。三原さんのアパートで二人っきりになれるチャンスがくるなんて……!
「じゃあ、行こうか。私のアパート、地下鉄で十五分くらい」
「へぇ。良いトコに住んでるね」
そんな事は以前、年賀状を出すからと理由をつけてリサーチ済みだったけど、驚いてみせる。道々、三原さんはアンジェラの可愛らしさを散々ノロケて、僕はまた苛々をつのらせていた。
「お手とお座りは二回教えただけで覚えて、今はもう教える事がないくらいで……行ってきますとただいまのキスで顔がびしょびしょになっちゃうから、何とかそれをやめさせようとしてる所なんだけど」
三原さんが、今まで見た事のない幸せそうな顔で、滔々と語る。
アンジェラの奴……! キスだと!? 僕もまだしてないのに!
そうこうしている内に、三原さんのアパートに着いた。三階の角部屋が三原さんの部屋だ。危うく先に立って向かいそうになり、慌てて三原さんに道を譲った。僕が飼ってたロングコートチワワは、扉を開ける前から玄関にスタンバイしていたから、そういうもんだと思っていたけど、扉を開けてもアンジェラの姿はなかった。
「あはは。アンジェラ、また人見知りしてる」
「人見知り?」
「うん。宅配の人とか来ても、奥に隠れちゃうんだ。今お茶入れるから、かけてて。その内アンジェラも慣れると思うから」
そう言って三原さんがキッチンに姿を消すのを待ち、僕は初めて入る部屋の様子をキョロキョロと見回した。木の温もりを感じさせる、暖かな内装の部屋だった。
三原さんらしいな…。
やがてこれも木のトレイを持って、三原さんが帰ってくる。
「はい、堀川くん、お茶どうぞ」
「ありがとう」
「アンジェラが出てくるまで、DVDでも観る?」
それだけ部屋に長居出来るという事だ。僕は思わず口角を上げ、諸手をあげて賛同した。三原さんが選んだDVDは、甘ったるい恋愛ものだった。正直眠くなるけど、ムードとしては悪くない。欠伸を噛み殺していると、ふいに三原さんのポニーテールが、僕の顎の辺りに触れた。
望んでいた展開だけど、急過ぎてギョッとする。でも、そのままズルズル……と三原さんの頭は僕の胸板を滑って、膝に乗った。
「三原さん……?」
三原さんは、規則正しい寝息を立てていた。思い描いていたものとはちょっと違ったけど、眼下には無防備な三原さんの寝顔がある。僕は躊躇なく、ふっくらと桜色の唇を見詰め、ゆっくりとそこを目指していった。あと三センチ……。
「ワン!」
ふいに後ろから飛び付かれて、僕たちはソファから転げ落ちた。
「いてて……」
テーブルの角で
「アンジェラ……?」
三原さんが目を擦る。
こいつがアンジェラか。
顔を上げると……待ち受けの写真には程遠い、体長百二十センチ程はあろうかという大きな成犬がいた。そしてあろう事か、もう少しで僕のものになる筈だった三原さんの唇を、ペロペロと舐めていた!
「あ……! 堀川くん、ごめん! 私、寝ちゃったみたいで……ちょっと、アンジェラ退いて!」
アンジェラは僕に見せ付けるように、三原さんに馬乗りになってキスをする。
こいつめ……わざとだな。だったら、こっちにも考えがある。
僕はアンジェラの頭を掴みぐいと三原さんから引き離し、わしゃわしゃと耳の後ろをかき乱した。
「よーしよし、アンジェラ~!」
「ワン!」
一人と一匹で激しく揉み合う。それを見て、三原さんが笑った。
「堀川くん、ホントに犬が好きなのね」
「ああ、可愛いな、アンジェラ!」
「ワンワン!」
アンジェラは、僕の腕の中から逃れようと必死にもがいている。でも三原さんには、じゃれ合っているように見えるらしい。
「じゃあまた、いつでも会いに来て良いよ」
「いてっ!」
無理やり押さえ付けていたら、掌を噛まれた。三原さんが慌てる。
「こらっ! アンジェラ!」
「大丈夫、甘噛みだよ。三原さん、じゃ、また来て良い?」
「勿論」
「じゃあ今日は帰るね。また」
「うん!」
玄関まで送ってくれる三原さんは、それこそ天使のように柔らかく微笑んでいて、僕はほっこりとした気分でドアを閉めた。だけど、それとは別に。
「アンジェラの奴……何が天使だ」
後ろに隠していた左手を見ると、血が滴っていた。三原さんを間に対決する気満々で、僕は夜道を薬局に向かって歩く。左手で良かった、と思いつつ。
「負けないぞ」
また噛まれる事を想定し、消毒薬と包帯を多めに買う。三原さん争奪戦は、始まったばかりだった。
End.
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