雪ときどきカタツムリ
「久保田お前、イヴはぜってぇ空けておけよ。部長に残業頼まれたり、高橋に合コン誘われたりしても、ぜってぇ断れよ?」
屋内階段でのいつもの密会で、杉山は久保田に詰め寄っていた。一階ごとに重い扉がついたタイプの階段なので、それを使う者は殆ど居ない。オフィス・ラヴを秘めるには、都合の良い場所だった。
杉山の勢いにやや怯み、半歩ほど後退りながらも、久保田は答える。
「あ……はい。高橋くんじゃないけど、定時に上がりたいですよね。定時過ぎると、暖房切られて寒くなりますし」
クールビズに引き続き、何処の会社もエコの風潮が強くなっている。その為、残業を強いられる者には、若干厳しい冬となっていた。中間管理職の為、残業組となる事が多い杉山は、不服そうに鼻を鳴らす。
「おう、ケチ臭ぇよな……」
そして改めて、久保田の小ぶりな胸に指を突き付けた。
「ぜってぇ定時だぞ! お前人が良いってんでよく報告書回されてっけど、全部断れよ?」
久保田は苦笑する頬に、一筋の汗を浮かばせる。
「全部断れるかは、状況によりますよ。普通の書類くらいなら良いけど、緊急の事故案件なんかが入ったら……」
車両保険を扱う会社に勤める二人には、クリスマスもお正月も関係なかった。むしろ、行楽シーズンに忙しくなる。車両事故は、時も場所も選ばず年中無休で起こるのだ。
「緊急の案件が入ったら、俺が手伝ってやるよ。イヴに仕事を回すなんて、馬に蹴られる前に、俺が部長をぶん殴ってやる」
不遜に言い切って、杉山は久保田の華奢な背に腕を回す。
「お前のクリスマスは、俺のモンだからな……」
「……っ……ちょっと杉山さん! ……誰か来たら……」
「人なんか来ねぇよ。無駄な抵抗すんな……」
含み笑って、杉山は久保田の首筋に鼻を埋める。リンスの微かな残り香が、杉山の鼻孔を心地良く刺激した。
* * *
「冴子さん、イヴの夜は、ちゃんと空けておいてくださいね」
管理課のデスクで、いつものようの仕事に集中していた牧島の背後から、高橋は密かに囁いた。
三日ほど前、高橋に半ば無理やり付き合う事を承諾させられていた。
牧島は、書類から驚いて顔を上げ、三日前にやはり無理やり奪われた唇の事を思い出してしまい、ハイネックに隠された首筋を仄かに染める。
「……知らないわ。私は貴方と違って、忙しいの。年間行事になんか興味ないし」
だが高橋は、そのポーカーフェイスの下の、僅かな動揺を見逃さない。
「またまた~。僕、本命作らない主義でしたけど、冴子さんに決めました」
言って、背後から牧島の首に両腕を絡ませる。
「高橋くん! 社内で何を……!」
「ふふ、会社で色んな事されたくなかったら、イヴの夜、僕だけの為に空けておいてくださいよ?」
牧島は座ったままやや身を捩り、その腕を振り解こうとする。にこやかに笑って、高橋は、それ以上を無理強いししようとはせず、大人しく牧島を解放した。
忙しい管理課内の片隅のデスク、その一瞬の逢瀬は、誰にも見咎められる事はなかった。
「……善処、するわ」
やや躊躇った後、牧島は政治家みたいな答弁をする。神経質に眼鏡を押し上げながら。観察眼の優れた高橋は知っている事だったが、それは、牧島が心乱れた時の仕草だった。
へへ、とまた高橋は笑い、牧島の耳元に囁いた。
「いいクリスマスにしてあげますよ、冴子さん……」
* * *
イヴの朝。いつもなら合コン兼クリスマスパーティーの人数集めに奔走している筈の高橋が、やけに大人しい。
鼻歌まじりに、あまり気がすすまない筈のデスクワークをてきぱきとこなしている。
その人数集めに加えられる筈の杉山は、声がかからない事を訝しみ、自ずから高橋に訊いてみた。
「高橋。今年はパーティやんねぇのか?」
パソコンのキーボードから、飛びっきりの笑顔を上げ、高橋は言った。
「あ、僕、今年は本命の彼女としっぽり過ごすんで」
杉山は度肝を抜かれ、思わず言った。
「はあ? お前が本命!?」
「ええ。極上の美人です」
「やべぇ……明日は空から、カタツムリでも降るんじゃねぇか」
思わず出たその言葉に、傍らのデスクで書類仕事をしていた久保田が小さく噴き出した。
「杉山さん。カタツムリは降りませんよ。大雪くらいは降るかもしれませんけどね」
明日は初雪の予報。ホワイト・クリスマスになるか、カタツムリが降るかは、明日になれば分かるだろう。
End.
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