「涼宮ハルヒの憂鬱」と「涼宮ハルヒの消失」はともに名作である訳ですが、確かにご指摘の通り(誰も指摘してないよ)、そこには共通するモチーフがあって、それは何かというと「過去を破棄し、(素晴らしい(かもしれない))新たな未来を選択するか」という問いであります。仰る通りです。なるほどなと思った。
で(分裂・驚愕で「欲張りセット」みたいなのを選べるようになったことも含めて考えると)、もちろん我々は「過去を破棄しなかった」語り部の語りを聞いている、がためにそれが唯一絶対の解である、かのように思う訳ですがほんとにそうか。
情報爆発とはなんであるか、という問いの一つの答えに、「それはあらゆるありえた過去と未来を選択しつくすことである」というものがあるんじゃあないか、ということを去年から結構考えてたんですが、そういう視点から言うと、ありえた未来をダブルで、あるいはそれ以上で、あるところで羽を震わせた蝶々によっておこるすべてのハリケーンを観測するかのように、「選びつくしたパタン」というのもあって、で、そのうち気にくわないやつはまあ、「消されて」いるのかもしれないけれど、その気にくわないやつも「残して」いくというのが、ある種の人間を救ったりする。
あるいは語り方を変えましょうか。
昔、世にも奇妙な物語というTVシリーズの一パターンに、「ある選択肢のAを選んだ時とBを選んだ時を平行して見せる」というのが好んで設定されることがあって、俺は結構好きでした。
なぜこの話が面白いのかというと、我々にはどう転んでも、「あの時Bを選んだ未来」を見ることができないからです――もちろん、神を除いては。
しかし我々は、記述者、という立場を上層から取ることが出来て、その時には二つの未来を記述することができる。一つは、ひょっとしたら本来描かれなかった、消して描かれることがなかった世界、なのかもしれないけれど、それも記述することは可能だ。
というようなことを考えさせられる話でした。Aの未来もちょっと、いやかなり気になります。新たな世界が生まれるんじゃあないですかね。きっと。