「婚約破棄された友人と俺の話」
六角
「婚約破棄された友人と俺の話」
「本当は、本当は全部、嘘だったの……」
目の前で泣きじゃくる女性。俺は静かに、珈琲を飲む。
「婚約破棄なんて、嘘なの。あの人の愛があまりに深くて、怖くて、思わず試したの。昔から、マークは友達だったから、協力してくれて」
嘘なのよ。
そう言って泣きじゃくる女性に、俺はかける言葉が見つからなかった。彼女の名は、一ノ瀬乙羽。かつて、俺の友人で、今は故人の、東雲壮太の婚約者だった女性だ。
「あの人が、まさか、別れを了承するなんて、思わなくて」
珈琲を飲み終えたので、俺は立ち上がった。
「お話は、以上ですか?」
え、と彼女が顔を上げる。
「俺は壮太ではありません。俺は壮太ではないのです。謝罪もお話も、なんの意味も持たないのです」
ごめんなさい。
そうして俺は、店を出た。彼女は俺を、追ってこない。彼女を守るべく居ただろう男たちも、俺に何も声をかけてこなかった。
「秘密だものな」
そう呟くと、うん、と頷くそいつが居る。
「その通りさ。流石だな」
「トルコ、楽しかったか?」
「ああ。もちろん」
囁き声で会話をする。彼の名は、東雲壮太。
己を燃やし、自殺し、それが発覚した直後から俺の家に出没する存在。彼はいわゆる、幽霊というやつだ。
「飛行機の翼に座るの、滅茶苦茶楽しかったぜ」
写真が撮れればなぁ、と残念そうに言う彼は、そうしてトルコはイスタンブールの話を始める。
今から半年前に死んだ癖、よくもまぁ、元気なものだ。そう思いながら俺は、半年前のことをふと、思い返していた。
深刻そうな顔でこちらを見る友人に、一抹の不安を覚える。
冬休みの終わり、突然訪ねてきた友人は、課題の範囲を聞きたいのでも明日からのコマ割りを聞きたいのでもなかったらしい。深刻そうな顔の彼に、思わず膝上の愛猫であるサバを抱きしめる。大人しいサバはおとなしく、膝上で抱っこされていた。
「昨日、婚約破棄を通告された」
「……は?」
にゃー。サバが、目を丸くして鳴く。
ぽかん、とした俺に構わず、友人……東雲壮太は話をつづけた。
「俺が一ノ瀬乙羽の許嫁であることは、お前も知っての通りだと思う」
「ああ。いずれ一ノ瀬家の将来を担ってくれって、親父さんにも気に入られてたな」
「一ノ瀬の家とかまとめて背負う覚悟で、俺が乙羽を口説いたことも知っていると思う」
「うん。うっかり先代の借金が、まだ返済途中だったんだよな」
「そういった事情込々で、親父もおふくろも納得してくれていたと知っているだろう」
「そんなことを聞きもしてないのに逐一報告してくれるお前のおかげでな」
「仕方ないじゃないか、お前ぐらいしかそういうこと愚痴れないんだから」
「乙羽のため過ぎて俺以外の友人ほぼビジネスパートナーなお前乙」
「うるせぇ」
ともかく。
そう言いおいて、壮太は繰り返した。
「昨日、婚約破棄を通告された」
「マジか」
結婚秒読みだったはずの彼の惨劇に、サバの喉を撫でながら応じる。友人、東雲壮太は、中学生の時クラスに転校してきた令嬢。一ノ瀬乙羽に一目ぼれし、挫折と敗北を繰り返しながらも、最終的に彼女の信頼を勝ち取り、そして実家である大企業の一ノ瀬グループ会長などなどにも認められた、れっきとした婚約者に収まった。その執念は凄まじいと思うが、並みいる他の企業の子息なんぞを差し置いて選んだのだから、そう簡単に破局とかありえないと思っていた。
思っていたんだけど。
「なんで婚約破棄? ねぇなんで?」
「フォレック社知ってる?」
「知ってる。外資系の結構でかい海外に本社あるとこでしょ」
「そこな、貴族だったフォレック家が母体なんだけど、乙羽がそこの息子連れてきて、この人と結婚するから別れて、って言われたんだ。あんなふうに言うからには、資金援助も決まってるだろうし、何より腕組んでラブラブイチャイチャなんだぜ? 俺とは、手ぐらいしか、繋いだことないのにな」
あちゃー、と俺は思った。壮太は普通の、ごくごく一般的な家庭の生まれだ。もちろん一ノ瀬グループの借金に手が出せるような家ではないし、一ノ瀬の令嬢と結婚するとなった日にゃ親戚一同がひっくり返ったとすら言われている。
しかし別れろと言われて、よくもまぁ普通に帰ってきた。
「よく怒らなかったな」
「えっ。だって乙羽が別れてっていうから」
「どういうこと?」
酷くまじめな顔で、壮太が言う。
「今まで乙羽は一言も別れ話を言わなかった。その乙羽が言うのだから、応じてやらなきゃな」
「最後までただのフォーリンラブかよ、分かった今日は失恋パーティーだな?」
ああそうか、と思う。
一度たりともこいつは、言葉で拒否を受けなかった。一ノ瀬乙羽も、言葉での別れ話を出さなかった。もしかしたらどこかで、彼女の心が自分から離れていくことを、この男は察していたのかもしれない。
だけどそれが明確に言葉になるまでは、黙っていたんだ。黙っていたかったんだ。でも自分から別れを切り出そうなんて、決断できなかったんだ。初恋を諦められない、みじめな自分をさらけ出してでも、最愛の人と幸せになりたかったんだ。
女からしちゃ煙たがられるというか、気持ち悪いの一択になりそうだけど、いじらしい奴なんだなぁと思った。
そう思ったんだが。
「今回は、俺の新たな門出パーティーだ。別れ話告げられたからってあの一ノ瀬会長に婚約破棄を正式に告げるんだぜ? そりゃもう超緊張したわ、あの緊張乗り越えられたし、乙羽みたいな最高の女性とほんのわずかでも婚約者で居られたんだ。次に巡り合う恋にも仕事にも、絶対役に立つ」
「とことんポジティブだなお前。SNSのごった煮の権化かよ」
「婚約指輪はその場で乙羽に渡してきたし、身辺整理も済んだし、これだけはお前に言っとかなきゃなってさ」
あれ。何か変だな、とふと思う。
「壮太」
「なんだ」
「飲むのさ、俺の家でいいよ。買い物行こうぜ」
壮太は、嬉しそうに笑って、おう、と手を出してきた。そして俺に渡してくれたのは、腕時計。こいつが気に入っていた、おじいさんからの形見だ。
「え、何?」
「時計も新しくしようと思ってさ。これ、お前にやるよ」
「爺ちゃんの形見だろ?」
「いいんだ。全部全部、変えちまおうと思って。だからさ、俺の話は、絶対に秘密だぞ。お前が話したら、変わらないんだからな」
そこで、そこでようやく、壮太は泣いた。愛していた女が消え、そのためだけに捧げた人生を、全て無くすんだと壮太は泣いた。
「……分かった。俺が貰うよ」
大事に受け取る俺に、壮太は泣きながら笑った。それから、それから俺たちは飲み明かし、ばか騒ぎをして、朝になりかけの頃にごろ寝をした。
それから。それから壮太は、俺の前から姿を消した。連絡が付かなくなり、壮太の両親からも電話が着て、あいつが行方不明になっていたことを知った。
婚約破棄は俺に話をするよりもっと前に告げられていて、それからずっと連絡が付かなかったって。行方不明になって、二週間過ぎていたってことも、知って。それから更に、半年後。
東雲壮太さんが、見つかりました。
駆けつけた病院には、白いシーツをかけられた壮太の姿。自殺方法は、焼身自殺。俺の家で、俺が確実に寝たことを確認して、近くの山の沼へ向かった。そして油を全身にかぶって、火をつけた。水が足元にあるだろ、と思ったけど、あんな頭のいいあいつが水で火が消えるなんて、そんなヘマするわけがない。首をつりながら自らを燃やし、火が紐を焼き切って、彼の体は沼に沈んだ。
けれど不運にも、その体は沼の底にとどまれず、不運にも浮いてしまった。そして昼過ぎに、異臭に気が付いた管理人によって、発見されたという。
遺書はない。
何もない。
唯一の手掛かりは、ポケットに入れられた燃え残りのレシート。彼の体の油でコーティングされ、かろうじて解析できたというそれ。に、付着していた、俺の毛髪。
事件の可能性も考えて毛髪提供をしていた御蔭で、遺体が壮太である可能性が出た。そして、過去に壮太が手術した、大腿骨の骨折跡も、彼のものと一致した。
壮太は死を選んだ。
すべてを燃やした。
婚約破棄という、結果の、果てに。
帰宅してすぐ、俺は愛猫のサバに癒しを求めた。サバはよくわかっていて、寝そべった俺の上にちょこんと箱のように座りだす。さすがだ。
「……秘密、だもんな」
俺は警察にも、壮太の両親にも、何も話さなかった。
それが壮太の、終わりを守るための、約束だったから。
「流石だな、よく話してくれなかった」
「おう。……あれ?」
起き上がった俺に、サバが不満の声を上げる。
「壮太?」
そこにいたのは、壮太だった。俺と最後に飲んだ時の、あの姿のままだった。
「どういうこと?」
「死ぬ形が、人それぞれってことさ」
「……なるほど幽霊か」
「そういう適応能力の高さ、流石だな」
それほどでもない。
そう思う俺の横で、サバが壮太を見上げる。そしてややあって、にゃー、といつも通りの鳴き方をした。どうやらサバにも、壮太が見えているらしい。
「ところで壮太」
「ん?」
「お前、今までどうしてたんだよ」
ああ、と壮太は頷いた。自殺と言う道を選んだあと、彼はふと気が付くと一ノ瀬の家に居たらしい。そこで彼は、泣きじゃくる乙羽を見た。
どうして死んじゃったの、と泣く彼女を見て、なんだかすっきりしてしまったらしい。
「彼女の涙の理由になれたから、もういいと思って」
「なら、成仏するのが筋じゃないか」
「欲が出たんだ」
今度は彼女の笑顔の理由になりたくて、と照れた様子で言う壮太に、生きてたらできたかもしれないのに、と俺は思った。
「生きてたらできたかもしれないのに、あっ」
「言うなよ、俺も思ったんだ」
「じゃあ勢いで死んだのかよ」
「死ぬくらいじゃないと、その、なんていうか……パワーが足りないと思ったんだ」
至極まじめに言う彼に、俺はしばらく考え、頷いた。そうか、と。
それから。それから、彼は、いまだに俺の家だったり、海外だったり、俺の家にいる。基本的に俺の家にいるので、なんかしろ、と言ったら、世界各国に赴いてその土地土地の話を持ち帰るようになった。移動は飛行機か船に限るらしい、空を飛ぶのは幽霊でも難しいようだ。
そんな俺に、最近になってから一ノ瀬家が接触を図ってきた。これまで、乙羽以外の話も聞いたが、結論は同じだ。
壮太は死ななくて良かった。
死んでしまうほど、頑張らなくて、良かったんだ。
婚約破棄は嘘。これは、乙羽が壮太の愛を試そうと、持ちかけた嘘。
外資系企業の若人は、乙羽に協力してくれた親しい友人で、金銭援助なんて話はなかった。そのため一ノ瀬家は、内情も込みですべてを背負うと戦い続けてきた、優秀な戦士を失った。乙羽が浅はかで、壮太があまりに真面目だったから、とも言える。壮太の両親は、それを知らない。どうしてあの子が、と責め、一ノ瀬家に謝罪までしに行ったという。一ノ瀬家の面々にとっては、これ以上ない苦痛だったに違いない。原因はこちらだというのに、それを言い出しもできなかった臆病者には、ちょうどいいだろう。
なんて意地悪なことを考えて、首を横に振る。
いけない、秘密の守り人は、クールでなければ。
でも結果は一つだ。
壮太は死んだ。
現在進行形で、幽霊だけど。
「んで、乙羽の笑う理由にはなれそうなもの、見つかったか?」
俺が尋ねると、彼は首を横に振る。
「いいや。たぶん今回も、ダメそうだ」
「そっか」
「晩飯は?」
「今日はアジフライだ」
彼と俺の生活は、どうやらもうしばらく続くらしい。次はどこへ行こうかな、と話す彼に、ガイドブックを買ってやろうかと思う俺だった。
おわり
「婚約破棄された友人と俺の話」 六角 @takuan10
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