世界よりフェンリルよりイロハを選ぶ

 極寒地獄で死の女王ヘルとの戦いの最中、俺はなんとなくだが理解していた。


「お前の能力。それほど万能じゃないだろ?」


「なにを根拠に言うておる」


 空全体から声が響き渡る。この時点ではヘルがどこにいるかもわからない。


「本当に万能なら俺が死ぬと書けばいいだけだろ。それとも、もう試して無駄だったのか?」


 鎧は即死技無効を無効化するものを無効化して……といったイタチごっこに最終的な決着を付けるものだ。死の呪いなんかは通用しない。


「ほざけ、ならば抗ってみせよ!」


 何もない場所からマグマまみれの手が何百と飛び出す。

 普通に叩き落してもいいが、検証してみよう。


「さて、じわじわ追い詰めてやろう」


 腰から煙幕玉を取り出し複数破裂させる。

 かなり広範囲に効果があるらしく、俺をすっぽりと隠す。


「偉そうなことを言って逃げるのかい坊や?」


 ババアは無視。赤い空の中、白い雲の一つに身を隠し、完全に気配を消す。


「どこへ逃げても無駄さ、この世界に逃げ場なんてありゃしないんだよ! キャキキキキキ!!」


『雷が絶え間なく降り注ぐ』


 天から雷の連打が俺を襲う。それもよく観察すると見える範囲全体に落ちている。


「ほらほら逃げ道なんてありゃしないよおおおお!!」


 威勢のいいことを言ってはいるが、当たっていない。俺を探すための攻撃だ。

 つまり俺を見失っている。


『空気を消す』


 空に文字が浮かぶ。これも無駄だ。鎧を着ている俺に呼吸なんて必要ない。

 空を飛ぶのも魔力だ。あの文字は無駄。


『雲を消す』


「あらら、見つかっちまったか。随分手間がかかったなおい」


「隠れることしかできない小僧が何を言う!!」


 両側からなにかが俺を襲う。両腕で見えない壁を抑えるが、正体不明だ。

 透明な壁? 空中で? 落ち着け。文章にする必要があるはずだ。


「とりあえずぶった切る!!」


 ひたすら剣を振り回す。何かを切った感触。出てきた文字は。


『透明な空が男を押し潰す』


「なるほど。脳みそ使ってきたな。よかったじゃねえか、脳まで腐ってたらできない作戦だったぜ」


 氷と草花に囲まれた大地へ降り立つ。


「さて、検証は続くよどこまでも」


 剣に魔力を注入。光の刃を増幅し、天をも貫く極太サイズに変更した。

 空に文字があるのなら、これで消せるはず。


「いくぜオラア!」


 目標なんて定めちゃいない。とにかく徹底的にぶん回す。


「小癪な小僧だねえ。文字など書き直せばいいだけじゃ」


 いくつか文字を切った感触がある。だが文字だけだ。ヘルじゃない。


「お遊びはここまでだよ!!」


 背後から冷気を感じ、とっさに蹴り飛ばす。

 そこには巨大な氷とマグマの混ざった手のひらがあった。


「こうなれば本気で潰してあげるよ。キャキャカカカカカ!!」


 大地から、上半身だけの女が生えている。

 マグマと氷がぐっちゃぐちゃに混ざった人形のようで、ヘソから下が存在しない。

 この世界の果てまで届くんじゃないかという大きさだ。


「それが本体か?」


「まさか。うるさい羽虫を叩き潰すには、このくらい大きいほうがいいだろう?」


 飛んでいるハエを潰すように、平手を振り回すヘル。でかいくせに攻撃が早い。

 マグマを撒き散らしながら動かれるのがさらにうざい。


「まさか一体だけと思ってはいまい?」


 はいめっちゃ出てきた。女の人形と拳と拳のぶつけ合いとかやってられるか。

 口からゲロみたいにマグマを吐いてくるのが本当に気持ち悪い。


「いい気になんなよ」


『真! 流・星・脚!!』


 天高く飛び上がり、一直線にマグマ人形を蹴り砕く。なかなかに爽快感があるな。


「無駄無駄!! 死ぬまでお人形遊びを続けるのじゃ!」


 ええいうざったい。地面から生えているんだから、地面をえぐってみるか。

 勢い余って全力着地。地面にさっきよりでかいクレーターを作る。


「ぐっ、くあ……クキキキキ。たいした力でもないのう」


 なんとなく今ので察した。検証あるのみ。

 雲の上まで飛んで必殺技キーを酷使してやる。本日二度目だ。


『シャイニングブラスター! ハイパー ダイナミック アルティメット エターナル』


 今まで鍵を四段階目まで強化したことはない。

 鎧を着て使うならば、この段階から世界そのものを壊しかねないからだ。

 よく考えればヘルの地獄なんて壊れてもいいじゃん。


「てなわけで散れ」


『ゴゥ! トゥ! ヘエエエル!!』


 地面に向けて盛大にぶっ放す。見える範囲から草も花も氷も消えて、世界が一つの大穴になる。

 遥か彼方まで地面が消え、それは穴なのかそういう大地なのか判別できないほどに広がっていた。

 地面の下はもう見えない。ただ闇が広がっているだけ。帰ったら使うのは控えよう。


「うがあああああああ! 貴様! よくも妾の地獄を!」


「やっぱりか。お前、最初のときも痛がったよな? 呻き声が聞こえた」


「なんじゃと?」


 ずっとそれがひっかかっていた。最初の攻撃では、どこか地面に隠れていたんだと思った。

 だがあのとき地面は完全にえぐれていた。あの中にいてすぐ話せるほどノーダメージってわけじゃないだろう。それがおかしい。


「この世界はお前の地獄なんじゃない。地獄と呼ばれるこの世界そのものがお前なんだ。封印が解かれたあとで融合したな?」


「くだらないねえ。証拠でもあるのかい?」


「その言い方でほぼ確信した。空を切ったとき、俺の剣で切ったのだから激痛が走ってもいい。だが呻き声は地面をえぐった時、しかも必殺技で攻撃した時だ。神魔を消し去る力をもった技でだ」


 マグマや雷が平気なのは自分の力だからか、もしくは効かないと書いてあるんだろう。


「それだけかい? たったそれだけで? 夢見がちな若造じゃな。キャキャキャキャキャ!!」


「アホか。この世界そのものなんて説はな、普通肯定した方が得なんだよ。なんせ世界そのものを滅ぼせなきゃ倒せないってことだろ? ほう、気付いたか……とか言えば絶望感出るじゃねえか」


 ヘルの笑い声が消えた。余裕がなくなったな。この感じだと半分は当たっていそうだ。


「俺の攻撃で痛みを感じた。つまりこいつは自分を殺せるかもしれない。そう思ったから、否定したんだ。普通なら肯定した方がいいに決まっているのにな」


 思い出したようにマグマ人形が量産される。焦っているな。


「さらに言うなら、逆さフウマ城を壊したのも、俺の注意を上に向けるためだ。ま、結界を塞いじまったのはお前も予定外だろうけどな」


 地面に深々と剣を突き立てる。でかい敵が出たら、当然上を向く。敵を倒そうとする。地面なんて見やしない。そこが罠だ。


「オラオラオラウラアアア!!」


 地面に剣を刺したまま、目的地も決めずにめっちゃくちゃに走り回る。とにかく地面をズタズタに切り裂いてやる。


「キキャアアアアアアァァ!?」


 本日一番の叫び声だ。世界全体に響くほどの声。


「やっぱこの剣は反則だな」


 切られた地面が再生していない。もう確定だな。


「不死の女王である妾に痛み!? 死が! 死が襲ってくる!? うああああぁぁぁ!!」


 相当に痛いらしいな。人間以外にはまさに地獄なんだろう。世界が痛みに震えている。


「くそっ! わかっているのか? 妾を消せばフェンリルの力も消える!」


「なんだと?」


「フェンリルの力はいまだ妾の中じゃ。お前が連れてきたフウマの娘は、力を失いただの小娘になる。役立たずの小娘にな」


 根本から勘違いしてやがるな。順序が逆だ。

 イロハを知って、イロハの強さを知った。

 強さなんて知ったこっちゃなかった。強いから一緒にいるわけじゃない。


「構わんよ。新しい力なんて、運さえよければクソみたいな理由で手に入る。俺自身がそうだったしな」


「力を失った小娘が、貴様のせいだと責めるかもしれんぞ?」


「その可能性はある。まあ、受け入れるしかないだろ。それで離れていくならそこまでだよ。お前を殺さない限り、どのみちフェンリルの力は奪われたままだ」


 イロハが離れていくと考えると、よくわからないが、もやっとしたイヤな気持ちになる。

 だが目を覚まさないよりよっぽどいい。二度と会えないとしても、どこかで笑っていて欲しい。


『流星群が落ちてくる』


 懲りずに隕石なんぞ落としてきやがって。適当に避けつつ地面を切る作業を続ける。

 切り続ければヘルの絶叫は続く。ぶっちゃけうるさい。


「これほどの力を持ちながら、なぜ小娘のために使う? 国も、世界も、女も、欲しければ奪い取ることなど容易い筈じゃ」


「いや、別にいらねえし。一度もそんなもん欲しいと思ったことがない」


「なぜじゃ? 愉快であろう? 圧倒的な力で自分以外を……弱者を虫けらのように踏み潰す時は。心地よさを、優越感を感じないとでもいうのか!!」


「がっつり感じてるに決まってんだろ。だから目の前の胸糞悪いババアを、気が済むまで殴ってるんだよ」


『結界を打ち壊す波動の渦』


 結界……イロハ狙いか。結界が破れるはずはない。

 黒い波動は俺の結界を破れず、傷一つつけることなく消えた。


『壊れるまで種類を変えて無数に打ち続ける』


「結界にばっかり気を取られていると、こういう目に合うぜ!」


 地面に深々と剣を差し込んで魔力を流し込む。

 そろそろ決着を付けたい。ここで一気に消してしまおう。


「……ん? なんだ?」


 呻き声が聞こえない。死んだか? だがヘルの気配は残っている。


「お館様!!」


 コタロウさんの声だ。よく見ると結界に入ろうとしている女がいる。

 あいつ……もしかしてヘルか。地獄を捨ててイロハ一点狙いとはやってくれる。


「ヒヒッヒヒヒヒ。やはりか、やはり小娘が大事か」


 結界の場所まで近づくとわかる。ヘルとイロハの姿がまったく一緒であることが。


『イロハ・フウマと同一の存在へ化ける』


 俺とイロハが自由に出入りできるように設定していたところを狙ったか。


「そこまでだ。好き勝手はさせねえ!」


 中へと侵入したヘルの髪を掴んで、結界外へ向けてぶん投げる。


「キキャキャキャキャ。無駄じゃ無駄じゃ」


 結界の壁にぶち当たったヘルはまだ中にいる。壁がイロハと認識したのか。


「面倒なやつだ。イロハは?」


「私ならもう起きたわ。迷惑かけてごめんなさい」


 真っ直ぐ立ってこちらを見るイロハに不審な点はない。ひとまず生きている。


「起きて大丈夫なのか?」


「ええ、ありがとう。なんとか生きているわ」


「クキキ、足手まといが増えただけじゃ」


 結界内は半径二十メートル。それほど広くはない。

 結界が壊れる威力の攻撃はできない。そしてイロハを傷つけないようにしなければ。


「どうじゃ? その小娘を捨て、妾とともに来い」


「なに血迷ってんだ?」


「姿形ならいかようにも真似ることができる。力はこちらにある。使えん小娘を守る必要などあるまい?」


「お館様はそのような御仁ではござらん!」


「黙れフウマ! さあどうする? 決めるのはおぬしじゃ」


 本当にアホだな。誰が半分腐ったババアと一緒にいたいんだよ。


「…………俺は俺のために生きている」


「なんじゃと?」


「俺の力は俺のためにある。兵隊は国と金のために動くだけ。勇者は世界の平和なんて曖昧なもんのために戦うだけ。正義の味方は、正義なんていう俺様ルールに酔っているアホだ。どいつもこいつも俺を助けたりはしない」


 話しながら対策を考える。というか理想の展開だ。ヘル本体が現れることを望んでいた。


「だから俺は俺だけのヒーローだ。だがまあ、力が有り余っているもんでな。ついでにイロハが、リリアが、シルフィが暮らす場所を、あいつらを守っている」


 俺の意図に気付いているのか、いないのか。全員黙って聞いている。


「お前はイロハじゃない。イロハの代わりにもなれない。強いとか、役に立つとか、そんなことは関係ない。俺の隣にいていいのはこいつらだけだ。ただ隣にいてくれたら……俺は案外それで満足だ。それはヘル、お前が気付かせてくれたのかもしれない」


「アジュ……」


「お館様!」


「あの世界には俺と、俺の…………大切なやつらがいる。お前は運が悪かったんだよ。よりによって俺のいる世界を選んだ」


『スティール』


「ってなわけで悪いな。返してもらうぜ」


 俺の右手は光速を超えて、ヘルの胸を貫く。


「なにぃ!?」


 中にあるフェンリルの力だけを奪い取る。この時を待っていた。

 本体から直接、しかも一気に抜き取る瞬間を。


「偽者は、とっとと地獄にお帰り願おうか」


 元の姿に戻ったヘルを、結界から強引に蹴り飛ばす。


「おのれええええぇぇぇ!! そんな矮小な志で……卑屈な理由で妾の道を阻むかあああぁぁぁ!!」


「イロハ、受け取れ」


 集めた力をイロハに渡す。ゆっくりと染み込むように体に入り、ほんの少し光を放って消えた。


「どうだ? いけそうか?」


「ええ、欠けていたものが元に戻ったような……そんな気がするわ」


「そんじゃ行くか。コタロウさん。先にあいつらのところに戻っていてください。ヘルの地獄そのものを消し飛ばします」


「承知!」


 コタロウさんは上に消えた。あとはヘルを倒して帰るだけ。


『エリアル』


 結界外に出て俺とイロハにエリアルをかける。抉れた地面から這い出す亡者のように、ヘルがその姿を現す。


「まだだ……まだ文字は消えていない……」


「消えていないだけよ。それに……」


 イロハの右手から筆が飛び出す。その筆は間違いなく影筆の術で使われるものだ。


「これで塗りつぶすわ」


『ヘルの書いた文字を消す』


 空に大きく書かれた文字は、ヘルの文字をドンドン塗りつぶし、赤い空を青い光で染めていく。


「なぜだ!? 妾とフェンリルの力が! なぜ人間の小娘に負ける!」


「あなたは間違っているのよ、ヘル。この力は誰かを支配するためのものじゃない。本当に愛した誰かを守り、生涯添い遂げるための力。自分のためだけに使っても、フェンリルの力は使いこなせないわ」


『地獄を消し去る』


 ヘルの世界が徐々に光となって消えていく。もう二度と復活できないようにしないとな。


「さ、これを使って決めて」


 イロハがまだ何か書いていると思ったら、青く光る文字が揺れる鍵を渡された。


「ふむ、こういうパターンもありか。使わせてもらうぜ」


 手の中で狼の刻印が入った鍵として実体を持つ。今回の勝利の鍵だ。


『魔狼剣! 蒼牙!!』


 剣にフェンリルの力が、イロハの想いが伝わってくる。負ける気がしないな。


『一刀両断!!』


「こいつで終わりだああああぁぁぁ!!」


 刀身に宿る蒼い輝きは、一振りでヘルと地獄そのものを両断した。


「消える……妾が……これだけの力を得て……なぜ……まだ書き足りぬのか……」


 自分が作り出した地獄共々真っ二つに裂けて消滅していくヘル。


「お前が何万種類の攻撃手段を書き連ねても。ない知恵絞って何億の特殊能力を書き続けても。この鎧には、絶対無敵の四文字の前じゃ――――――ただの駄文だ」


「消える……妾の野望が……うああああああぁぁぁぁ!!」


 大爆発するヘルから庇うように、イロハを抱えて結界の入り口を目指す。

 世界が完全に消えてなくなる前に、みんなの待つ世界へ戻るんだ。


「見えた、出口だ!」


 俺たちが出口から飛び出すと結界は消えた。俺達が飛び込んだ穴ももうない。

 凍った湖には、本当に何もなかったかのようにみんなが待っていた。


「お館様! イロハ! ご無事でしたか!」


「やれやれ、今回は随分長かったのう。ま、無事で何よりじゃ」


「アジュー! イロハー! おかえりー!」


「おお、お館様が帰還なされたぞー!!」


 下で騒ぐ仲間と忍者さん一同を見て、ようやく終わったのだと実感できた。


「終わったな」


「そうね。ここからは……楽しいことが始まるのよ。新しく。今までよりずっと楽しい毎日がね」


「そりゃ頑張ったかいがあったってもんだな」


 俺の腕の中に、ちゃんと大切なものがある。俺に笑いかけてくれている。

 長い戦いだったが……結果としちゃ大満足だよ。

 こうして逆さフウマ城は完全に消滅し、フウマの里に平和が訪れたのであった。





「ん……まだ夜か……」


 時計を見ると深夜だ。俺はヘル討伐で死ぬほど疲れた。

 なので宴会やら説明やらをガン無視して天守閣で寝させてもらった。


「あら、もう起きたのね」


 隣でイロハが寝ている。二人とも寝巻きだ。

 お約束の布団が一つを経験したが、ぶっちゃけ疲れていて寝たかったのでそのまま寝た。


「っていうか一緒に寝なくていいよな」


「隣にいていいのでしょう?」


「んー? ああ……」


 まだ頭が覚醒していない。朝まで寝るつもりだから、しても困るけどな。

 だからイロハの言葉の意味がちゃんと入ってこない。


「あぁ……言ったけどな。別にいなきゃいけないわけじゃないぞ」


「はいはい。そんなこと言わなくても離れないわよ」


 仰向けに寝ている俺に、イロハがゆっくり寄りかかってきた。

 俺の上に寝てきやがって……目が覚めるだろうが。


「ちょっとは理解できたかしら?」


「なにがだよ?」


「好きって気持ち」


「わからない。けど……好きって気持ちかどうかわからないけど……」


 ゆっくり答えを探す。その間もイロハは俺を急かさない。答えが出るのを待ってくれている。


「イロハが倒れたとき、凄く嫌な気分だった。なにかが俺の中で失われていくような……気分の悪いもので、起き上がってくれたら消えていた。そこでかな。ああ、死んで欲しくないんだなって思ったよ」


「心配かけたわね」


「いいさ。戻ってきてくれたし。なあ、イロハは……本当に俺といて……」


「幸せよ。私はアジュが好き。何度も助けてくれて、素直じゃなくて、女の子の気持ちに鈍感なあなたが好き。特別な力なんてなくても、もう私はアジュが好き」


 なんだろうな。好きと言われることに嫌悪感がない。多分イロハだからだ。

 疑いの気持ちはゼロじゃない。けど、すっと受け入れることができた。


「今ちょっと照れているでしょう? そこで受け入れてしまえばいいのよ」


「よくわかるなそういうの」


「わかるわよ。いつもあなただけを見ているもの」


「俺はイロハをちゃんと見ていないということか。隣にいるのにな。今なんか一緒に寝てるってのに」


「これから見てくれたらいいのよ。隣にいるだけじゃ満足できないようにしてあげるわ」


 好きだと言われているのに、いつものようなやりとりだ。自然に話せている。

 この時間だ。この感じだ。俺が欲しかったのは、こういうもんなのだろう。


「そうだな。悪くないかもしれないな」


「そう思ってくれているうちに、行動に移しておこうかしら」


 イロハの手が俺の頬に触れる。どんどん顔が近づいてくるのに、不思議と拒めない。


「あなたの影のままじゃ、満足できなくなってしまったわ。これもフェンリルの力のせいかしら」


「狼の習性ってやつか?」


「ふふっ、かもしれないわね。狙った獲物は逃がさないわ。これからもずっと、ずっとね」


 お互いに目を閉じる。唇が触れて、ゆっくりと離れる。数秒が十分にも二十分にも感じた。

 少し名残惜しいとすら思った。これが好きだという気持ちなのだろうか。


「今日はここまでで満足しておくわ」


 そう言って、頬を赤らめて笑うイロハ。

 その笑顔は、今まで見たイロハの中でも一番綺麗で……俺の心に焼きついた。

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