3-2 魅惑の歌手と麗しの青年
列車の個室の内装にひとしきり感動し終えたあと、二人は備え付けられたふかふかのソファに仲良く並んで座っていた。
リリーナは本を出してきて読んでいたし、アシュレイはいくつかの書類に目を通していた。ほどほどの時間になるとリリーナが紅茶を淹れて、アシュレイは真ん中の部屋の戸棚にあった菓子を出して、二人でひと時の休息を分かち合う。
長い付き合いの二人は、その場に沈黙が漂ったとしても、とくに気まずい空気になることなく、ただ自然とその場に二人でいた。
窓の外から指す光が白い光からオレンジの光になるまで、二人は時折、たわいのない話をしながらも、基本的には思い思いに過ごしていた。
「五時半か……」
時計を見、窓の外を見て、リリーナはぽつりとつぶやいた。
「夕食は六時から食堂車って言ってたな」
「そうなの? そんな話聞いた?」
何も知らなかったリリーナに、アシュレイは一度だけうなずいた。そして、テーブルの上の資料を探り、一枚の厚手の紙をリリーナに見せる。
「旅行日程表。事前に彼女から説明を受けた」
アシュレイはそういいながら日程表を机の上に置いた。
「ユフィから? ……あ」
「構わない。あのユフィからだ。どうもリリーナのために自らパンフレットを読み漁ったらしい」
あの金髪の可愛らしい少女が、テーブルいっぱいにパンフレットを広げて、一生懸命それに目を通す様子が思い浮かんだ。
「よくハイルさんがそれを許したわね」
「いや、提案者は彼だから」
「……ユフィに何をさせてるんだか。まあ、彼女が望んだんでしょうけど」
呆れたようにつぶやいて、リリーナは持っていた本を閉じた。そしてそれを机の上に置いて、手を天井に向かって突き出して伸びをする。
そして立ち上がり、着ていたワンピースの裾をきれいに整える。
「食堂車ってどこにあるんだっけ?」
「真ん中の車両だな。俺らが前の方から三両目だから……三両後ろに下がればいいんじゃないか?」
「なるほどね。行きましょ」
「おいおい、スーツ着る時間ぐらいくれ」
立ち上がってドアノブに手をかけたリリーナに、アシュレイが慌てて待ったをかけた。
そして脱いでいたスーツを着て、ネクタイを手に取る。リリーナを待たせていると思って焦ったのか、何故かアシュレイはネクタイにてまどった。
もともとアシュレイは器用な方なので、こういう作業はむしろ得意だと思ったのだが、どうにもきれいな結び目ができない。
リリーナはドアノブに手をかけたままそれを見ていた。
しかしそれが焦りを助長させていることに気づいて、ドアノブからすっと手を離す。そして無意識のうちにふらりとアシュレイに近づいて……。
「ほら、いくわよ」
驚くべきはやさでアシュレイのネクタイを結ぶと、今度は扉を開けてアシュレイを待った。
リリーナの突然の接近にあっけにとられていたアシュレイは、ようやく現状を理解した。そして、リリーナに扉を押えさせていることに気づき、あわてて扉に駆け寄った。
「ありがと」
アシュレイの焦りなど知らないリリーナは、特に気にすることもなくするりと廊下に出ていった。
「敵わないな、やっぱり」
「何か言った?」
振り向きざまにリリーナはそう聞くが、アシュレイは首を横に振る。
「いや……なんでも」
口ごもったアシュレイに首をかしげたものの、リリーナはそれを追及せずに食堂車の方へと歩き出した。
面倒なことが嫌いなリリーナとはいえ、人並みに好奇心はある。
普段自分が絶対に乗らないような豪華列車の食堂車をひそかに楽しみにしていたのだ。だからアシュレイの心の機微にはあまり目が向かず、彼女にしては珍しく足取りは軽かった。
「今度は俺が開ける」
すたすたと先を歩くリリーナにやっと追いついたアシュレイは、自分たちのいる客車と次の客車をつなぐ扉を開けた。そして連結部分に入り込み、リリーナもまた連結部分に入ったのを確認して、その次の扉を押える。
「ありがと」
軽く微笑んで礼を言った後、リリーナは隣の客車にうつり、そして立ち止まった。
隣の客車にもリリーナ達の車両と同じく、三部屋で一つの客室が二つあった。つまり六部屋あり、リビングスペースと寝室スペースの二つに廊下につながる扉があるため、廊下には四つ扉があった。
リリーナとアシュレイが隣の客室に入ったと同時に、四つのうち、一番奥側の扉が開いた。
「忘れ物は?」
先に廊下に出てきて、扉を押えて中に問いかけているのは青年だった。
「へえ……」
普段、あまり男に興味がないリリーナも、不意に現れた男には目を奪われた。
左右対称なアーモンド形の目に、高く通った鼻、それから透き通るような白い肌。美女を形容するにふさわしいようなすべてが当てはまる男は、神が作った精巧な彫刻かと見まがうほどに美しい。
その輝くようなシルバーブロンドの髪も、凍てつくようなアイスブルーの瞳も、彼の美しさを引き立てる。
「ない……と思います」
シルバーブロンドの青年に見惚れていたリリーナは、心を揺さぶる透明な声にはっとした。
「自信なさげだね。まあいい……いくよ」
青年に続いて出てきたのは、一人の少女だった。
セミロングの蜂蜜色の髪に、丸い蜂蜜色の瞳。くるりとカーブしたまつ毛に、鼻は低く小ぶりだ。胸元の大き目のリボンの部分で切り替えがある、オレンジ色のドレスを着ている。
全体でみるとかわいいという形容詞が似合う少女だった。隣にいる男が美形すぎて、彼女は少し霞んで見える。しかし先ほど聞いた声は、その美形な男の存在感に負けない、至上の音だった。
「あ……」
先にリリーナとアシュレイの存在に気づいたのは、青年の方だった。
アイスブルーの瞳が、リリーナに向けられて、そして何故か驚いたような表情を見せた。その表情が妙に彼を人間的に見せて、不思議な安心感がリリーナを包んだ。
「こんばんは」
リリーナが青年から視線を外せないでいると、突然ぐいと腰を引き寄せられる。アシュレイの挨拶は、丁寧そうでいて、どこか挑発的だ。
すると驚いたことに、青年はアシュレイの行動を見て、少しだけ口の端を緩めた。そして彼もまた挨拶を返してくる。
「こんばんは。先ほどは……当てられましたよ」
「これはお恥ずかしい。ホームでのやりとりをご覧になっていたのですね」
ここでリリーナはようやく、自分たちが恋人同士という役を演じていることを思い出した。続いてさきほどの痴態を見られていたのだと自覚して頬が上気するのを感じた。
しかしアシュレイは特に気に留めていないらしい。それどころか、見せつけるようにして、リリーナの腰をしっかりとつなぎとめる。
「あの、こんばんは」
さきほどと同じく、心を揺さぶるような美しい声で、蜂蜜色の少女が会話に加わってきた。
「さっき素敵なカップルだなと思ってつい見てしまっていました」
決して大きな声ではない。しかし、列車による雑音の中でも、明瞭に耳に届いてくる声だった。それはまるで暗闇の中にぽつりと浮かぶ満月のように、人を惹きつける。
「こんばんは。リリーナと申します。お名前をうかがっても?」
他人への興味が薄いリリーナは、めったに自分から名前を聞くことはない。しかし、リリーナの心を揺さぶる彼女の名前には興味があった。
「スティナと申します。よろしくお願いします。リリーナさん」
にっこりと無邪気に笑ってスティナは名乗った。スティナの至上の声で名を呼ばれると、ふわふわと漫然と漂う雲に乗っているような、どこか夢の中にいる気分だった。
「アシュレイと言います。もしかして、スティナ・ホフステンさんではありませんか?」
「はい。でも、どうしてそれを?」
「ミスティア十二区のアトラス区の王立劇場であなたを見ました。歌姫としては無名のあなたの歌声に魅せられた同僚が、あの講演の主催者に名前を聞き出したんです。おそらくあの会場にいた全員があなたの歌声に聞きほれていたと思いますよ」
女嫌いのアシュレイが女を手放しでほめることは珍しい。たとえ処世術として愛想という技を身に着けたのだとしても、彼は本当に思ったことでなければ言わないだろう。
リリーナは、スティナのあの心を鷲掴みにする声ならばと納得する一方で、アシュレイが彼女に賛辞を送ったことに一抹の不安を覚えた。それはきっとアシュレイがにこやかな笑顔でスティナを見ていたからでもあるのだろう。
そしてまた、スティナもアシュレイに見とれているように見えた。
「そろそろ行かないと。間に合わなくなるよ」
冷たくそっけない声が、三人に当初の目的を思い出させた。
「きゃ」
美形の青年は、アシュレイとリリーナが動けずにいるうちに、スティナの腕を少々荒々しくひっぱり、あっというまに次の車両へと移動していってしまった。
「……超絶美形と魅惑のボイスってところ?」
「魅惑の……? 確かにきれいな声だけど」
アシュレイは首をかしげ、そしてそれから思い出したとばかりに急に眉をしかめた。
「お前、見惚れてたよな」
「そりゃ、あんな美人な男に出会う機会はあまりないしね」
ライバル心をむきだしにしているアシュレイもむなしく、リリーナの心はすでに夕食に向かいつつあった。
「俺じゃやっぱり敵わない?」
「無理でしょ。次元が違うわ」
そういう話をアシュレイがするのは珍しいなと思いながら、すでに歩き始めていたリリーナは、彼が絶句して固まってしまっているのに気づいていなかった。
「……まあ、でも、アシュレイはアシュレイで整った顔立ちだから、比べなくていいのよ」
そうして続けた一言で、アシュレイが耳まで真っ赤にしていたことにも気づかず、リリーナは黙々と歩みを進めていた。
一度でも振り返ればアシュレイの珍しい表情を見ることが叶ったはずだった。しかし、彼女は一度も振り返らず、アシュレイは一度もリリーナを振り返らせなかった。
「さすが……」
食堂車にたどり着いたとたんに漏れたリリーナの声は、豪華さに慣れてきて、幾分か落ち着いたものだった。
食堂車の内装は、都会のお高いレストランさながらだ。黒の壁紙と、焦げ茶色の木目の床、それに白い天井と、オレンジ色の光を放つシャンデリア。壁紙は黒いというのに、大きな窓が車両の両側いっぱいに広がっているため、そこまで重く見えない。
テーブルにはバーガンディのテーブルクロスがかかっており、それには同系色の糸で薔薇が刺繍されている。椅子はクッション性が高く、背もたれにもしっかりと綿が詰められていて、リリーナが腰掛けると、体の重みで程よく沈んだ。
並べられた銀食器もピカピカに磨かれていて、グラスはまるでそこに存在しないかのような透明度を保っていた。
「もう驚くことはないかしらね」
「豪華さに見慣れた?」
「ええ。きっと私、一生分の贅沢をしてるんだわ。この豪華さに見慣れる(・・・・)なんてね」
どこか呆れたように呟いたあと、リリーナはふと笑みを漏らす。
「たまには面倒事も悪くないかも」
その笑みに見惚れていたアシュレイは、リリーナの言葉に小さく一度頷いてしまった。
しかしすぐに我に返って、首を横に振って、リリーナの方を疑わしげに見た。
「たまには? お前はいつも巻き込まれてんだろうが」
「巻き込んだのはアシュレイだけどね」
「え?」
リリーナのふとした一言に、アシュレイの声が裏返った。その言葉はまるで今回の計画の裏を全て見透かしているかのようだったからだ。
しかしそんなアシュレイの心配をよそにリリーナは言葉を続ける。
「アシュレイがあんなに旅行に行きたそうにしてなかったら、来なかったわ」
「え?」
「わりと、楽しみにしてたよ。アシュレイとの旅行。……アシュレイは?」
予想外の言葉に喜びを感じていたが、あまりに感極まりすぎて、アシュレイはその先の言葉をすぐに言うことができなかった。
体中を熱が支配して、目の前にいる銀髪の美女に、長年の想いすべてをぶつけたくなっていた。
「お待たせいたしました」
しかし時はアシュレイを待ってはくれなかった。
アシュレイが言葉をつまらせている間に、ウェイターがワインを持ってきて、グラスに注ぐ。
透明なグラスが、紅く宝石のような輝きを持つ液体によって、その存在を主張し始める。
そしてそれをリリーナの細く長い指がすっと掴んだ。
「乾杯しましょうか」
夜明け前の深い空の色の瞳が、まっすぐとアシュレイを見つめていた。
アシュレイもまた、それに負けじとまっすぐに視線を絡ませる。
「じゃあ……二人の旅路に乾杯」
グラスとグラスがぶつかって、小さく高い音を響かせた。
アシュレイとリリーナ 水無月カンナ @kannnaminaduki
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