3-1 彼と彼女と駅のホーム

 アルヴァの駅のホームで、リリーナはトランクとカバンを持って、小さなため息を一つついていた。

 結われていない銀色の髪は、自由に風に踊り、夜明けを思わせる双眸は目の前に停車している列車を捉えていた。

 普通列車とは明らかに装飾の凝り方が違うそれは、平和でのどかなアルヴァの町にはそぐわない。

 アルヴァの住民たちは、駅にこの列車が止まっていると、ひそかに列車の旅を空想して、まだ見ぬ車窓からの風景に焦がれたものだった。リリーナは列車旅など面倒なものに興味はなかったが、しかし人並みの好奇心はあるもので、列車の中を見学ぐらいはしてみたいと思っていた。

 しかしまさか自分がそれに乗ることになるとは、人生とは分からないものである。

 ちらほらと集まり始めた乗客たちは、どの人も皆、一目で貴族だとわかるような恰好をしている。

 リリーナもこうなることが予想できていたので、レーナが押しに押したフォーマルなワンピースに袖を通していた。着衣の面倒なワンピースと歩きづらいヒールの靴を履くよりも、他の乗客に目をつけられることのほうが面倒だと分かっていたからである。

 キャミソールタイプのネイビーのワンピースは、ちょうど膝が隠れるかどうかくらいの丈で、露出が少なすぎず多すぎずのものだ。その上に透けるネイビーの生地のボレロをはおり、真珠のネックレスをつけていた。

 落ち着いた色のドレスに、リリーナの銀髪は良く映え、普段はあまりしない化粧もそれなりにすることで、リリーナは見た目だけは貴族の子女のように化けていた。

「なんで視線を浴びるかな……」

 しかし彼女は乗客におとなしく混ざるには、目立つ美貌を持っていた。そもそも珍しい銀色の髪だけでも目立つのに、彼女の顔立ちは整っている。

 美人ではあるが、どこか儚げな彼女の顔立ちは、いつもよりもきっちりとした装いによって色香を増し、乗客たち、とくに男の視線を集めていた。

 そしてなによりも、彼女の側に、彼女の旅の同伴者がいないことも大きかっただろう。年若い彼女が一人で旅をするとは考えにくく、護衛と思しき男もいないのでは、誰もが疑問に思う。

 しかしそんな周りの心中を覗き見ることはできないリリーナは、自分の格好が貴族のそれに見えないに違いないと勝手に結論を出していた。

「御嬢さん」

 自分をさす呼びかけに、リリーナは反射的に体を固くする。

「はい」

 リリーナに話しかけてきたのは、白髪交じりの茶髪の男性だった。リリーナからすれば祖父にあたるくらいの年齢だろうか。おそらく六十くらいだろう。

 動きはにぶくないが、髪色と顔や手に刻まれるしわ、そして声に現れる落ち着きからリリーナはそう判断した。

「御嬢さんはお一人で?」

「いいえ。アシュレイ……旅の同伴者は、少し仕事が立て込んでいるようで」

 リリーナが答えると、周りの乗客がひそかにざわめく。

「……おじさまはご夫婦で?」

 年上の男性に呼びかけるときの言葉選びに悩み、とりあえずおじさまという言葉をえらんでおいた。

「はい。そのとおりです。孫ももう手がかからない歳ですから」

 穏やかに笑って、うなずいた男性に、リリーナは少しだけ警戒心を緩めた。

 さきほど笑顔の素敵な、少しふくよかな女性が傍にいたことを思い出す。リリーナの予想通り孫はもう手がかからない歳ということは、彼もそれなりの歳だろう。

 家族が落ち着いてきて、夫婦で旅行に行こうという話になったのかと、少し暖かい気持ちになった。

「ところで御嬢さん。よろしければお名前をうかがっても?」

 先ほどと変わらない穏やかな笑みと、その低く耳触りのいい声は、男性の本音を推し量るには邪魔なものだった。リリーナは一度といた警戒心を戻して、そして少し大きめの声で答えた。

「……リリーナと申します」

 あえてファミリーネームは名乗らずに、ファーストネームだけを強調して名乗る。

 それは他の乗客に対しても、ファミリーネームを名乗る気がないという意志の表れだった。

 レーナとハイルには、貴族の客との折り合いをつけるのにどうすべきかを教わっており、大切なのは相手に自分がそれなりの出だと言う風に思わせることだと言われていた。

 そんなことをせずとも、いざとなればアールステッド侯爵家の遠縁の娘だと名乗ることを許されていたのだが、どうやって許可をとりつけてきたのか分からないその名を使うのにはかなり引け目がある。

 そのためリリーナはとにかく演技に徹することにしたのだ。

「なるほど」

 リリーナが名乗ってから、しばらく動くことのなかった空気は、男性のつぶやきによって動き出す。

「面白い。では、私のことは“おじいさん”と呼んでください」

「え……? おじいさん、ですか?」

「さま、ではなく、さんで。この列車にいるときは、ただの客ですから」

 どうやら一本とられたらしい。おじいさんは、頭の回転の速い人だ。リリーナの意図をくみ取り、かつ、リリーナが過ごしやすいように取り計らってくれたのだろう。

 先日老婆に襲われた経験が頭をよぎるものの、おじいさんは少なくとも現段階では安全だろうと感じていた。

「あら……可愛らしい御嬢さんね。うちの人が迷惑をかけてない?」

 いつの間にか戻ってきたらしい、おじいさんの妻らしき女性が、柔らかな笑顔でリリーナに話しかけてきた。

 彼女の瞳をしっかりと見据えて、彼女にも敵意が無いことを確認してからリリーナは表情を緩めて名乗った。

「リリーナと申します」

「私がおじいさんだから、おばあさんと呼んであげてください」

「あら、リリーナなんて可愛い名前。この人のいう通り、おばあさんで構いませんよ」

 もともとそういうことを気にしない人なのか、一連のやりとりを実は見ていたのかはわからない。しかし、二人のこの態度によって、これからの旅でリリーナが名乗らないという立場を崩さずにいられる地固めができた。

「ありがとうございます」

 周りの人には聞こえないように小さな声で言えば、おばあさんがいたずらっぽく微笑んだ。

「若い人ってうらやましいわねえ。ほら、あなたの待ち人がいらっしゃったわ」

 後ろを振り返ったリリーナは、何度かまばたきをした後、視線を前に戻す。

「なんか……在りえないもの見た気がする」

 丁寧な口調を崩さなかったリリーナは、今日初めて素に戻っていたことにも気づかずに、一人つぶやいた。

 そんな様子を見ていたおじいさんとおばあさんは楽しそうに微笑んで、そうしてリリーナの待ち人に向かって話しかける。

「あなたがリリーナさんの待ち人よね?」

「はい。アシュレイと申します。将来のために、私たちの両親が二人きりで親睦を深めてこいと、この旅行を計画してくれました」

 足音がリリーナのすぐ後ろで止まり、そしてアシュレイは後ろからリリーナの腰を抱き寄せた。

「待たせてごめん。そのワンピース、よく似合ってるよ」

 リリーナが左斜め後ろを見上げると、アシュレイの顔が予想外に近くにあった。

 そしてまた、先ほどと同じく、信じられないものを見た。

「誰……」

 アシュレイは驚くほど甘い笑顔を見せていた。

 普段は女避けとばかりにひどく冷めた表情で、その整った顔立ちをより鋭利に見せているというのに、今日の彼にはそれがない。

 整った顔立ちに甘い笑みを浮かべて、周りにいる乗客に見せつけるかのごとく甘い台詞を吐くのは、もはやリリーナの知るアシュレイではなかった。

 そもそも最近ではアシュレイの王立魔法騎士団の制服姿を見慣れてしまっていたため、彼が白い襟付きのシャツに、黒のジャケットを羽織っていることもアシュレイが別人のように見えてしまった一つの原因だろう。

 色々な意味で珍しいものをみたリリーナは、アシュレイの言葉の意味を理解し損ねていた。

「あら、素敵! じゃあお二人は将来を誓いあった仲なのね!」

 おばあさんが嬉しそうに両手を合わせるのを見て、リリーナはようやく今の状況と、アシュレイの言葉が周りに与えた影響を理解した。

 あわてて周りを見回すと、乗客のほとんどがこちらを見て、若いカップルに微笑ましい視線を送っている。

 そういう前提であると聞かされてはいたものの、いざそういう立場に立たされてみると、あまり感情の起伏が激しくないリリーナでも、羞恥心で頬が染まる。

 体の中心から熱を発して、頭がおかしくなってしまいそうだった。

「こらあまり若い人をからかうんじゃない」

 あまりの事態に固まってしまったリリーナに、おじいさんが今にも根掘り葉掘りと話を聞いてきそうなおばあさんをたしなめた。

 リリーナはどうにか状況を受け入れると、自らの腰に回されたアシュレイの腕に手を置き、そうして左ななめ後ろを見上げた。

 そして、にっこりと満面の笑みを浮かべて言う。

「間に合ってくれて嬉しい。ずっと会えるのを楽しみに待っていたから。あとでゆっくりとお話ししましょう?」

 その笑みは、どんな男も見惚れるほど美しいもので、実際、特別列車の男の乗客のほとんどが彼女の笑みに心を奪われていた。

 アシュレイはその笑みに心奪われながらも、彼女の瞳がまったく笑っていないことに気づき、内心冷や汗をかいていた。

「……こんなに美しい君と旅行中一緒にいられるなんて、私の心臓がもたないかもしれないな」

 しかし、ここまでくればと渾身の演技を続けた。

 その常とはかけ離れたキャラを演じるアシュレイに度肝を抜かれたリリーナが、押し黙ったことにアシュレイが少しだけ優越感を得たのは言うまでもなかった。






 駅のホームで一世一代の名演技を披露した二人は、その微妙に気まずい空気を抱えたまま、乗車手続きをした。

 さすがに腰に腕を回すのは止めたアシュレイだったが、いつもよりその距離が近い。

 リリーナはいつもとあまりにも違うアシュレイの態度に、ドキドキさせられ続けていた。

 それと同時に、いつもは振りまかない彼の渾身の笑顔が、女性客や女性乗務員の視線を惹きつけてやまないことに、言葉では表現しがたいわだかまりを抱えていた。

「楽しい旅になりそうだ」

 余裕のないリリーナとは反対に、なぜかアシュレイは余裕があるようで、楽しそうにそうつぶやいた。

「光栄なお言葉です」

 その言葉を拾った乗務員は、きっちりとそれに反応し、そして、二人の部屋の前までくると、扉を開けて押さえてくれた。

 アシュレイの方に視線をやると、先に入るように促されたので、リリーナは部屋に足を踏み入れた。

「すごい……」

 リリーナの目に飛び込んできたのは、予想外に広々とした部屋だった。

 部屋の左側にはクローゼットがあり、真ん中には少し低めのテーブルが、右側にはゆったりとしたソファが備え付けられている。ソファの隣には扉があり、次の部屋へと続いているのだろう。

 入り口の真正面には大きな窓があり、明るい日の光が差し込んでいる。

 部屋は全体的に赤茶色系統の家具で統一されており、オフホワイトの壁紙が黄色い照明で照らし出されていた。

「では、ごゆるりと旅をお楽しみください」

 一声そうかけて乗務員が退出してしまうと、リリーナはアシュレイと二人、広い部屋に取り残されることになる。

 するとアシュレイは甘い笑顔を捨て去り、疲れたとばかりにため息を一つついた。

「ため息をつきたいのはこっちよ。何、あの演技?」

 次の部屋を見るよりも先に、ソファに腰掛けたリリーナは、黒いジャケットを脱いでいるアシュレイを下から睨みつけた。

 アシュレイはクローゼットを開け、黒のジャケットを丁寧にハンガーにかける。そしてしばし悩んだあと、リリーナの隣に腰掛けた。

「とにかく笑顔で物腰柔らかにしておけば、どこぞのやんごとなき人に見えるだろうっていう上司からのありがたいお言葉だ」

「それにしたって……アシュレイの口からそのワンピース似合ってる、なんて言葉を聞く日が来るなんて!」

 笑っちゃうわ、と付け加えようとしたリリーナは、隣にいるアシュレイの顔を見て、その言葉を飲み込んだ。

「わりと本気で似合ってると思ったんだよ、ばか」

 顔は前を向いたまま、視線だけをこちらに流して、照れを隠すかのような表情でそんなことを言って見せる。

 いつにないアシュレイのその反応に、リリーナは思わずばっとアシュレイとは反対側にある窓の外の方へと視線を逃がした。

 まだ駅で止まっている列車から見える風景は、部屋に入った時と変わらない、アルヴァのホームだった。

「……今日、どうかしてるんじゃないの。いくら恋人役だからといって、あそこまでしなくても……」

 どちらかといえばいつも振り回している側のリリーナは、今日はアシュレイに振り回されっぱなしだった。それがどことなく悔しくて、リリーナは不満げに口をとがらせる。

「嫌だったか?」

「何が?」

「俺の恋人役」

 窓の外に向けていた視線を思わずアシュレイの方に戻すと、予想以上に近い場所に彼がいて、リリーナはわずかに身を引いた。

 そして、視線を落としてアシュレイがソファについている手を見つめた。

「どうして嫌だと思うの?」

 それは呆れも含んだ問いだった。

 リリーナにとっては、アシュレイを嫌だと思うはずがないという、遠回しの意思表示だった。

 しかしアシュレイはそうは思えなかった。

「リリーナは――」

 途中まで言いかけたところで、視線を下げるリリーナが目に入った。

『リリーナは、好きな人がいるのか? 俺の恋人役は演技でも嫌か?』

 そうやって問いかけようとした。

 しかし、それはできなかった。

「――やっぱりいい!」

 ソファが反動で揺れるほど勢いよく立ち上がったアシュレイは、さきほど気にも留めなかった続き部屋への扉に手をかける。

「嫌だとしても演技は続ける! それが一番面倒じゃないっていうのは、お前が一番わかってるんだろ?」

 アシュレイが問いかけようとした問いを知るはずもないリリーナは、あまりの脈絡のなさに面をくらった。

「うんそれはそうだけど……どういうこと?」

「どういうこともこういうこともない! ……あ、ここ、シャワーと洗面台がある」

「え、シャワーも各部屋にあるの!」

 強引に話を変えたアシュレイに、リリーナは上手い具合に乗せられた。

 そんな二人が列車の中とは思えないような設備に感動している間に、列車は無事、発車した。



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