第12話 水晶の加護

 魔法大全集という書物がアフトクラトラスには存在する。

 それは、現在に至るまで行使されてきた魔法の歴史そのものを記す書物であり、その起源、開発、種類その他に至るまで幅広く明記されていた。魔法名、効果、属性などの項目は丁寧にランク分けされており、比較的、使用頻度の多いものから希少なものまで多岐に渡る。

 また、禁忌とされている禁呪や、未完成な魔法。そして現状、「あると思われるが実際に確認はされていない」詳細不明な魔法まで記されていた。

 それほどの情報量を誇る書物である。当然それは分厚く、やろうと思えば人間など撲殺できるのではないかと思えるほどの重量感が漂うものだった。


 

 静寂に包まれた森の中。

 アフトクラトラスの国境を抜けた先にある森林の影で、魔法大全集を読みふける青い目がそこにはあった。彼女の頭上では、燦燦と陽の光が差し込み、木々を美しく彩る。その隣で即席のテントを建てている黒髪が風に揺れた。

 その黒髪の女性は無言でページをめくる彼女の隣に腰かけると、視線を移す事無く話しかけた。


「何か食べるものない? 肉体労働は疲れるわ」


 黒髪の女性……シオンのその言葉に彼女は反応したのか、丈夫で大きく、きちんと手入れされた皮袋の中から紙でできた袋を無言でシオンの目の前にぶら下げる。勿論その青いサファイアの瞳は依然、本を見つめたまま動かない。

 

「ありがと」


 短くそう礼を言うと、シオンはその紙袋の中へ無造作に手を入れる。

 中には、小さく丸く成型されたパンが入っていた。それをポイッと口へ放り込むと、予想外の味がしたことに驚いたのかシオンは、その真紅の瞳を見開いた。

 通常、パンという食物は多少なりとも塩気があるものだ。だが先程、口にしたものはそれを覆す甘酸っぱい味だったのである。


「……意外だわ。甘いのねこれ」


「近くに自生していた果実の種を抜いてすり潰し、砂糖を混ぜたものをパンの切れ目に塗った。たまにはこういうのもいいだろう」


 気に入ったのか次々とパンを口へ放り込むシオンに視線を移す事無く、彼女……リリーナはその瞳を本の内容へ巡らす。

 彼女が調べているもの。それはクリスタル化の魔法の詳細である。

 リリーナ・シルフィリアは賢者だ。その魔法に関する知識は並大抵のものではない。現に彼女を体現する「竜言語ドラゴンズロア」を扱えるのはリリーナのみであり、また、最上位魔法ハイエンドマジックを単独で成功させるものまた、人間の中では彼女だけなのだ。……あのシルフィリアの名を冠するもう一人のリリーナ以外では。

 そんなリリーナの知識にすらないであろうクリスタル魔法。その存在にこの死の世界の真実を確かめる以前に、彼女をある物が原動力となって動かすのだ。それは魔法に対する知識欲と探求心である。


 本から目を背ける事無くリリーナのその白い小さな手が、シオンとの中央に置かれた紙袋へとゆっくり伸びる。ガサゴソと中身を漁り自らの自信作を手に取ろうとしたその瞬間、彼女はあることに気が付いたのか綺麗に整った眉をピクリと動かした。

 

 ない。そう。存在しないのである。


「シオン。……私のパンがないんだが?」


「さっきので最後みたいね」


 甘いパンという想定外の味に満足したのか、上機嫌に微笑みながらシオンはそう呑気に答える。その横顔をリリーナは、鋭い瞳で睨みつけた。


「なんで食べなくても生きられるお前がたらふく食べて、食べないと生きていけない私が一口も食べられないのか!」


「本を読むのに夢中で食べないあなたが悪いのよ」


「そんなに嫌ならパンに魔法障壁でも張りなさい」


 シオンの口から出た正論にリリーナは二の句を継げなくなったのか黙り込むと、残りのパンにナイフで切れ目を入れ先程、作った果実と砂糖を混ぜたものを塗り始める。

 そして、もそもそと口へ運ぶとその甘酸っぱさが広がり満足したのか、彼女の不機嫌そうな顔がみるみるほころんでいった。

 リリーナのその光景を横目で確認するとシオンはゆっくりと立ち上がり、丈夫な皮で作られたテントの入り口をめくる。そして、今だ本から視線を逸らさない彼女の背中へ語り掛けた。


「中で休んでいるから何かわかったら呼んで」


 リリーナの返事を待つ事もなく、シオンはテントの中に布を敷くとごろんと腕を頭の下に組み横になる。

 

 シオンが人と接し生活するのは久しぶりだったのだろう。その目を瞑る表情はどこか穏やかに見て取れた。

 いや、久しぶりという表現すら正確ではない。もう経過した年月すら忘れた過去の話なのだ。

 

 彼女は死神と言われた。シオンという名も今、この体の持ち主だった女の名前で、彼女本来の名前ではない。時と共に体を変えその都度、名前も変えた。

 シオンは、その体の持ち主の名前を名乗ることに決めている。そして、体を変える際、前の持ち主だった名は捨てるのである。共に旅をする相手もおらず刃を向ける相手は斬り、「調整者コーディネーター」として「監視者オブサーバー」から頼まれれば、人でも悪魔でも神でも斬った。

 そんな彼女が人として今、営みを持てるのはリリーナの存在があるからである。

 以前は彼女を手に入れようとしていた時期もあった。殺そうとしていた時期もあった。だが何故だろうか。

 今はシオンにとってリリーナという存在は、欠かすことができないほど大きなものとなった。この死の世界で唯一の生者だからか? いやそれだけではない。

 リリーナがシオンを「一人の人間」として扱っているからに他ならなかった。もしかしたら忘れるほどの時の流れの中でシオンは、ようやく安息の地を見つけたのかも知れない。


 

 数時間が経っていた。

 外は陽が落ち始め空が赤く染まり始める。昼の明るさが徐々に失われていく中で、リリーナの青い瞳はある一点に集中していた。


 ……最上位防護魔法・水晶の加護<ハイエンドプロテクションマジック・クリスタルディバインプロテクション>


 それがクリスタル化の魔法名である。

 防護系統の魔法は幾つか存在するがその中に最上位ランクがあることを彼女はその時、初めて知ったことだろう。

 魔法大全集によると、その魔法は究極とも言える防護魔法で、クリスタルに覆われている間、全ての外的要因から解放されその身は世界から隔離される。

 隔離……それは全ての事象からである。つまり時間からも隔離され、使用者はクリスタルの加護の中において「時間逆行」の現象が起きると明記されていた。その後遺症として「記憶を失う」ことが確認されているとも書かれている。

 そして、クリスタルに覆われた状態からの解除方法は不明である。


 恐らくこの大全集に書かれている内容は、ただの憶測に過ぎないようだ。時間逆行をするのなら時間軸そのものが使用者とズレが生じるということを意味する。さらに記憶も失うので確認する方法すらないのである。

 あらゆる衝撃、斬撃、打撃から耐えるクリスタルの耐久性能の証明は、施行した人間をクリスタルごと外的要因を加えれば判明することだ。時間逆行の現象が生ずる際、クリスタルそのものが消失し過去へ行くのかは記載されてはいない。


 恐らく試行回数そのものが少ない、もしくは伝え聞いた話をそのまま載せているだけなのかも知れない。それもそのはず。最上位魔法を扱える人間などほとんどいないからである。最上位魔法などリリーナという例外を除けば、王宮魔術師が数人がかりでようやく未完成の魔法を発動できる非常に難易度の高い魔法なのだから。

 ただ、それはあくまで「人間の範疇」の中における話であり、人外へ視野を広げると一概には言えない。それこそ最上位魔法を扱える存在がいる可能性も十分に高いのだ。

 あるいは、この大全集に記載されている内容は、人が実践し書いたものではなく人智を超えた存在から与えられた知識なのかも知れない。


 彼女の銀色の髪を木々の隙間を通る風がなびかせる。

 大全集に記されている内容は、現時点では役に立ちそうもない。せいぜい魔法名が判明したことくらいである。


「情報が足りない。やはり、会いに行くしかないか……」


 リリーナはそう呟くとおもむろに立ち上がる。

 縮小リダクションの魔法で、魔法大全集を小型化するとそれをバッグに入れ、シオンが横になっているテントへと足を進めた。入り口を開けると目を瞑り横になっている彼女へ言葉を投げかける。


「起きてるか? シオン? 今日はここで野宿した後、ドワーフの地下都市へ向かう」


 シオンの返事を待たずにテントを閉めると夜に備えリリーナは焚火の準備を始めた。その時、脳裏に何かがよぎったのか、目を見開き薪を集める彼女の手が止まる。


(……何故、私はこうして動いている?)


 リリーナは、視線を落とし白い小さな手を見つめた。

 クリスタルに覆われた状態からの解除方法は不明である。大全集にはそう記載されていた。それが真実かどうかは定かではない。だが現に彼女はこうしてクリスタルから生還しているのだ。

 茫然と立ち尽くすリリーナを巻き込むかのように吹いた風が、木の葉を宙に浮かせていた。

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