第7話 アフトクラトラスの慟哭 中編
リリーナは、フラン・エスペランスに早めの夕食に招待されていた。
天井から吊るされた豪華なランプが室内を照らす中、長方形のテーブルが白いクロスに覆われ、その上に豪華な料理が並ぶ。上流階級に属する人間の食事そのものであった。
だが、リリーナの喉はなかなか食事を受け付けない様子である。料理を食べる気分にはなれなかったのか、その表情はどこか淀んでいた。
彼女の異変に気が付いたフランが、心配そうにリリーナの顔を覗き込む。
「どうしたの? 体の調子でも悪い?」
「ちょっと食欲がないんだ。すまない。フラン」
リリーナはそう苦笑すると、おもむろに席を立つ。そして、部屋の入り口に控えている侍女の一人に突然、声をかけた。
「死神の分の料理を作りたい。すまないが厨房を借りてもいいかな?」
その言葉を耳にした途端、侍女は驚愕したのか目を見開いた。
リリーナ・シルフィリアは貴族ではない。だが、仮にも国王に進言し、国すら動かす事が可能な地位にいる賢者なのである。その人間が厨房に立つなどあり得ない話なのだ。
固まる侍女に小首を傾げ、彼女の口が再び動いた。
「……駄目だろうか?」
リリーナは不安そうに侍女の顔を覗き込む。ハッと我に返った侍女が慌てた様子で頭を下げた。
「こちらにございます」
侍女の一人に案内され厨房にたどり着くと、リリーナはありふれた食材で調理を始める。それは切ったライ麦のパンに燻製肉を乗せ、香草を添えて焼いたものと、豆と野菜を煮込んだスープだった。
食事を終え、興味津々にフランが厨房で調理に勤しむリリーナへ近づく。そして、笑顔で彼女の顔を覗き込んだ。
「リリーナが料理している光景を見るのは、初めてかもね」
「こう見えても料理は、そこそこできるつもり」
リリーナは手を動かしながらそう答える。その時、隣で見つめるフランの視線に不気味な感覚を覚えたのかその表情が一瞬、固まった。
それはまるで、自分を噛み切ろうと牙を剥ける獣が放つ殺気とも受け取れる視線である。
「……美味しそう」
そう呟くとフランが舌舐めずりをした。その行為を目にして一瞬、リリーナが背筋に寒気が走ったかのように体を震わせる。
何故なら彼女の目は、料理に向けられてはいなかったのだ。明らかにリリーナの柔らかい白い肌を見据えていたのである。
出来上がった料理を取っ手のついた木製の板に乗せると、リリーナはその場から逃げるようにある部屋へと足を進めた。そんな彼女の背中をフランは黙って見つめている。
歩くリリーナは、フランの奇怪な行動が脳裏にこびりつくのか、それを振り払うかのように、小さな頭を左右に振った。
彼女の笑顔や共に戦った横顔と、先程の不気味な表情のフランがリリーナの頭の中で交錯するのだろう。どちらが正常な彼女なのかなど問題にならない。何故なら両方ともフラン本人だからである。ただ、片方は生者で片方が死者なだけだ。
だが例え死者であるとしても彼女の青い瞳に写るのは、紛れもない生者であるフランなのは明白だ。むしろ、牙を剥き変貌し、襲いかかってきてくれた方が諦めがつくのかも知れない。
ただリリーナは、今は彼女から逃げたかったのだろう。その足の運びが次第に速度を上げた。
シオンがいる部屋に到達すると、料理を
リリーナが部屋に足を踏み入れたのに気が付くと、シオンは視線を合わせる事無く口を開いた。
「死者との晩餐会じゃなかったの?」
「どうも喉を通らなくてな」
リリーナはそう苦笑すると、料理をシオンの目の前にあるテーブルに並べる。かぐわしい香りが部屋に漂い始めた。
彼女の瞳がそれを確認すると、突然、シオンの体が動き出し椅子に腰かける。
「あなたの料理なら口にするわ」
「食べる前からわかるのか?」
「あなたの料理は香草やスパイスの使い方が独特なのよ。匂いでわかる」
「……意外と細かいんだな」
テーブルに並べられたリリーナの手料理をシオンは口にすると、その顔がほころんだ。どうやら口に合うらしい。
彼女はそれを確認すると、椅子に腰かけ自分用にも調理していたライ麦のパンを口にした。咀嚼するとパンの味とその上に乗せられている肉の味が口の中に広がるのだろう。その表情はシオンと同様にほころんでいた。
食事を終えると、シオンと向かい合う形で椅子に腰かけているリリーナが、おもむろに口を開く。
「……一つ気になることがある」
「フランは最初、この家に私達が来た時、『最近は宮殿にいるそうだけど』と言った。だが、クリスタルになる前の記憶でも宮殿にいた記憶はない。あの爺共がいた宮殿などこちらから御免だ。だがそれはつまり……」
彼女は、そこで言葉を止め、青いサファイアの瞳でシオンを見つめる。その表情は真剣なものだった。
「私達がクリスタルの中にいた期間から現在にかけて、フランや他の人間が私と見間違える存在が、あの宮殿にいたということだ。私の身なりを真似している曲者か、もしくは……私と瓜二つの人物」
「例の『二人目のあなた』ではなさそうね」
「確かに石を持ち込んだ人物と同一かはわからない。ただ、宮殿に何か『不可解な存在』がいることは確かだ」
「明日、宮殿に行くつもりだ」
リリーナのその言葉を耳にした途端、シオンは彼女の視線を逸らした。一人、窓の外に広がる赤く直に闇へと沈む空を見ながらゆっくりと口を開く。
その言葉はリリーナの耳に不気味な余韻を残すものだった。
「明日……ここにいられたらね」
「……それは、どういう意味……」
彼女がその言葉を言い終わらぬうちに音もなくシオンは立ち上がる。その赤い瞳は、まるで見えない何かを追うように何もない空間を見据えていた。
シオンのその人間では到底、認知が不可能な範囲まで認識できるであろう鋭敏な感覚が、何かを捉えているのか真紅の瞳でそれの動きを追う。
彼女のみが感じるであろう腐った血の臭いが漂う。それと同時に耳に響くのは、人の言葉には聞こえないうめき声と何かを「
急激にシオンの纏う空気が一変する。まるで彼女が纏う空間そのものが凍結するかのような張りつめた殺気だった。その殺気に触れ、咄嗟にリリーナは
しかし、シオンの視線の先に不気味な「何か」が蠢いているのをリリーナは肌で感じたのか、その瞳は鋭いものへと変貌する。
「……荷物をまとめなさい。今すぐ」
その声に素早く反応し、リリーナは金貨や銀貨が入った丈夫な皮袋を肩から下げ、
するとシオンが動き出した。ゆっくりと扉を開け、部屋の外に出る。リリーナ達がいた部屋の前は小さな広場となっており、その横に広がる通路の奥に侍女の足が横になっていた。その足元から腐った赤黒い血だまりができている。
闇が蠢いた。
侍女のすぐ傍に何かが立っている。それは血で染めた桃色のドレスを着た貴婦人だった。美しい金色の長髪を揺らし、両手には
濃密な瘴気を体全体から立ち昇らせながら、その女性は、赤黒い血で染められた口元を歪ませた。
彼女の姿を見るなり、リリーナは目を見開き、その小柄な体が小刻みに震える。何故ならそこにいるのは……あのフラン・エスペランスなのだから。
その余りにも本来の姿からかけ離れた彼女に声をかけようとするリリーナを、シオンは片手で制する。赤く光り輝くルビーの瞳を変わり果てたフランへ向け、口を開いた。
「……リリーナを食べたいのでしょう?」
「いくら食べても空腹感が満たされない。その体は熱を帯び、男を求める」
「……どうなってやがる」
フランが突如、双剣を地面に落とし、頭を掻きむしり始めた。金属が床を打つ音が耳に響く。
彼女の両手には抜け落ちた金色の髪がまとわりつき、それに視線を落としながらフランの目が狂気に満たされたかのように妖しく光り、瞳孔が大きく見開いた。
「いくら食っても満たされない。いくら寝ても眠気が取れない。体が熱くてしょうがない。そして……」
突如、顔を上げるとその狂った瞳がリリーナを見据える。地面に落ちた双剣を拾い上げ、フラフラと前へ歩み出た。
「リリーナが……リリーナが食いたいんだよ」
動く死体へと変貌を遂げたかつての友人にリリーナは、最悪の事態が現実となったことへの恐怖を感じたのか蒼ざめた表情を浮かべ、ゆっくりと後ずさりをする。
それを見た瞬間、何か痛みを感じるかのようにフランは、頭を抱え地面に膝をついた。
「……何、言ってんだ。リリーナは友なんだろ? 私が女王になってリリーナが賢者になって……」
フランの狂気の瞳から血の涙が溢れ出る。彼女は、まるで過去の記憶を遡るかのように頭を振り出した。
その姿にシオンの背に隠れる位置に佇むリリーナが、自らの手を差し伸べ体を前に出そうとする。
「そうだ。フラン。君はそのまま人間性を保つんだ。そうすれば……」
リリーナの言葉はそこで途切れた。
突如、動いたシオンの腕が彼女のその華奢な体を後ろへ弾き飛ばす。倒れ込んだリリーナの頭上に、シオンの冷酷な言葉が響き渡った。
「大事な友の変わり果てた姿を見て、もう心が折れたの? だらしないわね。死者は死者でしかない。生者にはなれない。何度言えばわかるのかしら?」
「あなたはそこで黙って見ていなさい。この女の結末を。そして、自分が何をすべきなのか……再確認しなさい」
膝を折るフランの目の前にシオンが立ちふさがる。その赤い瞳は冷酷な光を纏い、彼女を見下していた。
「フラン・エスペランス。……お前はもう死んでいるんだよ。生者だと思っている? それはただの思い込み。ただの願望」
「お前はもうただの
「フラン。お前を斬って、そして、リリーナの迷いをここで……断ち切る」
シオンの口が短く言葉を紡ぐ。
それは、リリーナが初めて耳にするであろう彼女が自身へ肉体強化魔法を施す声だった。つまりそれは、シオンが本気でフランを斬る意思があることを明確にしているとも言える。
「上位全能力強化<ハイポテンシャルブースト>」
「身体増強<ボディストレング>」
「上位身体増強<ハイボディストレング>」
体全体に力をみなぎらせ、その右手がシオン本人の目の前に差し出される。その手に闇が収束し空間が歪んだ。
「上位死霊武器・死神の大鎌召喚<ハイランクファントムウェポン・デスサイズサモニング>」
濃密な闇が次第に細長く伸びはじめ、巨大な刀身を持つ物体を形成する。
それはシオンの等身大ほどの大きさを持つ大鎌だった。空中に浮く巨大な三日月の刀身を彼女が手にすると、纏っていた闇が弾け霧散して消え去る。
シオンが素早く大鎌を横に構えた。黒光りする刀身が獲物を求めるかのように妖艶な光を放ち、周囲に漂う霊気を吸収していく。それは耳鳴りのような甲高い音を発していた。
研ぎ澄まされた刀と強化された肉体から繰り出される斬撃がどれほどの威力を誇るのか、目にするリリーナが瞬時に理解するであろうほどの物理的圧力を伴う殺気が、死神の大鎌には漲っていた。
「……あの時の決着。今、ここでつけましょう? 双剣聖?」
その言葉に反応したのか、フランは立ち上がりその双剣を構える。
彼女はまるで人間に戻ったかのように冷静さを取り戻し、その足が音も無く前へ歩み出た。その動きはまさに、かつて国王の座す宮殿で死神と戦った時のフランそのものである。
「だめだ……フラン」
後ろで倒れ込むリリーナには、この二人の戦いの結末がすでに見えているのだろう。フランを助けようとするかのように手を彼女へ向けて伸ばした。
弾き飛ばされた際に打った体の痛みに耐え、彼女ははいずるかのように前へ進もうとする。だがしかし、そんなリリーナを遮るかのように二人が同時に動いた。
大地が収縮したかのように距離を一瞬で詰めたフランが、その手にする
光を纏う白刃が自身の首筋へと高速で迫るその瞬間、シオンの顔がほんの少しだけほころんだ。
「……文字通り、腐っても双剣聖……か」
闇がその牙を剥く。
首筋に刃が食い込む瞬間、シオンの手にする大鎌の刀身が横一文字に黒い光の軌跡を産んだ。
光が通り過ぎたその直後……。
シオンとリリーナの目の前で血をまき散らし、フランの体は二つに切断され、崩れ落ちた。
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