第4話 破滅という名の末路
空が赤く染まっていた。
陽が落ちかけ辺りは、ゆっくりと暗闇へと切り替わっていく。鳥が寝床へ戻る為、空を羽ばたく音が耳に入る。その中をリリーナとシオンを乗せた馬車は、車輪を走らせていた。
だが突如、馬車は動きを止める。リリーナは半ば茫然とした様子で前を見つめていた。
その口がゆっくりと言葉を発する。
「……シオン。困ったことになった」
「何よ?」
屋根がついた馬車の荷台で横になっていたシオンが上半身を起こし、荷台を引く馬の手綱を持つ彼女へ視線を送った。
リリーナは、手綱を握りしめたまま動かない。いつもの無表情ではあるものの、その頬を冷や汗の雫が垂れていった。
「……道に……迷った」
「はぁ?」
シオンは険しい表情を彼女へ向ける。リリーナの顔は、動揺したのか石のように固まっていた。まるで所在不明という名の蛇に睨まれた可愛らしい蛙のようだ。
「今、どこ?」
「……わからない」
「ちょっと地図見せなさい!」
シオンは慌ててリリーナを手綱から引き離し荷台へと押し込める。ランプを照らしその赤い瞳が地図を眺めた。
周りは草原で目印になるものはない。地図を眺めても現在地は特定できなかった。距離的に恐らくコンフィアンス領を抜けていないのは確かだ。だが方角が不明な為、正直、八方ふさがりな状態である。
シオンは困惑したのか眉間に皺を寄せた表情で頭を抱えた。
「……あなたがまさか方向音痴とは思わなかったわ。どうやってプロエリウムに行ったのよ!?」
プロエリウムとは、現在いるアフトクラトラス王国に隣接する武人の国と形容される大国である。
以前、戦争を起こそうと軍を率いたが、その戦争が七賢者による誘発的なものだと暴いたリリーナにより、戦地となるはずだったエスペランス領の外側……アフトクラトラスとの境界線付近で行軍を阻害され、全滅させられている。
また、その裏でプロエリウム王と当時、王宮魔術師だったリリーナによりある密約が交わされていた事実もあった。プロエリウム王はその戦争に自国の反乱分子を送り込み、リリーナと当時、協力体制にあったシオンがそれを殲滅することで戦争という矛を収めるというものだった。
「……方角指示器があったから。それに空飛んでいったし」
「そりゃ空飛んで行ったら道に迷わないわよね! 一直線だし!」
シオンは嘆息を漏らす。一方、リリーナはうなだれるように荷台に座り込み、頭をすっぽりと腕の中へ収め体を丸めていた。
辺りはもう暗闇に包まれている。最悪、この場で野宿しか選択肢はあり得ない状況になってきていた。
「……お風呂入りたい」
「ぶち殺すわよ?」
だがリリーナを責めたところで何も始まらない。
暗闇に包まれる中、シオンはその目を前方に凝らす。死神の視力は恐ろしく高く闇の中でも鮮明に映るのだ。彼女の瞳の先に遠くぼんやりと小さな光が浮かび上がる。
突如、シオンは手綱を絞めると馬車はその車輪を動かし始める。しばらく走ると先程、視界に捉えた小さな家が見えてきた。
木造で一階建ての質素な家である。王都などは石材や煉瓦造りが主体だが、森に近い村などは今だに木造が主流だった。どうやら数軒しかない小さな集落のようである。旅人が途中で利用できるように設置されているものだった。
馬車が動きを止める。すると今まで丸まっていたリリーナが、突然、その体を動かし始めた。彼女は足を大地に下ろすと家の様子を伺う。
「誰かいるな」
「いたとしてもどうでもいいわ。殺せばいいだけ」
「お前な……」
「とりあえず話をする。……シオン?」
リリーナの瞳がシオンを捉える。その大きな瞳で彼女をじっと見つめる表情は、「荒事はするな」と言っているようにも見て取れた。
おそらく彼女は穏便に済ませようとしているのであろう。確かに二人で中にいる人間を殺して奪うより、その家の持ち主に一晩、面倒を見てもらったほうが楽にすむのは理解できる話だ。
それに彼女らは道に迷っているのである。場所の情報を聞き出せる可能性もあった。そして、シオンも彼女の表情からそれを察していたようだった。
「わかったわよ。おとなしくしてるわ」
リリーナは、彼女のその言葉を耳にすると頷き、家の扉をノックする。すると、中から若い男が顔を出した。
若いといっても二十代後半くらいであろうか。おとなしい印象を受ける男性である。だが、周囲を探索するかのようなその挙動から明らかに焦りの色が見て取れた。
「あの……どちら様ですか?」
「リリーナと申します。すみません。道に迷ってしまって困っています」
「それは大変ですね。しかし……」
男は、きょろきょろと周囲を見ながらリリーナの話を聞いている。彼女の話にも心ここに在らずといった様子で落ち着きがない。
リリーナは、その青い瞳で男を見つめ声をかけた。
「あの……先程から何かお探しのようですが、どうかしましたか?」
「……実は、娘がまだ戻ってこないもので心配なのです」
この男の話によると小さい娘がいるのだが、夕方前にふらっと家を出たきり帰ってきていないのだという。近くの森には時より魔物も出る為、もしかしたら危険な目に遭っている可能性も考えられるとのことだった。
「それではどうでしょう? 今日、私達を一晩泊めて頂けませんか? その代わり、お嬢さんは私が探し出してみせます」
「本当ですか!?」
リリーナのその言葉を耳にして、男の顔がパッと明るくなる。彼は頭を掻きながら視線を彼女から逸らし、口を開いた。
「お恥ずかしい話ながら、あまり魔物の相手をするのに慣れていないもので……。あなたのような可愛らしい女性に頼むのは心苦しいのですが、どうかお願いします」
「お任せください」
可愛らしいという言葉が内心、嬉しいのか彼女は笑顔で答える。その横で建物に背を向ける形で立っていたシオンが、不機嫌そうに眉根を寄せ呟いた。
「なに笑ってんのよ。銀の賢者」
暗闇の中、建物の外にリリーナは立っていた。
彼女のその手には、娘の所持品が握られている。それから娘の居場所を割り出すためである。
リリーナの唇がゆっくり動いた。
「物質探索<マテリアルサーチ>」
突如、彼女の青い瞳に小規模の魔法陣が浮かび上がり、現在いる家から離れた森の中に、怯えているかのように縮こまる女の子の状況を映し出す。
「森の中に女児発見」
「……道は探索できないのに、人はすぐ見つけるのね」
「う……うるさい」
嫌味のあるシオンの声を振り払うかのようにリリーナはそう言い放つと、飛行<フライト>の魔法で宙に浮き森の中へ飛び込んでいく。死神はその様子を家の中に入る事無く見つめていた。
森の木々の間を掻き分け飛行するリリーナの視界に、泣きながらうずくまる小さな女の子の姿が映し出される。どうやらあの家の持ち主の娘に間違いなさそうであった。
彼女はうずくまる女の子の傍に降り立つと、その姿を女児は涙を浮かべた目で捉える。怯えているであろう女の子にリリーナは優しい笑顔で手を差し伸べた。
「……帰ろう?」
だがその瞬間、リリーナの手がピタリと止まる。
彼女の青いサファイアのような瞳には、目の前の女児は、涙を浮かべ助けを求める女の子にしか見えないのだろう。だがこの娘は恐らく……死者なのだ。
突如、リリーナはその時、自らに湧いたであろう死者という考えを振り払うかのように顔を横に振る。何故なら目の前にいるのは、ただの震える女の子にしか見えないのだから。
リリーナの手が再び動き出す。一度は消えた笑顔も再び、彼女の表情に蘇った。そして、震える女の子が、リリーナの差し伸べる手を掴み立ち上がる。その時だった。
森の中に狼のような獣が吠える声が響き渡る。リリーナは女児の体を抱き寄せると短く言葉を紡いだ。
「索敵の目<サーチアイ>」
その言葉とほぼ時を同じくして、彼女の瞳に小規模な魔法陣が形成される。
探索魔法の中でも、特に使用者に敵意がある生物を優先して映し出す戦闘用の探索魔法が
その魔法陣が、リリーナの周辺に複数の獣の影を映し出す。それらは彼女を取り囲むかのようににじり寄っていた。リリーナの視界に濃い緑色の狼に似た獣が姿を現す。それは牙を剥き出し、今にも襲いかかりそうな殺気を放っていた。
森に生息し集団で狩りをするフォレストウルフである。極めて獰猛だが賢さも兼ね備えている獣であった。
(森の中だと炎属性は使えない……か)
索敵の目の魔法陣が警告を発する。獲物を捕らえるべくその牙を剥き出し、彼女らの直前まで深緑の狼が疾走した。何度も肉を引き裂いたであろう血に濡れた牙が殺傷区域に入ろうとするその時、リリーナの周辺の温度が急激に低下する。
彼女のサファイアの瞳が鋭く青い光を放った。
「中位精霊魔法・貫く氷針<ミドルランクエレメンタルマジック・ペネトレイトアイススティンガー>」
リリーナの眼前に鮮血が散った。
突如、撃ち出された直径10センチメートルほどの太い氷の針が、高速でフォレストウルフの頭部をまるで弾丸のように撃ち抜いていく。
「
四方から同時に襲いかかったフォレストウルフが、次々と頭部から血を流しその体が大地に横たわる。仲間の死体を目にし他の深緑の狼達がその動きを止めた。
リリーナは、動きの止まった獣達へその鋭い視線を送る。
「去れ。さもなくば皆殺しだ。私は風呂に入りたいんだ」
暗闇の中、青白い炎のように浮かび上がるサファイアの瞳に戦慄したかのように、獣達は森の奥へと消え去っていく。
自身を守っていた魔法障壁を解除すると、自らの腕の中にいる女の子に優しく語り掛けた。
「待たせたね。さて、家に帰ろう」
その後、女の子は無事帰宅し、リリーナ達は男の家に一晩泊めてもらえることになった。
男は笑顔で料理を振る舞う。だがその場にいるのはリリーナだけである。死神であるシオンは、用意された部屋で静かに月夜に照らされる外の景色を眺めていた。
リリーナは食事の際、現在地を彼に聞いていた。男の話では王都への道より少しずれた位置に現在いるものの、修正は容易な場所であり、その事実を知ったリリーナはほっと胸をなで下ろしたものだった。また彼はコンフィアンス領を抜け、王都アフトクラトラスへ至る道も丁寧に教えてくれた。
そして、念願の時がやってくる。それは彼女が求めたものだった。そう。風呂である。風呂の水を沸かすのに、この世界では薪を使用する。風呂用の専用竈に薪を燃やし水を熱し、それを湯船に張るのである。
湯気で視界がぼんやりとする中、木で作られた大人二人が入れる程の長方形の湯船に、リリーナは裸で肩まで浸かっていた。風呂に入るとその日の疲れが湯へ流れていくのを彼女の全身が感じているのか、その表情は満足気に微笑む。
ふと「可愛らしい」という言葉がリリーナの脳裏に過ったのか、一瞬、湯の中でもはっきりわかるほど頬を朱色に染めた。だが彼女の隣にいる存在により、それが急激に冷めていくかのように元の白い頬へと戻っていく。
湯船の中、彼女の隣には長い黒髪を頭の上に巻き上げ、同じように湯に浸かるシオンの姿があった。リリーナは一瞬、視線を彼女に移し目を細めて睨むとそっと湯船の端へと移動していく。その時、おもむろにシオンが口を開いた。
「全く。ちょっと可愛い言われただけでその反応? あなた。男の経験なさすぎだわ」
「うるさい。……というか死神が風呂に入るとか初耳なんだが」
「死神だって風呂くらい入るわ」
「人間だった時の習慣ってのは簡単には抜けないものよ。例えそれが今、不要なものであってもね」
「まるで昔は人間だったという物言いだな」
「そう。どれくらい前かもう忘れたけど……私も昔は人間だった」
しばらく無言の時間が流れていく。シオンはまるで自分の過去を思い出すかのように、湯気でぼやける中空を眺めていた。
突如、リリーナが湯から体を上げる。その白い肌をほんのり桃色に染め、シオンの目の前を横切っていった。
「……話が長くなりそうだ。のぼせてしまう」
「そうね。どうせつまらない話よ。……それより」
湯船の端にその上半身を預けた彼女が、微笑みながら真紅の瞳をリリーナの体へ向ける。
裸を見られるなどリリーナはほとんど経験がなかった。それ故、その視線に気が付くと彼女は、咄嗟に両手で体の要所を隠した。女同士であるにも関わらずその頬を一瞬、上気させシオンから視線を逸らす。
「痩せすぎよ。もう少し食べなさい。それとその色気のない体。本当に十八なの? どう見ても十五歳くらいよ?」
「……うるさい」
そう言いながらもリリーナは、そっと青い瞳を死神の体へ注ぐ。彼女の目には、シオンのその豊かで形の整った自分とは比較にならない二つの盛り上がりが映りこんだ。
突如、リリーナは不機嫌そうにプイッと視線を背けると口を開く。
「お前みたいな胸だと私の体には合わない!」
「……それもそうね」
シオンは、彼女から視線を逸らすとそう静かに言葉を紡ぎ、微笑んだ。
生物が寝静まる深夜。
時より聞こえるフォレストウルフの遠吠えが耳に入る中、リリーナはシュミーズ姿でベッドへ横になっていた。重そうな瞼をゆっくりと閉じていく。
その時、闇の中を何かが蠢いていた。
ギシギシと床を踏む音を奏でながら、ゆっくりとリリーナのいる部屋へと近づいていく。そして、部屋の扉を開けた。その瞬間、彼女の索敵の目<サーチアイ>が警告を発する。サファイアの瞳を見開き、リリーナは飛び起きた。
彼女の瞳に飛び込んできたもの。それは、一体のリビングデッドである。そして、その服装からこの家の持ち主である男性だったのは明白だった。
リビングデッドは、彼女の胸元を掴むとその服を強引に引きちぎる。リリーナは咄嗟にはだけた胸元を手で隠すと、眼前に迫るその醜悪な顔を足で抑え込んだ。
「……私の貧相な体でもリビングデッドなら欲情するんだな!」
「どうせならもっと優しい男性に……しろ!」
力を込めた足で男を蹴とばすと体勢を立て直す。その瞬間だった。
月夜の中、妖艶な光が煌めく。三日月に輝く刀身は、瞬時にリビングデッドの体を一刀両断した。リリーナの目の前に赤黒い血が飛び散る。二つに分断された死者の体を闇の中、見据える真紅の瞳が浮かび上がった。
その正体に彼女は気が付くと深いため息を口から吐き出す。
「何してるの? あなた?」
「……危うくリビングデッドに処女を奪われるところだった……」
「あげてやればいいじゃない。どうせ男なんて縁がないんでしょ?」
「……笑えない冗談だぞ。それは」
リリーナはベッドから立ち上がると、ただの死体となり果てた男の無残な姿へ視線を移す。
この部屋に入る前、確かにこの男は今だ生者のままだった。シオンへは返答を求めていないのでリリーナには死者かどうか目視だけでは判別不能だが、中身は死者だとしてもリビングデッドにはなっていなかったはずだ。それが今、動く死体として明らかに行動している。
処女を好むかどうかは定かではないが先程の男の動きは、その欲求の内、明らかに性欲のみで動いている。それが意味するもの。きっかけは不明だが普段、生者として行動しているものであっても突如、「リビングデッドとなりえる」ということだ。
人間の三大欲求は他にも「食欲」がある。その時、リリーナは何かを思い出したかのようにハッと目を見開く。この男には娘がいたからだ。
部屋を飛び出すと彼女は、恐らく女児の部屋であろう場所へと足を踏み入れる。
薄暗い小さな部屋の中、青い瞳に飛び込んできた凄惨な光景を目にした途端、リリーナは目を瞑りそれから視線を逸らした。
部屋の中には腹部を引き裂かれ、体の一部を失い、赤黒い血で床を染めた死者と化す女の子の死体が転がっていた。恐らく、リビングデッドと化した男に食われたのだろう。
「……これがこの世界に住む死者の末路よ」
彼女の背後から声がする。そこには憂いさを秘めた赤い瞳で、横たわる女児の死体へ視線を注ぐシオンの姿があった。
「例え生者として生きていようと何かのきっかけで簡単にリビングデッドへと化す。その結果がこれよ」
「……お前はこうなることが最初からわかっていたのか?」
小刻みに体を震わせ、リリーナは視線を逸らしたままそう呟く。
「どのタイミングでそうなるかは確定ではないけど、私の目には死者であると同時に体から染み出る瘴気も見える。それが濃いほどリビングデッドへ変貌する可能性が高い」
シオンの赤い瞳にはこの世界の人間が死者に見える。死者は体から瘴気を発しており、その量が多く濃度が濃いほど生者としての人間性を失いより死者……つまり動く死体へと特性が傾いていく。
彼女は、この家に来てから家主の男の瘴気の量が多く、濃度が濃いことに気が付いていたようだ。リリーナへの配慮からそれを口にはしていなかったが、男の末路がどうなるのか観察も兼ねて家主を監視していたのである。
そして、男はシオンの目の前で顔を掻きむしりリビングデッドへと変貌を遂げた。そして、最初にその牙を向けた相手が……男の最愛の娘だったのである。
「言ったはずよ。死者は生者の真似事をしていても所詮、死者でしかないと。死者は生者には……なり得ないのよ」
彼女のその言葉を背にしながら、リリーナは無残な死体と化した女児へ近づき膝を折る。
そして両腕でそっと死体を持ち上げた。
「供養する。例え生者の真似事をしているとしても、死んだらそれはただの死者でしかない」
リリーナは外へ出ると女児と父親である家主の死体を重ねると、火の精霊を使役しその体を焼いた。
焼かれていくその死体を眺めながら、彼女の青い瞳に浮かぶ光景がこの世界の末路だった。仮にそのまま生者として生きていたとしても、いずれはリビングデッドとして喰らい合う。この死の世界に生者として生きる死者には、どのみち破滅しか道は残されていないのだ。
リリーナは焼かれる女児の姿を目に焼き付けるとその場を後にした。
翌朝。
眩しい光に包まれ、リリーナは目を覚ます。
再びベッドへ横になる際、発動させた
鏡に向かい櫛で銀色に光り輝く髪をといた後、彼女は部屋を出る。その時、リリーナの瞳には凄惨な光景が広がっていた。そこにあるものは無残に切り裂かれた五体ほどの死者の体である。食卓から彼女の寝ていた部屋までの通路に点々と転がっていた。
通路の壁や床に赤黒い血が飛び散っている。そして、壁には明らかにリビングデッドを切り裂いたであろう斬撃の後が鮮明に残っていた。寝ている間、索敵の目<サーチアイ>は敵意のある生物を捉えてはいない。つまり、リリーナへ敵意を向ける前に迅速に切り殺された事実がそこにはあった。
(まさか、シオン?)
彼女は死体を乗り越え食卓へと足を進める。
そこには、腕を組み壁を背に立っているシオンの姿があった。相変わらず口元に微笑みを絶やさず、赤い瞳がリリーナを捉える。
「おはよう。よく眠れたようね」
「……そこの通路に転がっている死体は、お前が?」
「どうやらリビングデッドは処女がお好きみたいよ? この周辺に潜んでいた連中がこぞってあなたを求めたようね。良かったじゃない。羨望の眼差しを受けるいい女になって」
皮肉めいた笑顔でシオンはそう語る。彼女の言葉を耳にして、リリーナは苦笑した。
「……本当に笑えない冗談だ」
リリーナはそう呟くと厨房へと向かう。
この家に蓄えてある食材をいくつか手に取ると、調理用の竈に薪で火を起こし調理を始めた。
「この状況でもきっちり食事は取るのね」
「当然だろ? 死者とは違い私達は食べなければいけない。……生きているのだから」
食材を切りそろえながらリリーナはそう口にする。シオンは彼女の言葉を耳にしてそっと目を閉じた。
「……そうね」
再び目を開けたその時、シオンはあることに気が付いたのか一点を凝視する。
厨房に立つリリーナの手元には、料理に使うであろう小鍋が何故か二つあるのだ。その状況に小首を傾げ、調理を進めるリリーナの背中へシオンは語り掛けた。
「あなた。何故、鍋が二つあるの?」
「お前の分も作っている。あと少しかかるから座っていろ」
その言葉に少し驚いた様子だったシオンだが、彼女の表情はすぐいつもの微笑を貼りつかせたものへと変わる。
「私に料理とかどういう風の吹き回し?」
「お前は昨日、言っていただろ? 人間だった頃の習慣は簡単には抜けないと。食事もそうなんじゃないのか? 食べなくても平気そうだが」
「それに私が魔法しか能がないと思われたくないからな。料理でやり返してやろうという趣旨だ」
「そういう発想が本当に乙女なのよ。あなたは」
そう口にしながらも微笑みを絶やすことなく、シオンは椅子に腰かけた。
「……頂くわ」
その日のリリーナの作った料理は、干し肉を戻した戻し汁に肉と野菜を入れ煮込み、塩で味を調えたシンプルなスープだった。
昨日の凄惨な光景を物語る血の臭いを消し去るかのように、美味しそうな匂いが部屋に漂う。シオンはテーブルの上に差し出されたスープを木製のスプーンですくうと口に入れた。その時、シオンの顔がほころぶのをリリーナは、じっと見ている。
「……本当に頭に来るわね」
「口に合わなかったのか?」
「違うわ。美味しいから頭に来るのよ」
シオンの言葉にリリーナは優しく微笑んだ。
「美味いといって褒めるか、まずいといって怒るかどちらかにしろ」
その後、家にあった食料や水などを馬車に詰め込み、リリーナは馬の手綱を握りしめた。
彼女のその手には家の中で発見した方角指示器が握られている。シオンは相変わらず荷台で横になっていた。
馬が車輪を動かし始める。その時、リリーナの背中に声が響いた。
「ねぇ。次、料理作るときはもう少し塩多めでお願いするわ」
「……お前は濃い味が好きなのか。私と味の好みまで正反対とはな」
「そういうことよ。……リリーナ」
彼女の目が見開いた。
罵倒などではなく優しく自らの名を言われたのはこれが初めてかもしれない。この死の世界の中、本当に生きているのは自分と……後ろにいるシオンしかいないのをこの時、リリーナは胸に刻んだことだろう。
リリーナは微笑むと前を見て馬を走らせる。彼女が目指すものは、高い城門を備えた王都アフトクラトラスであった。
そして、そこでリリーナは悲劇の再会をすることとなる。
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