はなのいろ

屋根裏

はなのいろ

 僕はある朝、一輪の花と出会った。

 

 たまたまその日はいつも歩く道が工事中で、一本隣の路地を歩いていた。いつもの道が工事中じゃなければ気づくこともなかったであろうその花は、路地に面した家の庭から道路側に少しはみ出すようにして咲き乱れた仲間達の中で、一輪だけまだら模様で、変な色をしていた。それがやけに幻想的で、不思議と目を惹かれた。

 僕には付き合っている彼女がいて、その花のことを何度も彼女に話した。彼女は昔から体が弱くて、入退院を繰り返していたから、きっと入院中に植物図鑑でも読んだのだろう。とても植物に詳しくて、その花の名前や花言葉も教えてくれた。ネガティブな意味が多かったような気がする。正直なところ、あまり覚えていない。

 それからの日々は、あえて一本隣の路地を歩くようにした。あの花を見ることは、密かな楽しみとして、僕の日々を彩っていた。実は僕は学校に通ってもいなければ、会社に勤めてもいない。だからこの道は、通学路でも通勤路でもなくて、彼女に会いに病院へ行くためだけに使う道だった。僕の生活はいつだって彼女が中心で動いている。もちろんいまでも。

 

 ある時、路地に咲く花の模様の話をした時には、彼女は何かを諦めたような目をして、私と同じ、と呟いた。花が病気にでもかかっていると思ったのだろう。そんなことないよ、と僕が言うと、彼女は優しく微笑んで首を振った。その意味がわからなくて、言葉を返せなかった。ぎこちない空気が僕達の間を流れる。

 その花はね、と、彼女は淀んだ雰囲気を断ち切るように明るく話し始めた。彼女の話によると、あの花はハーブティーの材料になるらしく、体にいいからと勧められた。それならばと、後日病院へ向かう道中にティーパックを購入し、病室で二人で一緒に飲んだ。優しい甘味の中に少し苦さを感じる味で、良薬口に苦し、だねなんておどけてみたりもした。もしかしたらこのハーブティーが効いて、彼女の体は良くなるのではないだろうかと、淡い期待を寄せていた節が、僕の中には確かにあった。しかし、そういう期待は裏切られるのが、世の常なのかもしれない。彼女は数日後、僕の知らない世界へと旅立った。

 

 彼女がいなくなったショックは、僕から、この世界から、色を奪った。彼女という鮮やかな輝きを失った世界は、どこまでもモノクロだった。

 

 そうすることの意味を失った僕は、外へ出ることをしなくなった。僕に通られることのなくなった道は、改装工事を始めていた。あの花はどこへ行ったのだろうか。もう枯れてしまったかもしれない。それでもいいと思った。どうせ僕には色がわからない。花を見ても、どれがあの花かなんて判別することは、僕にはもう出来ない。

 

 ある時突然両親から、病院に行こうと声をかけられた。両親には色がわからなくなったことは言っていなかった。けれどさすがは親というべきか、僕の異変にはとっくに気づいていた。彼女とは家族ぐるみで昔から仲が良かったから、彼女が亡くなったことは早いうちに両親も知っていた。それが家を出なくなったことの原因であることは容易く予想できるだろうが、それ以外にも、表情や声色から、鬱かなにかなのではないかと疑っていたようだ。近からずも遠からずな両親の考えに驚き、思わず頷いてしまった。

 僕達が向かった病院は、奇しくも彼女が入退院を繰り返していたのと同じ病院だった。それなのに、家から病院までの道のりはあっという間だし、元々白かった壁や天井以外のあらゆる物もモノクロに統一されているしで、まるで違う場所に来てしまったようだった。けれどそこで感じる慌ただしさと病院特有の匂いは少しも変わっていなくて、なんだか不思議な感覚に囚われる。病院には彼女が入院している間は毎日のように通っていたから、顔馴染みの医師や看護師が何人もいた。その人たちの顔も変わっていなくて、僕は思い出した。実際にはいつもは歩いていた道のりを今日は車で来たこと、僕には色が見えないことを。つまり、変わってしまったのは僕の方だったのだ。

 いくつかの科で診察を受けた僕は、軽い鬱症状と、ショック性の色覚障害を告げられた。ある程度の予想ができていた僕は、意外にもすんなりと事実を受け止めることが出来た。両親は、前者は予想ができていたものの、後者に関してはあまりにも予想外だったようで、ひどいショックを受けていた。

 帰り道、僕はふと、あの路地を通ってみようと思った。もちろん、歩いて。一旦家に帰った僕は、数ヶ月ぶりに家を出ることにした。親には一緒に行くと言われたけれど、あの路地だけは一人で行きたかった。一人で行かなければならないと思った。

 

 工事を経た路地は、数ヶ月前よりもはるかに綺麗に整備されていた。そしてそれに合わせるかのように、近隣の家から道路側へはみ出るようにして生い茂る雑草や木々も整備されていた。あの花の姿も、もうどこにもなかった。

 

 家に帰ると、僕の両親と彼女の両親が、リビングのテーブルに向かい合わせに座っていた。談笑と言うには程遠い雰囲気ではあるが、悲しい雰囲気でもなかった。僕の両親は彼女の家庭内が落ち着いた頃に、僕の状態について話そうと思っていたようだった。彼女には幼い妹がいて、その時も奥の居間で一人で遊んでいた。僕は彼女の両親への挨拶もそこそこに、彼女の妹の元へ向かった。何度か顔を合わせたことのある彼女の妹は、僕によく懐いていた。この日も僕が近寄ると、彼女によく似た、輝くような笑顔を湛えた。しかしその時、僕の目にその笑顔は写っていなかった。僕の目は、彼女の妹の胸元に光る、小さいペンダントに惹かれた。

 

 まただ、と思った。

 

 そのペンダントには、押花となったあの花が、あの日の輝きと一緒に閉じ込められていた。そして僕の目は、またあの花に惹かれた。そして確かに、まだら模様と幻想的な色を感じた。震える手でペンダントに触れると、お姉ちゃんからもらったの、と、彼女と同じ笑顔が言った。途端に視界がぼやけ始め、涙がとめどなく溢れた。僕の様子に驚いた彼女の妹は、リビングにいた親を呼んだ。病気のこともあったのだろう。結局リビングにいた全員が僕の元へ駆け寄り、必要以上に心配した。しかし、その異様な光景に驚きながらも、彼女の両親はすぐにペンダントのことだと理解したようで、僕が泣いているのにも構わず話し始めた。

 路地の工事が始まる少し前、彼女は入院していなかった。そこで、あまりにも僕が気に入ってるから、という理由で、その路地に咲く花を見に来た彼女は、工事のためにこの花たちをどうにかしなければならないと話す住人を目にしたらしい。もしよろしければこの一本だけ譲ってくれませんかという彼女に、住人は快く譲ってくれたらしい。彼女はその花を押花にし、ペンダントに閉じ込めた。そして、彼女が旅立ったあの日、お姉ちゃんの分まで生きて、と、そのペンダントを妹に託したのだそうだ。本当は僕に渡したかったらしいけど、僕が会いに行く前に彼女はいなくなってしまった。

 だから、これはお兄ちゃんにあげようね、と言って、彼女の両親は娘の首から外したペンダントを、僕の首にかけた。

 

 涙が枯れる頃には、僕が失った全てのものが戻ってきていた。視界に映る世界の色も、忘れてしまった花の名前も、生きる、という花言葉も。僕は間違っていた。いつしか彼女が言っていた言葉は、どこまでも正しかった。この花は彼女と同じだ。僕に生きる意味をくれる。

 

 

 いつしか飲んだカレンデュラティーの風味が蘇る。あの時よりも強い甘味を感じた。

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