紅慕の意図

瓜野イモコ

Episode00:人はそれを何と呼ぶ

六淵深りくぶちしん。さっそくコイツに潜るから錨を下ろせ」

「は?」

 第一印象は『なんだコイツ』の一言に尽きる。見ず知らずの彼は図々しくも初対面の相手に、信頼関係が最も重要と言われる縫射ぬい、通称アンカーの仕事をやらせようとしたのだ。

「何故、俺が?」

「世間に疎い僕でも君が優秀なアンカーということは知ってる。だからその君に僕のアンカーをお願いした」

 お願い。気のせいだろうか、そう聞こえた。だが、先程の彼の台詞を聞く限り『お願い』はされていない。身勝手な『お願い』ならされたかもしれないが。

「名前を知っていてくださって光栄だが、俺はあなたのことを知らない」

九類累くるいかさね。君と同じく“優秀な”ダイバー。目の前のコイツからあるものを見つけたい。だから、君の力が必要だ」

「信頼関係が必要なこの行為に初対面の俺たちが挑むのは、いささか無謀に感じる」

「君の今までのダイブの中で一番美しい世界を見せてやる。他に理由が必要か?」

 男――九類累の瞳には揺るぎない自信が映っている。自分が一番美しい世界を見せることが出来ると信じて疑わない強い光。その光が乾いた僕の心に染み込んでいくのを感じた。

「いや、十分だ」

 気が付けば男の言葉に頷いていた。



 この世界には紅慕くもと呼ばれる人間がいる。通称ダイバー。

 彼らは人の記憶や深層心理に潜ることが出来る不思議な能力を持つ。その能力は人の内面的な問題を解決に導くことが出来る。

 二十一世紀半ばにして、ダイバーの登場により人間は身体的に負った傷と同じく精神的な傷を治す力を得たのだ。ダイバーは対象者の意識の海へと潜り、記憶を永久的に削除することや、意識的には思い出すことの出来ない記憶を掘り起こすことが出来る。逆に、記憶を意識的に封じ込めることも出来、今まで見ることの出来なかった心の問題をその字の如く『見る』ことが可能になったのだ。しかし、ダイバーだけでは心の問題を解決出来ない。ダイバー単独で人の意識に潜れば、二度と帰って来れないだろう。そこで、ダイバーを現実に繋ぎ止める為の存在の登場である。

 縫射ぬい――彼らはアンカーと呼ばれ、錨の意味を持つ存在。意識の海へと潜るダイバーが溺れてしまわないように現実に繋ぎ止める重要な役割を持つ。アンカーは意識の海の入り口に立ち、ダイバーと自らを糸で結ぶ。その糸は紅慕の糸くものいとと呼ばれ、燃えるような美しい赤い色をしている。糸はダイバーを現実に繋ぎ止める役割とアンカーとの絆の証でもある。ダイバーとアンカーの間に信頼関係がなければ意識の海に潜ることは出来ない。アンカーが糸を手放せば、たちまちダイバーは意識の海で溺れ、生きては戻って来られない。意識の海で溺れることは『死』を意味するからだ。

 ダイバーが潜る際、肉体という器を現実に置いていく。どのような原理かは分かっていないが、潜るという行為はダイバーという存在――命そのものと言っても良いだろう――が器を離れる為である。現実に戻って来られなければ、器は空っぽのまま生命活動を停止し、死を迎える。だからこそ、アンカーという存在は無くてはならない存在なのだ。

 ただ、悲しいことにダイバーとアンカーの比率は偏っている。世界の人口の約半分が能力者と言われているが、その中でもダイバーの数が圧倒的に多く、アンカーはダイバーの三分の一に満たない。正確に言うならば、アンカーとして自分を保ち続けることが出来る人間の数が少ないのだ。何故なら、アンカーは強靭な精神を持たずして自分という存在を保てないからである。他人の精神と自分の精神を現実に繋ぎ止める行為は、想像以上に苦しいものなのだ。自分のみならず他人を支えるアンカーは心に負担がかかり、壊れやすい。どれ程の負担なのか、それはアンカーのみぞ知る苦しみである。


 ――と、ここまで紅慕、そして縫射についてだらだらと語ってしまったが、詳細は追々にしよう。こういうものは実践が大事だ。

 ではさっそく、僕と九類累の物語に戻すことにする。自分勝手で少々――いや大分世間とずれている彼との出会いの話。





「そうと決まれば早く僕の手を掴め」

 九類累は透き通った榛色の瞳で僕を射抜く。差し出された白い手を見つめ、その強い瞳と交互に見る。

「……手に触れる必要が?」

 解説しよう。ダイバーが潜る際にはアンカーと物理的接触が必要である。何故か、それは何度も言うようだが現実に繋ぎ止める為である。紅慕の糸で繋げようとも、触れなければ繋がることは出来ない。通常、その物理的接触はアンカーがダイバーの肩に触れる程度で済む。正直どこに触れていても良いのだが、ダイバーも対象者に触れる必要がある為、邪魔にならない接触がちょうど良いのだ。

「僕は手を繋ぐ派なんだ」

 なるほど、手を掴むだけではなく、手を繋げときた。はっきり言おう、僕はダイバー以前の問題で他人と接触する行為が嫌いだ。嫌悪感を抱くからだ。その理由は――。

「深、早くしろ」

 しかも呼び捨て。馴れ馴れしいが、不思議なことに嫌な気にはならない。

「あー……九類累さん」

「累でいい」

「じゃあ、累。まず何点か確認したいことがあるんだけど、いい?」

「手短に」

 手はこちらに差し出したまま、累からは早くしろという心の声が聞こえてくるようだ。

「ええと、まずあなたが潜るのは目の前の……その……」

「死体であってる」

 死体。やっぱり死体だった。もしかしたらそうかもしれないと思っていたが、思い違いではないようだ。目の前の死体は、生命活動を止めてからあまり時間が経っていないように思う。まるで眠っているようにさえ見えるからだ。見た感じから推測すると男性、三十代後半、それから――腹部に刺し傷があるところからして、殺人事件の被害者か何かだろうか。

「なるほど。つまりあなたは死体にダイブする、ということであってる?」

「それ以外に考えられないと思うが」

 何を当たり前のことを言ってるんだという顔で見られる。何故、僕が確認を取っているかというと、通常のダイブは『生きている』人間が対象だ。『死んでいる』人間に潜るダイバーもいるとは噂に聞いていたが、そんなものは都市伝説か何かかと思っていた。多くのダイバーは心の病を解決する為にいるからだ。もちろんその為だけとは言わないが、普通で考えたらそうだ。

 通常のダイバーと異なる彼の意図が見えず、率直な疑問を口にする。

「あなたは、死体にダイブして何を見たいんだ」

「そのままだよ」

 金色にも見える瞳を爛々と輝かせ、累は口元をぎゅっと歪めた。

「僕は“死”を見たい。死の世界を集めてるんだ」

「死の世界を集めてる……?」

 意味が分からず、累の言葉を繰り返す。だが、累は気にせず右の口角をくいっと上げる。

「ここに」

 累は自分のこめかみをトントンと叩く。

「記憶にしまうという意味?」

「そう。僕の頭の中には宮殿がある。記憶の宮殿が。そこにコレクションしてるんだ。様々な“死”を」 

 記憶の宮殿。一種の記憶術のことだ。ただ、そこに“人の死”をコレクションしているとなると、相当な変人――いや変人という言葉で括ってしまって良いものなのか。

「深。君は死の世界を見たことがあるか?」

「……ない」

「損をしているな、深。死は美しいぞ。君も見たらきっと分かる。ああ、もう質問はいいだろう、早く潜るぞ」

 死は美しい。累の瞳は記憶にある宝石を見つめているかのように輝いていた。本当に美しいものだと思っているのだろう。彼の瞳をここまで輝かせる死とは、どんなものなのか多少興味はある。

「そこまで言うなら、あなたの世界を見させてもらおう」

「楽しみにしていろ」

 目を細め、楽しみで仕方ないというような表情をする累。ずっと差し出されたままだった彼の左手にそっと右手を乗せる。

「おい、ふざけてるのか」

 乗せたにも関わらず不機嫌そうな声を出される。

「何か文句でも? 言われた通り手を乗せた」

「その野暮ったい手袋を取れ。そんなものつけてくるな。邪魔だ」

 他人との接触が嫌な僕は常日頃、革手袋を着けている。だが、彼は気に食わないようだ。僕が手袋を着ける理由を答える前に、忌々しいといった表情のまま、さっさと手袋を外される。

 他人に触れてほしくない、と思った瞬間にはもう手を繋がれていた。だが、彼の手に嫌悪感は抱かなかった。何故だろう。

「深、君の体温は冷たくて丁度良いな。気に入った」

「それはどうも……」

 久々に触れた他人の体温に動揺している暇もなく、愉快で仕方ないらしい累は僕と手を繋いだまま死体に一歩近づくと、しゃがみ込む。美しい榛色の瞳を瞼で隠すと深呼吸。そこでまたしても違和感。

「え? 対象者に――」

「僕は触れない。触れなくてもパーソナルスペースに入ればそれはもう接触と同じだ。僕にとってはな」

「そういうもの……?」

 どうやら彼は僕が思っている以上に規格外のダイバーらしい。彼のような人には会ったことがない。だが、わくわくする。いつぶりだろうか、こんなに楽しみだと思えるのは。何年も乾いたままだった僕の心が再び楽しみだと思える日がこようとは。

「深、いくぞ」

「いつでもどうぞ」

 累の言葉に合わせて、そっと目を閉じる。

 瞬間、体が宙に浮く感覚。意識の海の入り口で目を開ければ、そこは星空が広がっていた。それは紛れもなく累の世界であり、彼の能力がずば抜けて優秀だということを示していた。意識の海の入り口は、ダイバーの世界が反映される。その海に潜れば、対象者の世界となる。だが、能力の高いダイバーは自分の世界を纏ったまま、潜ることが出来る。それは自分という存在を強く持っているという意味だ。

 今まで僕が出会ったダイバーは彼ほど力を持っていなかった。

 あまりの美しさに見入っていると、累の楽し気な声。

「どうだ、深! 僕の世界は美しいだろう!」

「……ああ、こんなに綺麗な世界は見たことがない」

 きらきらと星が瞬く世界に胸が締め付けられる。

 ――この世にこれ程までに美しい世界を持つダイバーがいたのか。



 今思えば、累の世界は僕の心を生き返らせたのだ。

 四年前の絶望に囚われ続ける僕を、彼の美しい世界という一筋のきぼうで照らした瞬間だった。

 この瞬間こそが、累と僕のすべての始まり。

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