七章:ブルーワインノ後遺症

※◆24.明けない夜に堕ちて


 真っ暗闇の中心から色彩が顔を覗かせる。ちょろちょろと湧水のように広がっていたのが次第に噴水のようになり、明確な情景を描き始めた。


 勤務先のガソリンスタンド。オレンジ色のキャップを取り、給油してくれた常連客にいつも通りに礼を言い、深く頭を下げているのは自分だ。スタンドの奥へ向かおうとしたその時、呼び止められた。振り返るとそこには穏やかな笑顔で手を振っている輝紀てるきの姿。笑顔を浮かべて近づこうとした瞬間、輝紀の背後に現れた強烈な負のオーラを放つ黒い影に目を見張った。影が輝紀の肩に触れる。やめろ! 虚しく響いた自分の声を自分で呑んで喉を詰めかけた。眼前で、どろりと生々しい音を宿しながら輝紀が壊れたのだ。はち切れてしまいそうなほどに瞳孔を開いて、悪魔のように高らかに笑いながら仰け反り返っている。黒い悪に人間離れさせられている、助けないと。そう思い手は伸ばすのに、目の前なのに、どう足掻いても輝紀に届かない。


 黒い影が輝紀にあるものを差し出した。小さなコルクつきのビン。その中に入っている黒色の砂は間違いなく、真也しんやがデッドから飲まされたDeadデッド Mentalメンタル Crystalクリスタルの分身だ。止まらない笑いを抑えるようにしながら、輝紀はそのコルクを引き抜き投げ捨てた。だめだ、先輩! 身体を何とか動かそうともがくが、何度もくうを掻くだけだ。愛おしそうに、舐め回すように、漆黒の砂を眺めてから、輝紀は一気に口内へと流し込んだ。


 輝紀の全身が真っ黒に染め上げられていく。もう無駄だと分かっても諦められない。喉の皮が捲れてしまいそうになるほど何度も輝紀の名を叫んだ。ざわざわと映像の端が波打つように揺れ始める。手を伸ばしてきたは、こちらの顎を掴み上げると言い放った。


【僕が、Dark Rダークアールだよ。ユウ】


「先輩! いかないでくれ!」


 しばしの間、衝撃で動けなかった。まさか自らの大声で目を覚ますだなんて思いやしない。冷えた汗のせいで肌に張りついているスウェットに、ドクドクと脈打つ心音が滲み通る。


 そんなゆうを左目の激痛が容赦なく襲う。痛みと共にリピートされるつばさ杏鈴あんずの過去の所有者であろう人物達の映像。かろうじてコントロール出来る右目で左腕に巻きつく透明な腕時計を確認すると、差しているのは早朝に分類される五の数字。まだ眠っている家族にこの蹲っている状態を見られるわけにはいかない。さっきの大声で誰も起きないでいてくれたのは奇跡に等しい。痛みが緩急をつけ始めたら声が上がってしまいそうだ。絶対に気を抜くな、優は必死で堪え続けた。


 痛みが少しずつ引き始め映像が消えると、ようやく身体の自由が利くようになった。ベッドから下り、棚の上に置いている立て鏡の前までいき顔を映す。真っ赤に染まった毒々しい左目。全身からさらに血の気は引いていく。


 夢を見た。それも最悪な悪夢。しかし気がついてしまった。この感覚が、第一の物語でDark Aダークエー真也しんやであると確信した瞬間とそっくりだと言うことに。あとを引く恐怖が追撃してくる。第二の物語の想定外の展開を突きつけられたのだ。


 右指はACアダプトクロックの上を動く。スクリーンを立ち上げCallコールのメニューから選び出したのは輝紀。呼び出し続けるが応答はない。


「くっそ」


 悪夢の中での自分はままだ。諦めたくない。しかし、何度トライしても、一向に繋がる気配がない。


「やっべぇ……」


 Cコールを飛ばす相手を変更しようとスクリーンをスライドさせたが、再度時刻を確認した優は、一度落ち着くべきだとベッドの縁に腰かけた。深い呼吸を繰り返すが、胸のざわめきは減りそうにない。優は目を瞑ると、祈るように重ね合わせた手を額に押しつけた。




 ◆◆◆




 夜は明けない、だってずっと明いていたのだから。


 目覚まし時計の時刻は朝五時。目を閉じている翼を起こさぬよう静かにベッドから出ると、杏鈴は床に散乱しているブラとショーツを拾い身につけた。


 ダイニングのローテーブル上には二つのワイングラス。そのうちのひとつに、青色の液体がわずかに残っている。杏鈴はそっとそれを手にすると、ひと口足らずで飲み干した。余計にだるくなった気がする身体を引きずりながら洗面所へ向かう。


 洗面台の大きな鏡の前に立ち、細い指先で電気のスイッチを一押しする。パチンッ、二つの丸い電球の灯りに弾けるように照らし出された姿を無気力に眺める。


 充血したひとみと腫れた瞼。鎖骨の下辺りから胸元を中心に、身体中に広がる汚れた赤色のしるし。数え切れないほどあるが、敢えてそのひとつひとつに視線を落としていく。見切れぬ背中にもたくさん分布しているだろう。ぐるりと身体中を見回した杏鈴の視線は最後、噛みつかれた首元に終着した。


「……隠せるかな」


 幸い身体中につけられたものよりは遥かに薄いが、上手く装わねばきっと周囲にばれてしまうだろう。手のひらでそこを覆い隠し、杏鈴は鏡に映るカラダとようやく向き合った。


 あれから何回行為を重ねたかは分からない。抱かれてもいいと思った。むしろ抱かれたいとさえ思った。そして、抱かせてやろうとも思ったのだ。


 自覚している、賢成まさなりのことを。失われた記憶の中にきっと存在している。思い出せ、と賢成に煽られる度に感じる怖さと苦しさを紛らわせたかった。苦しみたいと自ら懇願する人間などいるのだろうか。思い出さなければきっとこれ以上の苦しみは心に嵌め込まなくて済む。あんなに思い出したかった記憶を思い出したくなくなったことでそう感じていた。


 それ故に鈍くはない。翼に寄せられている好意にも気がついていた。翼に対し、好意がないわけじゃない。傍にいると深き安堵を感じるのは嘘じゃない。その気持ちの形状を変えようと試みた。気がつかない振りをしている賢成に対する感情に寄せようと思った。だが、どうしてもそう出来ないのだ。翼と身体を重ねて持っていかれたのは身体だけ。強烈な快楽の渦の中で何度も浮かんだ賢成の顔は、杏鈴の心をえぐるように締めつけた。泣きたくないのに涙は止まらなかった。


 満たされることのない心に反比例して満たされていく浅はかな性的欲求に吐き気がする。ただ紛らわせたいだけなのだ。消したいのではなく紛らわせたいだけ。それに、賢成への感情のせいでこの先誰とも交わってはいけないだなんて孤独じゃないか。触れ合える者同士で満たし合って何が悪い。だが、自分を正当化しようとすればするほど、翼を利用していると言う事実は確立する。心底ずるく汚れた女だ。そう自覚していても――やめられない。


「あれ」


 漂ってきた苦い香に誘引される。洗面所からダイニングを覗くと、ボクサーパンツ一枚姿の翼がライターをローテーブルの上に置き直すところだった。


「寝て、なかったんだね」


 流し目の翼に捉えられ、杏鈴の身体は熱を持つ。一晩中の激しい行為の残像を浮かべずにはいられない。視線を出来るだけ合わせないようにして翼の脇を通り過ぎると、杏鈴は寝室に転がっているワンピースを手に取った


「……バイトか?」

「うん。久しぶりにモーニングからなの。もういかなきゃ」


 百分の二十パーセントだけ嘘をついてみる。時間にはまだもう少し余裕があったが、浮かび上がる賢成の顔に多少の自制は生まれるのだ。


「……なあ」


 しかし、翼の手により袖に通しかけたワンピースは再び床へと落とされた。灰皿に置かれてしまった貴重な最後の一本の香りに包まれながら、杏鈴は翼の唇を受け入れていた。絡んだ舌から感じたほろ苦い味に、杏鈴は火照る身体の弱さを露呈した。


「……お前、嘘、急に下手くそになったのか」

「……翼くんに言われたくない」

「……じゃあ、やめるか?」


 そんな問いかけはずるい、やめたいはずがないじゃない。杏鈴は翼の首に両腕を巻きつけながら、その耳元に囁いた。


「やだ……して?」


 夜はまだ明けない。この卑劣な溺れ具合をブルーワインの後遺症と称しよう。欲は止まらず、杏鈴は翼に導かれるまま、再びベッドへとなだれ込んでいた。






 ◆◆◇






 キッチンの小窓から射し込む太陽光を浴びながら、わたるはコップ一杯の水を一気飲みし、渇いた喉を潤した。時刻はもう昼過ぎだ。陽の熱さに目自体は覚まされたが、身体にはまだ眠気が纏わりついている。重たい足を一歩ずつ踏みしめるようにして階段を上がり自室へ戻ると、航がキッチンへ下りる前とまったく変わらない体勢で真也しんやがベッドに包まっていた。


 男だけでの花火大会を終え、呆れる誠也せいやも憚らず、「ここに泊まってもう少しこみやんと話したい」と所望した真也を、航は快く受け入れた。だが、誠也と輝紀が終電で帰宅し、航がシャワーを浴びているうちに、真也は航のベッドですやすやと眠ってしまったのだった。


「……うー」


 隣に敷いた客用のふとんに入り、航がもう一眠りしようとしたその時、爆睡していた真也が呻った。航は倒しかけていた身体を起こすと、両手で目を擦っている真也に笑みを向けた。


しんさん、おはよぉ」

「んー……おは……こみやん……タバコー……」

「タバコ? どこに入ってるの?」

「うー……んと、ズボンのポケットにない?」


 くちゃっ、と脱ぎ捨ててある真也のズボンの両ポケットを探したが、それらしきものは入っていない。


「真さん、ないよ」

「嘘だあ……あ……そだ……買いそびれてたんだった……そういやさー」


 脳が冴えてきたらしい。上半身を起こすと真也は大きなあくびをし、目をぱちくりさせた。


「この前、きてくれたよ、翼くん」

「翼くん?」


 真也の口から出るには意外な人物だ。航は眉を潜める。


「うん、俺のBarバーに」

「え! 急に?」

「そー、そん時あげちゃったの、タバコ。もやもやするって言うからさー」

「へえ、翼くん、タバコ、吸うんだねぇ」


 真也の言葉に、航の耳は敏感になる。どうしてか、翼のことになると自身の鈍感さは魔法のように消えてなくなるのだ。これも因果の影響なのか。


「てかさ、翼くん好きな人いるんだね」

「ほ、え!?」


 構えていたのに、妙な声を上げてしまった。少し真也が不思議そうな顔をしているのが気になるが、航は振り切って分析する。いくらBarと言う感傷に浸れる場所だとしても、杏鈴へ抱いている気持ちを自分にさえ言及しない翼が、果たして真也に安易に言い漏らすだろうか。


「そ、れってさぁ、翼くんが言ってたのぉ?」

「ううん。はっきりとは言ってないけど、そう言うのって大抵恋愛絡みじゃない?」


 真也的主観に踊らされかけたことを恥じつつも、航はこれ以上変に悟られるまいと言葉を繋いだ。


「そうかなぁ。違うことかもしれないよ?」

「いやー、そういう顔してたけどな。Barにくるお客さん伊達に見てないからねー俺。カクテルもピッタリなやつ作ったのにさー、お気に召さなかったみたいだけどね」

「カクテル?」

「うん。ブルームーンってやつ。“叶わぬ恋”って意味があるの」


 航の周りでのみ、一瞬時は止まった。


「ちょ! そんなネガティブな意味のカクテル出したの!?」

「だってもやもやするって言うから、上手くいきそうにないのかなーと思ってさ」

「ちょっとぉ! そんなっ、もしかしたら悩みの大部分かもなところにダイレクトにつけ込むやつわざわざ提供しなくてもぉ!」


 翼の心情を分かっているが故、航は自分のことであるかのように真也に噛みついてしまう。


「だって翼くんだよ? あんないいフェイス持っててさ、どう考えても引く手数多でしょ。ひとりの女性に拘る必要がなくない? 叶わなそうなら早めに見切って、次いくほうがストレス減るじゃん」


 真也の言うことは決して綺麗な言葉ではないが一理ある。だが、翼の気持ちをバラすわけにはいかない。もやつきながら航は閉口してしまった。


「俺が女だったら、とりあえず一回は抱かれときたいね」

「真さん何の話してんのっ! ワットタイムイズイットナウ!」

「イッツヌーン?」

「と言うか、どうしてその位置づけ……」

「だって本命には不向きじゃん。イケメンはちょいっと火遊びするくらいがベストなの。それに何より、俺は優くん推しだからねっ」

「出た。真さん、優くんのこと、本当に気に入ってるんだね……」

「うん。だって同性であんなカッコいいと思ったの優くんが初めてだよ。優くんは本命で、翼くんはセフレ、こみやんはただの心優しきお友達って位置づけじゃない? 女子的目線は」


 真也の見解はあながち理に敵っている気がして、航は何も言い返せなかった。


「こみやん、もう一生童貞かなー。妖精さんになっちゃう?」

「真さん、悪口はね、本人の前じゃなくて陰でこっそり言うものだよ」

「目の前で言ってるから悪口になんないじゃんっ。そもそもこみやん、セックスが何かってこと知ってんの?」

「それくらい分かるわ!」

「それ自体に興味ってあるの? こみやんからオス的オーラって全く感じないんだよねー」

「そ、それはぁ……ない、ことはない、けどさ」

「けど?」


 俯き加減になり航は髪の毛を掴んだ。真也はこちらを座った目つきで見つめている。理由はたくさんある。けど、きっと答えるにはこれが一番無難だ。


「は、恥ずかしいじゃん。何か……」


 顔が熱くなる。ちらりと真也を見やると、彼は当然の如く腹を抱えて笑い始めた。


「ちょ、ちょっとぉ! 何がおかしいの!」

「あーあ、おなか痛っ。こみやんやばいよ。不健全すぎっ」

「それ、梨紗りさちゃんにも言われたんだけど」

「いいじゃんっ。一回梨紗ちゃんに抱いてもらったら?」

「何で!? 色々おかしいけど今の文法!」

「男になることも必要さーっ」


 真也が発する軽い言葉は、どこれもこれも重さ持って航に振りかかる。昔に浸りかけたその時、電子音が部屋中に響き渡った。枕に顔を埋めようとしていた真也もいつもの二倍なっている音に驚いてその顔を上げた。立ち上がったスクリーンに記されている“To ALLトゥーオール”の文字。顔を見合わせ、同時に応答した。


「もしもし」

「(航! 真也もか! やっと繋がった!)」


 聞こえてきた優の声は全く穏やかではない。かなり緊迫している。


「優くん、ど、どうしたの? 今日お休み?」

「(やべぇんだよ!)」


 ベッドから下りてき、背後から航の両肩を掴んできた真也の表情も険しい。先程までの和やかな空気はもう消えていた。


「敵? だったらS応援要請に切り替えてくれれば」

「(ちげぇ! 分かったんだよ! Dark Rの正体が!)」


 優の言葉は、カンカン照りの太陽をも蹴散らした。ショックで冷たくなった身体に鞭を打って、航は真也と一緒に家から飛び出した。



 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


 ◇Link◇

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054881417051


 ・EP1:※22

 ・EP1:七章Ⅳ

 

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