※◆23.その甘い声は堪らなく愛おしく
「……親父が死んだ日、捨てようと思ったんだ。だが、何度ゴミ箱の前にいっても、捨てられなかった」
「……つまり、そう言うことだ。親父が死んで、俺は少しでも母親を楽させたくて、部活を辞めて今のイタリアンの店でバイトし始めた。俺が高二の時に、母親と
小さく漏らした息に混ざっているのは、ずっと心の奥に住みついたままの自責の苦しみ。
「……俺の意思を尊重して受け入れてくれた夏川さんには感謝している。後悔しても、結局何も返ってはきやしない。くよくよしたところで何も生まれないから、俺なりに前向きに生きているんだ。どうだ、これでお前の疑問は解けたか」
翼は頭上にかかった影に、末尾を呑み込んだ。ふうわりとその影は揺れ動き、再び頭上は明るくなる。
向かい側から隣にやってきた
「……翼くん、ありがとう。話してくれて」
「……いや。俺が自ら勝手に口を開いたまでだ」
杏鈴はふるふると、小動物のように小刻みに頭を横に振った。
「……と言うか、お前、結構酔ってるだろ」
「へへ。そだね。少しね」
杏鈴はひっついたまま、柔らかい笑みを浮かべて翼を見上げる。この鼓動からどうにかして意識を逸らさなければ。翼はワイングラスに手を伸ばした。
「……翼くん。わたしね、ないんだ。記憶が」
ポツリ、ポツリと響いた杏鈴の言葉に、ワイングラスへ触れかけた手は止まった。
「……おい、何だって……?」
「記憶がないの。それも、一部だけ」
「……一部だけ?」
「なくなるなら、全部なくなっちゃえばよかったのにって、何回も思ったよ」
淡々と言うくせに、杏鈴は翼の左手を握っている力を強めた。同じだから分かる。杏鈴は今、曝け出したくないことを懸命に口にしてくれている。
「……いつ、そして、何故そうなった」
「高校生の時にね、階段から突き落とされたの。男の人に」
少しずつ解れていく杏鈴と言う疑問の糸。杏鈴を男性恐怖症に陥らせた決定的な出来事、トラウマだ。
「奇跡的に打ちどころがよかったみたいで、障害には至らなかったの。けど、目が覚めた時、心にぽっかり大きな穴が空いちゃったって思った。自分が誰であって、寝かされているこの場所がどこであって、泣きながら抱き締めてくれてるのが母親だってことも分かった。でも、足りない。記憶だけじゃなくて、何か凄く大切な、人間として必要な感情も失ってしまった気がして。それ以来ずっと、違和感を抱えながら過ごしてきたの」
杏鈴の話を真剣に聞くうちに、
「……それ、
杏鈴からすぐに言葉は返ってこない。唇を噛んでいる。
「……そもそも、お前にとって如月って何だ?
遂に触れた、
握り合っている手を通して伝わってくる独特な杏鈴の緊張に、翼も表情を硬くしてしまう。
翼の左肩から杏鈴の頭が離れていく。それによって見えるようになった横顔は冷徹で、
「梨紗ちゃんはね、可哀想な人。わたしがいるから彼女は幸せになれないの。わたしなんかと出会ってしまったがために人生の道から幸せの文字を失ってしまった、そういう人」
薄い唇から乾いた声で放たれた答えは、翼の質問に対する回答にはなっていない。杏鈴はそれを自覚しているだろう。だがきっと、これは遠回しの本当だ。友達じゃない、なんて単純な一言では済ませられない関係なのだと言う訴え。
「ずっと、思い出したくて、思い出したくて堪らなかったの。あんなに思い出したかったはずなのに……」
自然な流れで話はすり替えられた。それに伴い変化した杏鈴の
「
杏鈴は再び翼の左肩に寄りかかってきた。
「翼くんは、不思議」
両目を閉じて微笑みを浮かべた杏鈴とは対称的に、翼は自身の中で増幅し始めた賢成への苛立ちと憎悪に頭痛が起こりそうなほど混乱していた。
「初めから触れられても平気だったの。今もこうしてると、凄く安心するし落ち着くの。傷みも和らぐ気がするんだ。過去の所有者さんが恋人同士だったなら納得いくよね」
「……
絞り出すように、翼は声を吐き出した。今この名を口にしたら――分かっているのにいき場を失ったこの感情はもう制御し切れない。潤んだ両
翼は杏鈴と視線を合わせようとして瞬時に後悔した。
杏鈴は左手で握っている、首から下げているネックレスのトップを。
無意識であろうとそれは賢成との繋がりの強さを見せつけてきているように思えてならない。ふつふつとマグマのように、賢成に散々浴びせられた憎たらしいワードが次々に浮かび上がってきて、翼の脳内は支配される。
「成くんに触れられた時は、
そのまま閉口を決め込んでくれたほうがよかった。
そんなことは知りたくなかった。
聞いたくせして微塵も知りたくはなかった。
嫉妬、憎悪、膨れ上がりすぎたそれらはもう、コントロール不可だ。
杏鈴の左手をネックレストップから引き剥がす。絡み合っていた手を離してその小さな頭の後ろに添える。潤んだ
一瞬だけ解放してやる振りをして、またすぐに塞ぐ。杏鈴は抵抗することなく、繰り返されるそれをされるがままに受け入れている。浅かった口づけを徐々に深くし舌を絡めると、次第に互いの呼吸は乱れ始める。
欲望のままに翼は杏鈴を押し倒し、その上に覆い被さった。
「……抱いていいか?」
唇を離し、至近距離で杏鈴を見つめ、翼は言葉を漏らした。
「……いや、抱かせろ」
問いかけたくせに有無を言わせない。今の翼に杏鈴へ選択を与える余地はなかった。
きっと
翼は杏鈴のワンピースの前ボタンに手をかけた。
「ちょっ、ちょっと待ってっ……」
濡れた唇から上ずった声。残っているわずかな力を振り絞った細い腕が、翼の身体をぐっと押し返す。
「こ、ここじゃ、やだ……床は……痛いよ……」
その言葉に拒絶の意は全く見当たらない。翼は杏鈴を抱き上げ寝室へ移動すると、その身体をベッドの上に転がした。少し乱暴にワンピースの前ボタンを外し肌蹴させた胸元へ顔寄せた刹那、杏鈴の身体がビクッと大きく跳ねた。
激しく鳴り響き始めたサイレン。
発生源は杏鈴の左手首に巻きつく
浮かび上がったスクリーンに映っている名は“
杏鈴は首を左に曲げ、食い入るようにその名を見つめる。こんなにも近くにいるのに心ここにあらず、杏鈴は翼の姿を映さない。ちっぽけなスクリーンにさえ勝てないなんて。翼の中で理性を繋いでいた大きな糸は、切れずに苦しんだ過去を振り切るように、ぶつりと切れた。
「やっ……」
首元のネックレストップを鷲掴むと、杏鈴は悲鳴を上げようやくこちらを見向いた。奪わないでと懇願するように、杏鈴は首元のチェーンを抑えて抵抗する。
ちらつく、賢成の顔が。
心はどんどん冷酷に染め上げられていく。翼はネックレストップを、ぐいっと引っ張った。
「翼くんっ、やめて、離して! 千切れちゃうよ!」
賢成からの止まない
「……今だけ外せ」
喉の奥から飛び出たのは脅すような声色だった。翼はネックレストップを離さぬまま杏鈴を睨みつける。息を上げひたすらに首を横に振り続ける杏鈴の片方の
その涙を見て湧いたのはさらなる苛立ち。
浮かんでいる。
滲んでいる。
杏鈴が賢成を想う強い気持ちが。
「……いいから外せよ!」
翼の怒鳴り声を皮切りに、杏鈴の目からはボロボロと大粒の涙が零れ始めた。杏鈴の両手をネックレスから無理矢理引き剥がした翼は留め具に手をかける。杏鈴の首元からそれを取っ払い床へと投げ落した瞬間、翼は自分でも恐ろしいと思うほどの優越感に浸っていた。まるで賢成を骨の真髄まで潰し上げてやったような、そんな感覚。
「……いっ……た」
感じてはいけない心地よさを覚えてしまった。溜まりに溜まっていた感情はドロドロと溶け出していく。賢成からのCが鳴り止んだと同時、翼は杏鈴の首筋へ歯を立てた。
「いやっ……痕っ……目立っちゃう……首はいやっ……」
泣きながら抗う杏鈴を無視し、翼はもう一度首元に噛みつこうとする。
「お願いっ……首以外ならどうしてくれてもいいからっ! 翼くんっ!」
一際大きく張り上がった杏鈴の泣き叫びに、ほんの少しだけ我に返れた。たった今つけたばかりの印に翼は舌を這わせる。沁みるのか、杏鈴は最初こそ痛みに顔を歪ませていたが、次第にその表情は恍惚とし始めた。
「……考えるなよ」
それでも涙を流し続ける杏鈴。その顔は、彼女の心に映り続けている賢成の姿を彷彿させる。
「……思い出すなよ」
記憶など、一生蘇らなければいい。
「……考えてるだろ、あいつのこと」
杏鈴の身体を抱き起こした翼は、その耳元で囁いた。
「か、考えてな」
「……嘘をつくな」
そのまま耳を甘噛みしてやると、杏鈴の身体は小さく跳ね上がった。
「……だが、そんなのは今のうちだ」
露わになっている柔らかな胸元に口づけ痕を残すと、翼は目を上向け、杏鈴の濡れた視線に食らいついた。
「……そんな余裕なくなるくらい、よくしてやるよ」
翼は直感的に確信していた。本当の意味で、杏鈴が自分のものになることは今もこの先もないのだろうと。賢成が杏鈴を想うように、失われた記憶の闇の中で同じように杏鈴も賢成を想っている。賢成の挙動ひとつひとつに苦しさを感じると杏鈴は言った。それは賢成を想うが故の感情であり、翼に向けらている都合のよいただの甘えとはまるで違う。
賢成の存在はそんな簡単に杏鈴の中から追い出せるものではなく、到底敵う相手ではない。杏鈴の記憶を取り戻させてやることは、この因果の物語を攻略する上で恐らく必須事項だ。しかし、その記憶が戻れば、賢成への敗北を完全に認めなければならなくなる。
巡る思いの中で弾け飛んでしまった理性。賢成と杏鈴の感情なんて、もはやどうだってよかった。何をしてもこの因果上杏鈴の心が手に入らぬのなら、せめてあいつに染められる前に自らの手で染めてしまえばいい。失われた記憶とあいつに板挟みにされ乱れたその心につけ入り、思うがままに汚してしまえばいい。真っ白で滑らかなこの身体を貪りつくしてぐちゃぐちゃにして狂わせたい。下劣な欲求に駆られた翼は、心底汚く卑怯なことばかりしか考えられなくなっていた。
肌と肌を何度も重ね、翼は杏鈴を抱いた。行為中、杏鈴が賢成を思い浮かべているのに気がつくと、その度に杏鈴の身体を深く噛み赤い印をいくつも残した。止めどなく流していた涙を遂に枯らした杏鈴は、頻りに乱れた吐息と艶やかな甘い声を上げるようになった。その甘い声は堪らなく愛おしく、翼の独占欲を根深く満たしていったのだった。
◆Next Start◆七章:ブルーワインノ後遺症
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◇Link◇
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881417051
・EP1:※◇12
・EP1:※◇16
・EP1:◇19
・EP1:※◇26
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