Ⅲ◆哀傷の宝石箱◆


 つかさと電話をした翌日は土曜日。ウキウキしながらパンプスに足を通し、夏川なつかわさんと手を取り合って玄関から出ていく母親を見送った。


 折角の楽しいデートに水を差してしまうと思うと、司から聞いた恐ろしいことは告げられなかった。


 心に嫌な感覚がへばりついていたが、部活の練習にいかなければならない。重たい足を引きずりながら俺は高校へと向かった。


 ◆


 部活の練習を終え夕方に帰宅した俺は、玄関の引き戸に手をかけた瞬間凍った。確実にめて出た記憶がある。なのに鍵は開いている。


 祖父母は数日前から温泉旅行で家を空けているし、時刻的に恐らく母親と夏川さんはレストランでディナーを愉しんでいるところだろう。即ち、今日は俺より先にこの家に帰っている人間はいないはずなのだ。


 おかしい。


 動かないままでいる手に、逃げ場はないと辛く諭された。


 意を決し、ガラリと引き戸の音を立てる。


 何とか脱いだ靴を安定しない手先で揃え、通路を進んでいく。その先にある襖を半ばやけくそに開いた俺は、鼻の奥で息を震わせた。


「よお、つばさ。久しぶりだなあ」


 分かっていた。だが、それを予想出来ていなかったかのように全身の震えは止まらない。荒れた居間に、堂々と酒を煽っている親父の姿があった。完全に酔いが回っている虚ろなその両目は悪びれない。床に撒き散らされているのは空になったビール瓶。母親が夏川さんのために買ったものだ。


「……お、親父、どうして……」

「ああ? ピッキングーだよ、ピッキングー!」


 ビール瓶に紛れて、それに使用したと見られる道具が転がっていた。続けられない言葉達が食道を転がり、胃液の中に溶けていく。


「なあ、母さんは?」


 親父はちゃぶ台の上に一枚の紙を殴るように叩きつけた。たった三文字の漢字に、俺は視線を電光石火の如く走らせた。


“離婚届”


 そこに書かれているのは母親の署名のみ。親父のところは空欄のままだ。


「これ、お前らが出てってからよ~、何回も送りつけてくんだよ。まあ、そのたんびに」


 両手でそれを、親父は引き裂いた。


「こうやって、ズタズタにしてやんの」


 親父は息を荒くしながら何度も離婚届を引き千切っていく。粉々に砕けてしまった母親の希望は宙を舞った。親父は踏ん反り返って壊れたラジオのようにケタケタと笑い上げる。その様子に感情は込み上がってくる。


「なあ、翼。戻ってこいよ」


 簡単に戻れるのなら、どれほどによかっただろうか。


「いいから戻ってこい、母さんと」


 無理だ。


 この先に続く未来に親父を含めて幸せな想像図は浮かばない。


 無意識に俺は首を横に振っていたようだ。全身から蒸気を噴き上げながら、親父は掴みかかってきた。


「おい! お前がここまでのうのうと生きてこられたのは誰のお陰だと思ってんだよ、え!?」


 馬乗りになられる。あの日あの時の女子生徒のデジャブだ。動揺しているうちに、親父のストレートに俺の右頬は殴りつけられた。


「俺が稼がなけりゃすっからかんだぞ! 母さんに経済力なんざありゃしねえ! それなのに男作りやがってよ! 大体お前らなんてあいつがガキ欲しいってうるせえから作ってやったもんなんだよ! お前らに俺から逃げる権利なんざありゃしねえ! 黙って俺に従え!」


 何を言っているんだ。母親を追い込んだのは親父じゃないか。自分のことを完全棚に上げている。それとも母親以外には本気じゃないから自分に罪はないと言いたいのか。殴り続けられる中で、俺は無情にもハッとした。



 酒は本音を誘引する。酒に狂っている時の発言ほど、本当なのだ。



 気づけば俺は親父を殴って反対側へ突き飛ばし、馬乗りになり返していた。親父の首根っこを掴み上げ、意のままに俺は叫んだ。


「……何を言うかと思えば……お前がチャラチャラ外で女作って遊んだのが全ての元凶だろう! 母さん、司、俺だけじゃない! 貴様はその周囲にも及んで人の心を傷つけた! のうのうとしてるのは貴様だろう! どれほど辛かったか、今も辛いかっ……貴様には一生分からん!」


 喉の奥が引き攣る。息が上がる。視界が霞む。涙が止まらない。


「……たのに……」

「あ?」

「……心のどこかでは……っ……」


 親父の首根っこを掴む手に込めている力は抜かないままで、俺はきつく唇を噛んだ。血の味は、この期に及んでもまだ、銀色の宝石箱と繋がっている希望の糸をぶつ切る決心をつけることが出来ない自らへの戒め。


 押し殺していたが自覚していた。あの場所に残っている優しい思い出は根強いと。いつか更生してくれるのではないか、昔の親父に戻ってくれるんじゃないかと心のどこかで信じていた。


 だが、たった今親父の口から吐かれた本音に全ては裏切られた。初めからずっと、親父は俺達を大切な家族だとは思っていなかったんだ。


「……二度と現れるな」


 そう言い、俺は激しい一発で、親父を殴りつけた。


「……俺達の前にもう二度と現れるな!」

「このやろっ……!」


 俺に抵抗しようとした親父は瞳孔と口を大きく開いた。視線は俺の遥か後ろを捉えている。


 親父の首根っこを掴む力を緩め、俺は背後を振り返った。そこに立っていたのは、母親と夏川さんだった。何を言うでもなく、母親は冷静な顔をして涙を流している。


「翼くん」


 優しい顔をした夏川さんは近寄ってくると、興奮状態である俺の肩をそっと抱いてくれた。そして緩んだだけになっていた俺の手を完全に親父から引き剥がすと、夏川さんは母親と俺を護るように、親父の前に立ちはだかった。


「お話はお聞きしています。大変、申し訳ありませんでした」


 夏川さんは親父に対し、真撃に深く頭を下げた。てっきり殴りかかるものだと思い込んでいた俺の心は、夏川さんの大きな背中を眺めているうちに落ち着きを取り戻し始めた。


「実は、彼女から離婚は成立していると聞いていたものですから。今の今まで、わたくしは事実を知りませんでした」


 散らばっている離婚届の破片を、夏川さんはちらりと見やった。


「こんなことを言うのはおこがましいと重々承知しておりますが、私は、彼女のことを、本気で愛しております」


 静かに泣いていた母親の口から涙声が漏れた。夏川さんを見上げる親父のひとみには、あからさまな怒りと嫉妬が泳いでいる。


「今日のことを警察には通報しません。その代わり、彼女の離婚要求をきちんと呑んで頂きたい。この通り、お願いします」


 小学六年の時、本当の両親の関係を知るきっかけとなってしまった日のことを俺は思い出していた。家のリビングで母親に離婚を迫る女。その女といちゃつきながら、俺を見ないようにして出ていった親父。悪いことをしたら天罰が下る。それを夏川さんが証明してくれたような気がした。自分の欲望だけを大事にし好き勝手してきた親父に、今この瞬間、罰が下されたのだ。


 親父は突如エンジンが切れたように滲ませていた苛立ちを消した。生気をなくした表情でスクッと立ち上がると、壁にぶつかりながらも覚束ない足を動かし去っていった。


「翼くん、大丈夫かい?」

「……はい……俺は、全然……あの……」


 夏川さんが俺を見つめるひとみは、優しさに溢れていた。


「……ありがとう、ございます……」


 その優しさは、あのオルゴールをくれた日の親父を彷彿させて――俺は両手で胸を抑えて嗚咽した。


 だが、事件は終わっていなかった。

 

 親父が出ていってから数分後、司からの電話に吐き気を催した。




 親父が死んだ。



 

 耳を疑った。まだ殴られた痛みだって残っている。さっきまで生きていた。それが何故。


 母親と共に司が待つ病院へとすぐに向かったが、そこに親父はもういなかった。両手を組み、安らかな人の顔をして眠りについていた。


 警察の説明によると、死因は事故死、それも親父自らの過失だ。道の途中にある橋から落ちて頭を強く打ち、即死だったらしい。酒に酔っていたとは言え、人生とはこんなにもあっけなく足を踏み外して終わってしまうのかと、頭が真っ白になった。


 その裏で、司は警察からされた説明に納得していなかった。何故なら司は俺に電話をかけてきた時、親父は殺されたと証言していたからだ。俺と母親が暮らす家に向かって歩いていた最中、黒い服に身を包んだ怪しい人影が、人の背を故意に押して走り去るのを見た。まさかここに親父がきているだなんて微塵も思っていなかった司は、突き落とされ川の中に半身を埋めているその人を助け起こして親父の顔が覗いた瞬間は心臓が止まりそうになったと語った。そんな状況下に置かれてよく自分を見失わずに俺に連絡を寄こしたものだと、改めて司の精神力を尊敬した。


 それから他に目撃者は現れず、司の訴えは最後まで警察には聞き入れられなかった。結局、親父の死は事故死として片づけられた。人として正常であるが故に浮かんできてしまう無念の思いは、親父が受けた当然の報いだったのだと、何度も自分に言い聞かせて砕いた。


 司は今も納得はしていない。それに、今でも言うのだ。「あいつのことは大嫌いだ。でも、他殺かもしれないことを隠蔽した警察はその何億倍も嫌いだ」と。


 もし、親父があのまま生きていたら、俺達はその執着心からいつか殺されていたかもしれない。だが、こんな風に親父を罰して欲しいと決して願ってはいなかった。


 殴り合い傷つけ合ったままで別れてしまうだなんて――火葬場で親父の身体が燃やされていく中、俺は居た堪れない思いに声を殺して泣いた。



 銀色の宝石箱を握り締めて。










 



 ■Past YOKU END■


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