Ⅱ◆慈しみの宝石箱◆


 第二の事件と称して過言でない出来事は、俺が中学三年の時に起こった。無事に部活を引退し、寒々しい家庭環境のことは考えぬようにして、受験勉強に集中しようと考えていた矢先だった。


 昼休み、机に突っ伏していた俺は、目の前に感じた妙な気配に重たい頭を上げた。


 女子生徒、顔に見覚えがある。同じ学年だ。腕を組んで仁王立ちし、俺を強く蔑んでいる。強烈な剣幕だ。


 ふと、周囲の様子がおかしいことに気がついた。普段つるんでいる仲のよいクラスメイトの俺を見る気まずそうな表情。そこまで親交のないクラスメイトでさえ、ひそひそと会話をしている。廊下の外からこちらを眺めている生徒も少なくない。


「……あの……」


 一体何だって言うんだ。


 素直に問おうと口を開いた瞬間、俺の視界はぐらりと揺れた。


 背中に走った強い痛みに目が覚める。女子生徒が俺の両肩を引っ掴み、椅子ごと押し倒したのだ。


 女子生徒は俺に馬乗りになると、胸倉を掴み上げてきた。力の籠りかたが尋常ではない。女子生徒の怒りは頂点に達していた。


「あんたの父親、さいってい!」


 ボロボロと女子生徒の両目から涙が零れた。ポタポタと俺の顔を汚す。


 察した。嫌にでも察した。親父がしでかしたのだと。


「うちのお母さんたぶらかして! お父さん出ていっちゃったんだよ! それだけならまだましだったよ! あんたの父親はすぐにお母さんをポイ捨てした! あんなに口説いてやがったくせに! 離婚して一緒になるからって言ったくせに! お母さんショックで鬱になっちゃったんだよ!」


 女子生徒の拳が俺の右頬にぶつかった。鈍いくせに重たい音が響いた。


「ふざけんなよ! あんたの父親のつけた傷だ責任取れよ! どうしてくれんだよ! もう死ね! 死んで償え!」


 騒ぎを聞きつけた担任を含めた教師数人が、女子生徒の暴走を取り押さえた。咽び泣く声を轟かせながら女子生徒は教室の外へと連れていかれた。


 ひりひりと痛む頬に俺は手を添える。痛みが足りない、そう思った。


 人の家庭まで崩壊させた親父の罪を代わりに償うのなら、この顔面が原型をとどめないほどボコボコになったとしてもまだ足りない。


 女子生徒の言う通りだ。この身を投げることでしか、償う方法はない。


 教室内が騒然としたがどうでもよかった。この絶望と羞恥から楽になりたい。死んでしまえば何も考えずに済む。


 狂った感情を胸に立ち上がった俺は、開いていた窓の柵を両手で握り飛び越えようとした。


「兄貴!」


 そんな俺を止めたのはつかさの声だった。事態を聞きつけ二年の教室を飛び出してきてくれたのだろう。


 司は俺の身体を両手で抱えるとそこから力任せに引き剥がした。勢いのまま二人で床に転がった。再び痛みが身体を貫く。歯の奥に力を入れながら薄く開いた両目は、すぐにはっと開き切った。


 俺の身体を両手で掴んだまま、司は泣いていた。嗚咽を殺すようにしてぶるぶると震えて。俺の弟――指先を伸ばしてその涙に触れた時、一瞬でも逃げようとしてしまったことを、ひどく後悔した。


 女子生徒は事件後、他の学校へ転校していった。俺はそれからひとりになった。つるんでいた友人が引いていくのは当然だ。後ろ指を差されるのにも次第に慣れた。


 決して虐められていたわけじゃない。単純に関わらぬほうがいい人物として認定された。辛くなかったわけじゃない。だが受け入れるしかなかった。毎日感情にナイフを突き刺して過ごしながら、ひたすら勉強に励んだ。


 幸い司のバンド仲間はハートの熱いやつらばかりで、司はひとりぼっちにならずに済んだ。兄としてそれだけが救いだった。




 ◆



 

 それから少しして、母親が告げてきたのは耳を疑う提案だった。


 親父との別居及び離婚計画。


 てっきり親父に依存心を抱き続けているものだと思っていた母親は、外で作った新しい男に知らぬ間に惚れ込んでいた。


 母親の交際相手は俺達の暮らす都会から離れた海の傍に住んでいた。そこから都会に通勤していたが、翌月から住まい近郊での勤めに変わるのだと言う。何のご縁か、交際相手が暮らしている隣町に母親の実家はあった。母親はこれをチャンスと取り、俺達を連れ実家へ戻ろうと考えていた。


 部屋の扉を閉めると、俺は勉強机の引き出しを開け、手を突っ込んで銀色の宝石箱を掴んだ。


 ネジを回して音を鳴らす。何度も鳴らすが聞きたい音はもう流れてこない。流れているはずなのに、何も聞こえていないようにさえ感じられたことに、どうしてかホッとした。そのおかげで少し気持ちに整理がついた。


 宝石箱を片づけてから帰宅した司を部屋に呼び、母親の提案について伝えた。司は提案自体には賛成だったが、バンド仲間と離れたくない気持ちが強いため、中学終了まではここに残ると言ってきた。


 母親と俺が出ていけば、ここはきっと親父の無法地帯へと化す。司をそんな場所に残して俺だけ逃げることは断じてならない。母親だけ、逃げてもらおう。


「兄貴待って」


 母親にそう伝えるためリビングに向かおうと立ち上がった俺だったが、司の呼びかけにドアノブを握ったまま振り返った。


「いけよ。母さんと」

「……無理だ。出来ない」

「そうしてほしいんだよ、俺が」


 司の眼差しは真剣だった。


「俺が残りたいのはアイツのためじゃない。まじでアイツのこと死ぬほど嫌いだから。あくまでも自分の都合。俺も卒業したらそっちに絶対脱出する。兄貴と少し時期がずれるだけ。俺は大丈夫だから」

「……だが」

「兄貴は逃げるんじゃねぇよ? 進むんだよ。やっと進めんだよ」


 司はいつも、俺のことを救ってくれる。


「俺に気い遣うなしっ」

「……司」


 情けない兄貴ですまない。だが、強くなる。そのために俺はここからいなくなる。


 司の前向きな言葉を胸に、翌月、俺は母親と一緒に都会から抜け出した。


 転入先の中学にはそこまで馴染めなかったが、心は驚くほど安らかになった。後ろ指を差されることもない。俺を知るやつはここにはいない。そしてもう、親父の姿を見なくて済む。


 枕元に置いた銀色の宝石箱。そこに消えかかりつつもしぶとく残る優しい思い出だけを慈しみながら、俺は高校入学を迎えた。



 

 ◆




 転入してからの中学と違い、入学後はクラスメイトと無難に打ち解けられた。引き続きバスケットボール部に入り、初めての高体連でレギュラーになり試合に出ると言う偉業も成し遂げた。今までの忍耐がようやく報われ始めたのかと思っていた。


 母親の交際相手、夏川なつかわさんは頻繁に俺達の暮らす実家を訪れた。母親が派手な格好で出ていくものだからそれ相応の相手だろうと思っていたが、実際そうではなかった。母親より五つ年上、親父と真逆のタイプで物腰のとても柔らかい人。いつしか一緒に食卓を囲む機会も増え、自然と俺も会話をするようになった。


 何より、母親の変化を嬉しく思った。見せる笑顔は都会の一室にいた時の張りついたものではなくなった。母親本来の明るくて輝かしい笑顔が取り戻されたのだ。


 司とは毎日連絡を取っていた。兄として心配する気持ちは抑えられなかった。母親と俺が出ていきしばらく経ったが親父は変わらず、ほぼ家には帰ってこないらしい。顔を合わさないから揉めることもない。そう言っていた司の言動は、夏に一変した。


 その日は珍しく司のほうから電話をかけてきた。祖父母と母親、そして夏川さんと夕飯を食べていた俺は離席し、簡易なサンダルを履いて外に出た。


「……もしもし」

『兄貴っ、やべぇ!』


 受話部から聞こえた耳が痛くなるほどの司の叫び。呼吸がえらく乱れている。


「……どうしたんだ」

『今帰ったんだけど家ぐっちゃぐちゃ! あいつっ、暴れてやがる!』

「……はっ?」

『酒! 家中ビールの瓶! まじ狂ってる!』

「……司、今どこだ」

『とりあえずやべえから逃げてきた! 今日は仲間んとこ泊めてもらえっから安心して!』

「……いきなりどうなってるんだ。親父、酒は飲めないはずじゃ……」

『分っかんねえ。つか、明日、そっち、いってもいい?』

「……もちろんに決まってるだろう」

『母さんに警戒するように伝えたほうがいいかもしんねえ』

「……何か言ってたのか?」

『大声で叫んでた。母さんの名前』



 怖い――そう思った。



 脱出したと思っていた。だが違った。どれだけ離れても親父からは逃げられない。とんでもない思い違いをしていたことに俺はこの時気がつかされた。依存心を抱いていたのは母親じゃない。母親にべとりと執着していたのは、親父のほうだったのだ。



 そして、最後の事件は起こった。



 ◆

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