■Past YOKU■
Ⅰ◆思い出の宝石箱◆
◆
「
銀色に輝くそれは、まるで宝石箱のようだった。
「おとうさん、これ、なに?」
「これはな、オルゴールって言うんだ。よし、じゃあ一緒にっと」
小さな俺の手を包み込むようにしながら、親父は宝石箱の裏側についているネジに触れた。数回転させ、そっと手を離した瞬間、美しい繊細な音が溢れ出した。
「いい曲だろー」
「なんてゆーきょく?」
「これはなあ」
あの時と同じ音、何度このネジを捻ろうとも、奏でられることは二度とない。
■Past YOKU■
俺の親父は俗に言う商社のエリート営業マン。海外を駆け回るため、家を空けることが多かった。幼き頃の俺はそんな親父が帰宅する日を楽しみに待つ、純粋な子どもだった。
忙しい合間の少ない時間縫って、親父は俺を構ってくれた。母親からもごく普通に愛情を受けていたと思う。だが、母親だけでは埋まらない寂しさは、どうしても俺の心に芽生えて存在していた。
宝石箱――そう感じるほど煌めいていた正方形の銀色のオルゴール。父親に会えぬ期間は寂しさを堪えるため、そのネジを頻りに捻った。
俺の家は当時、都会の中心地にある高層マンションの一室。俺が言うのも何だが、親父は明るく爽やかな好青年、母親もまずまず美人で、ご近所からは美男美女夫婦だと評判だった。俺にとっても、ひとつ下の弟である司にとっても、二人は自慢の両親だった。
仲もよく、会話が絶えない温かい家庭だと思っていた。本当にそうだと思っていたんだ。
だが、それがそうでないと知ってしまったあの日、俺は断崖絶壁に襲いくる荒波に呑まれて消えてしまいたい気持ちに駆られた。
◆
真相を知ってしまったのは、俺が小学六年の時。
その日は悪天候で、入っていたバスケットクラブの練習が通常より早く切り上がった。
帰宅して早々リビングへ向かった。頭の中が真っ白になったのを今でも鮮明に覚えている。
目に映ったのは、テーブルに座る三人の大人の姿だった。
親父と母親、そして、見知らぬ若い女。
ただならぬ空気に足が竦み、俺はその場で呼吸を狭めた。
女は当時親父が通っていたキャバクラのお気に入りの嬢。夜の仕事を象徴する典型的に盛られた髪型に始まり、メイクや爪、身なりの全てが派手だった。
「ねー、おばさん。いつまでしがみつくつもりでいんのー?」
親父から肩へ手を回され、嬉しそうにしながら挑発してくる女を、母親が鋭い目つきで睨んだ。
「何その目―。てかー、もう何年も前から破綻してんでしょ? 早く離婚してもらえません? 惨めだよそー言うの」
当時の俺はただのクソガキ。状況整理なんざ出来やしない。女の放つ言葉の何もかもが異国語であるかのように聞こえていた。
たった昨日、いや、たった遂さっきまで、仲のよい普通の家族だったのに。
「……翼……」
崩壊する、音がした。
俺の姿に気がついた第一人者は親父だった。
「あれ、翼くんだっけ。こんにちは~」
わざとらしい甘い声を出しながら女は寄ってきた。伸ばされた不潔な手。俺は思い切り叩き返した反動で、尻もちをついた。
「人見知りなのかな~? 可愛い。私、近いうちにあなたのお母さんになると思うから、よろしくね?」
「帰って下さい!」
母親がテーブルを叩きつけた。俯きながら肩をわなわなと震わせている。
親父は椅子から立ち上がるとこちらへ近づいてきた。だが、その目に俺は映っていない。女の肩に手を絡めながら俺の横を通り過ぎ、二人は家から出ていった。
「……か、母さん」
感情が混沌としている中、俺は力なく椅子に座り込んでいる母親の元へと駆け寄り、その肩に手を触れた。
俺の手を静かに握り返してきた母親の顔は、悔しさと惨めさに責め立てられくしゃくしゃに歪み、両目からは止めどなく涙が流れ続けていた。
「ごめんね……翼」
母親に抱きつき、俺は声を上げて泣いた。何が悲しくて、母親がこんな辛い顔をするのを見なければならないのだろうか。何より、目の前で傷つけられる母親を庇ってやれなかった無力な自分に憎悪が湧いて仕方がなかった。
友人と遊び終え帰宅した
端的に言えば、親父はプレイボーイだった。
浮気癖と言うのは生まれ持った細胞的なものであり、そう簡単に治る病ではない。俺達が生まれる前から相手の女はめまぐるしく変わっており、母親はそれを結婚前に見抜けなかった自分の責任とし、容認してきたと言うのだ。
乗り込んできた浮気相手はあの女が初めてで、今回のことがなければ両親が隠してきた闇に、俺達はずっと気がつかないでいたかもしれない。
今すぐにでも親父と離れるべきだ、そう思った。母親の自責の念も理解してやれないわけではなかった。だが、数十年の間、母親が心に負ってきた傷の数は想像を絶する。このままでは母親が壊れてしまう。
しかし、それからまるでその出来事がなかったかのように笑顔で過ごす母親に、俺は「離れろ」の一言を、どうしてか言いだせなくなってしまったんだ。
◆
時は流れ、俺は中学二年、司は中学一年になった。
俺は小学校からの継続でバスケットボール部に入部し、塾に通い勉強にも勤しんでいた。司は仲間とバンドを組み、ベースの練習に励む日々を送っていた。
そのため、俺達が帰宅するのは決まって遅かった。正直に、水面下で重苦しいが垂れ流され続けている家に長時間滞在しなくてよいのは、精神的に幸いだった。
海外出張の少ない部署へと異動になり、日本にいることが増えたせいであったのだろうか。親父の女癖は悪化の一途を辿っていた。真相を知った時のあのケバケバしい女なんて遠の昔に捨てていた。親父の女のとっかえひっかえが止まることはなかった。
親父は何をしても堪え切る母親の甘やかしに、完全に図に乗っていた。その頃辺りから、親父は滅多に夜に帰宅することはなくなった。朝、鍵の回る音と共に女もののシャンプーの匂いを漂わせながらリビングに入ってき、家にはほぼ滞在せず、仕事へ向かう。
母親はと言うと、夜に家を空けることが多くなった。綺麗に化粧をして、ドレスとヒールを纏い、塾帰りの俺とすれ違うように家から出ていく。一体何をしにいっているのだろうか。誰のところへいっているのだろうか。心を保つための行動に違いないとは思っていた。ただ、俺は、それについてもはや聞く気力すら湧かなくなっていた。
狂ってる。心の中では何度も呟いた。かと言って、この状況を打開する方法なんて思いつかなかった。家出したところで生きていける経済力なんて掴める年齢ではなかったし、どうにかしたくても、どうすることも出来なかった。
ある日、司が母親に向け、遂に俺が吐き出せずにいた言葉を投げつけた。
「もうさ、離婚しなよ」
包丁で野菜を切っていた母親の手が止まった。
「俺達のために離婚出来ないとか思ってんなら、まじ勘弁だから」
母親が振り返り口を開きかけたその時、親父が帰ってきた。
「お~、ただいま」
珍しすぎる夜の帰宅。どうしてこう言う日に限って。
「こんな時に帰ってくんじゃねーよクソ野郎!」
司の親父に対する嫌悪感は半端なく膨れていた。苛立ちをぶつけてリビングをあとにした司は、ベースを片手に荒々しく外へ出ていってしまった。
「うわー、荒れてんなあ。すぐ出るのに」
「あら、そう。じゃぁご飯いらないわね」
「ああ、ごめんな」
乾き切った両親の会話。時計の針は午後十時半を差している。
俺は思わず、マンションの階段を下りていく親父の背中を追った。
「……親父!」
「おー、翼。どうした」
俺の名を呼んだ親父は屈託のない笑顔を浮かべた。昔のまんまだ。唐突に、銀色の宝石箱をもらった日のことが甦った。
「……どこ、いくんだ?」
答えなんて、見え過ぎているのに。
「どこって」
「……い、いくなよ!」
気づけば、精一杯の無意味を俺は親父にぶつけていた。
「……翼」
親父の手は、そっと俺の頭の上へに置かれた。
「……早く寝て、ゆっくり休めよ」
撫でられてくしゃくしゃになった髪の毛。久しぶりに交わした会話と温もり。感情は心の中で密かに昂り、俺の口内で投げたい言葉達はぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまった。
親父は颯爽と、旅人のように夜の街へと消えていった。
自室へ戻った俺は、浮かんだ思い出に影響され、銀色の宝石箱を勉強机の引き出しの中から数年振りに取り出した。溢れる美しい繊細な音に、ほんの少しの哀しみが混ざる。昔の親父と今の親父の姿がリンクする。
ひとつだけ分かったこと、親父はやっぱり親父だ。自分の親父は、世界でたったひとりしかいないのだ。クズすぎるゲス野郎でも、俺はそこに這わせる感情を、冷徹なものに完全に変えることは出来なかった。
ぺしゃんこになるまで希望は潰したつもりだった。だが、親父が女遊びをやめ、正しい家庭が取り戻されると言うことを諦めきれていないのだと自覚した。
この日、無理矢理にでも親父を止めなかったことを後悔はしていない。止める労力を費やすことほど無駄なものはないと、のちにより深く分かったからだ。
◆
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