◇22.曝け出す覚悟は指に挟んだ
「あ、ちょ、悪い」
通話を終えた優は、先程と同じように片手を上げてきた。だが、そこに込められている意は別物だ。
「本当にわりぃ。俺、もう帰らねぇといけなくて」
何かを濁すような声色だ。
「私のほうこそ、ごめんなさい」
「いや、あ、駅までは送るぜ」
「ううん。帰る人たくさんいるだろうし、平気よ。気にしないで」
優の好意は嬉しかったが、ここで頷いたら、我儘を我慢することが出来なくなってしまう。一度深く息を吸ってから、仁子は丁重に断った。
仁子はサッと立ち上がると、借りていた制服のジャンパーを軽く叩き、畳んで優へ差し出した。優はそれを受け取ると、スタンド内へと戻り、店内ブースへ入っていった。
着替えを済ませた優はリュックを背負って出てくると店長へ挨拶をし、スタンド前の歩道で立ち止まっている仁子の元に駆けてきた。
「バタバタして悪いな。帰り気をつけろよ。フォロワーかそれ以上のヤツか出てきたら遠慮なく
「ええ、気をつけるわ。今日は、ありがとう」
「おう。こちらこそっ」
「
仁子は精一杯その言葉に含み込ませた。着信に遮られてしまった想いを。
優は微笑み頷くと、仁子がこれから向かう駅とは逆の方向へと急いで駆けていった。
優の背中を見えなくなるまで見送った。仁子は小さな歩幅で進み始めた。歩みを進めれば進めるほど切なさは膨れ上がる。頬が持つ熱は下がりそうにない。両手で胸元をギュッと掴む。想いは伝えずに済んでよかったのかもしれない。この恋心は一方的なものなのだから。
優は至って平等だ。誰かを贔屓することもなければ、特別扱いすることもしない。
だが、そんな優をあんな風に戸惑わせるもの。先程の会話の調子から、着信相手は恐らく身内だ。折角少しばかり薄まってくれた優に対する気がかりは、別のかたちでその色を再び濃くすることとなってしまった。
駅が見えてきた。大きく深呼吸をしてから、仁子は改札を潜った。
◆
優は走り続けていた。自宅まであと少しだ。休んでいる場合ではないと分かっていたが、道中にあるベンチに腰を下ろした。流れる汗を拭う。乱れた呼吸を整えようとするが上手くいかない。両手を重ね合わせ口元を覆った。
仁子が言おうとしていたこと。あそこまで言われてあの言葉の続きを想像出来ないほどバカじゃない。
優は口元から手を外し、右腕を額にあてて天を仰いだ。呼吸はようやく整ってきたのに、鼓動の速度は緩まない。左手で胸元をグッと握った。
仁子へ隠す自身の想い。隠さなくていいと許されるのならばどれほどに幸福だろうか。
しかし、
「おにーちゃーん!」
それは決して、許されない。
「
聞こえた足音に、全ては醒めた。
優はベンチから降りると、その場に屈んで両手を大きく広げた。胸に飛び込んできた弟、歩の小さな身体。顔は涙でぐしゃぐしゃだ。その後ろからもうひとりの弟、
「兄貴! 急かしてごめん! 歩が迎えにいくって聞かなくてさ。泣きやまないし」
「いや、俺が悪い。あんなに時間オーバーしてんの、気づいてなかったんだ」
暗い顔をしている大翔。優は歩を強く抱き締めたまま、大翔に罪は一切ないと目で強く示した。
「歩、ごめん。本当にごめんな」
ひくひくと喉を引きつらせて泣き続ける歩を抱き上げると、優は大翔と共に、自宅へ向かって歩き始めた。自制心に負けそうになり暴れかけていた想いは、心の奥へと押し込んだ。
◇◇◇
一頻り、三人が買ってきてくれた花火セットはやり切ったのだが、やんちゃ坊主・真也が物足りないと言い出し、誠也を引き連れコンビニへ追加を買いに出かけていった。
残った航と輝紀は、一旦航の部屋で待機することにした。双子の帰りが分かるよう窓を開けてから、缶ビールで乾杯した。
「うーん。最高だね。夏って感じだ」
「
航が口元に人差し指をあて“内緒”のポーズをすると、輝紀は軽く笑いながら指でOKのポーズを作った。
「そう言えば、優は? 今日仕事?」
「そうなんですよぉ。夕方くらいに誘ったんですけど、仁子ちゃんくるからって、断られちゃいました」
輝紀がビールを飲もうとしていた手を止めた。
「……それって、約束してたって?」
「いえ。いきなり連絡きたみたいで、花火見ようって。あいつ乗り込んでくんだけどって、若干優くん怯えてました。笑えますよねぇ」
「そう、なんだね……」
輝紀は黙り、ビールをひと口、二口、三口と進める。
「優くん達と、花火の会場で会わなかったんですねぇ」
「航」
へらへらしていた航の背筋はピンッと伸びた。名を呼んできた輝紀の声が、ツンと尖りを持っていたからだ。
「は、い?」
短く返答し、航は輝紀の様子を真正面から窺う。輝紀の
「情けないのを承知で言う」
「は、はい」
「僕は嫉妬しているんだ。優に」
意を決したような眼差しを輝紀から向けられたが、航はいまいち理解出来ず、きょとんと首を傾げてしまった。
「えっと、どうしてですか?」
輝紀の手元から、缶が転がり落ちていった。
「わあぁあっ! 大丈夫ですか先輩っ」
余程何かに衝撃を受けたようだ。航は慌ててタンスからタオルを取り出すと、絨毯に滲みたビールを拭き始めた。
「う、んーと……大丈夫ではないかな……その……気になるんだ。仁子ちゃんが」
訪れた沈黙。絨毯を擦る航の手は止まる。
そして、
「うえっ!?」
叫んだ。まさかだった。輝紀に衝撃を与え、ビールを無駄にさせてしまった何かが超鈍感童貞野郎の自分の口から出た疑問だったなんて。しかしさすがは輝紀だ。衝撃は倍返しにされた。もう十分だ。航はあんぐりと開いたままになっている口元を両手でそっと隠した。
「気になると言うより……うん。もう、航でも察せるかな」
「も、申しわけありませんでした。分かります。さすがに分かります」
航がペコペコと何度も頭を下げると、輝紀は宥めるように首を横に振った。
「実は僕、みんなに嘘をついていることがあるんだ」
「嘘?」
「うん。航達の
航の目は少し泳いだが、繋がるものを脳内の片隅に発見した。
「もしかして、あれですか? 俺が梨紗ちゃんと四月一日に出会って、翼くんも四月一日に杏鈴ちゃんと接触してた。けど、仁子ちゃんだけ誰も会ってなかったって言うやつ」
「正解。それが嘘なんだ。本当はあの日、四月一日、僕が仁子ちゃんに会っていたんだ」
輝紀は深く頭を下げてきた。
「黙っていて、ごめん」
「そ、そんなに謝ることじゃないですよ! 顔上げて下さい。それに、言えなかったのには今お聞きした、お気持ちが絡んでいますよね……?」
ゆっくりと顔を上げた輝紀の顔は、ほんのり赤く染まっていた。見てはいけないものを見てしまったような気持ちだ。大人びていて落ち着きのある輝紀がこんな表情をするなんて。想いの威力を感じ、航まで恥ずかしくなってきてしまう。
「会っていたと言うか、偶然すれ違っていたが正しいんだ。Crystalのgameが始まるまで本格的な接触はしたことがなかった。ただ、すれ違ったのは、この前の四月一日が初めてではないんだ」
「そうなんですね」
「初めて仁子ちゃんの姿を見たのは、そのもう一年前の、四月一日だったんだ。何にせよ、彼女がMemberであるインスピレーションがあったと言う事実は揺るがないんだけれどもね」
「その、一年前の四月一日? も、すれ違ったんですか?」
「ううん。ピアノの音に、導かれたと言うのかな」
「ピアノ?」
「そうか。航、誠也くんのドSのせいで、学食からすぐ追い出されたから知らないのか。あのあと、仁子ちゃんが入っている音楽サークルが活動している部屋を四人で訪れたんだ。一年前の四月一日、春休み期間中だけど大学にいく用事があって、その活動部屋から漏れてきたピアノの音を耳にした」
「そのピアノを弾いてたのが、仁子ちゃんだったんですね」
「そうなんだ。航、一度理解すれば、そんなに鈍感じゃなくなるんだね」
「はは……どうやら、そうみたいですねぇ」
航は苦い笑みを浮かべて頭を掻いた。
「その音が気になって活動部屋にいってみたら扉が開いててね。覗いて衝撃を受けた。ピアノを弾いている仁子ちゃんは本当に綺麗で、鍵盤を見つめる伏し目がちな表情も、その美しさを引き立てていたように思う。緊張して声をかけれずに立ち去ってしまったんだ。情けないだろう? それから大学内ですれ違うことや見かけることは何度かあって、仁子ちゃんは僕のことを知らないけれど、僕は知っていた、と言うようなかたちなんだ」
上目遣いで不安そうに窺ってくる輝紀に、航はにっこりと微笑んでみせた。
「先輩、一目惚れしちゃったんですねぇ。仁子ちゃんに」
「そう、ハッキリ言われると、物凄く恥ずかしいんだけどね」
「でも、惚れちゃう気持ち、分かりますよぉ。仁子ちゃん本当に整った顔してますもんね。頭もいいし、育ちもよさそうだし、スタイルも抜群だし、しっかりしてるし。先輩とお似合いですよぉ」
「誘ったんだよ」
「え?」
「今日の花火……それに断られた瞬間、いや、また嘘になるね。断られるずっと前から分かってた。仁子ちゃんは、優のことが……あー、惨め過ぎるね、僕」
瞬間、第二の衝撃と言う名のついた寒波が航を襲った。自身の迂闊な発言が、思わぬ事実を伝えてしまっていただけでなく、輝紀を傷つけていたのだ。
遂に、航も持っていた缶ビールの中身を絨毯へぶちまける派目に陥った。
「航! 大丈夫かい?」
「先輩! 俺のこと本気でぶん殴っていいですよぉ!」
「ごめん。責めてるつもりなんて皆無だよ。航のせいじゃない」
「でもぉ」
「仁子ちゃんから、優と若干揉めたって言うことは聞いていたんだ。けど彼女は、ない先約を作るつもりでいたんだろうね、意地でも」
輝紀を介して知りえてしまった仁子が優へ抱く想い。航は慰めるように、輝紀の
「確かに、仁子ちゃんのその行動だと……ただ、二人、付き合ってるわけじゃないですし。それに、優くんは……」
言葉を詰めた航に、輝紀は瞬時に察したようで、俯いた。
「優くんは、彼女作る余裕とか、ないですから」
「……そう、だよね……」
下がった眉を上げられないままで、航は無理矢理歯を見せ笑顔を作った。
「だ、だから! 諦めちゃうのは勿体ないですよ! 嫉妬するってことは、好きってことだと思いますし」
輝紀は膝の上で拳を握った。
「本当は、手に入れたい。彼女をっ……」
「……先輩?」
航は輝紀の顔を覗き込んだ。輝紀の額から滴り落ちている汗は止めどない。次第に輝紀の肩はぶるぶると震え始めた。航の心に、違和感が広がる。
「先輩、どうしました? 気分悪いですか?」
航が肩に触れてやった途端、輝紀の呼吸は荒れだした。
「い、や……大丈夫……」
「お水、持ってきますね!」
「そ、うだね……お願いしても……」
喉元を抑えて苦しそうにしながら、航の肩を輝紀が掴み返したその時だった。
「こみやーん! ただいまー! いっぱい買ってきたよーっ!」
窓の外から飛び込んできた、元気いっぱいの上機嫌な声。
「真さんだ。帰ってきた」
航は窓の向こうを首を伸ばして覗こうとして、輝紀の変化に目を留めた。呼吸は正常化し、肩の震えも、流れる汗も収まっている。真也の一声が、輝紀を救ってくれたのだ。
「あれぇっ。先輩、大丈夫、そうですね」
「う、うん。もう、平気みたいだ」
「よかったぁ。安心しました。また、気分悪くなったら遠慮なく言って下さいね」
真也に便乗した誠也の叫び声も、窓枠を越えてきた。早く早くと待ち詫びている。
「ありがとう。とりあえず、出るのは絨毯をもう少しちゃんと拭いてからにしようか」
「あっ……はい」
濡れたままの絨毯をパタパタと拭き上げ、部屋を少し整えてから、航と輝紀は階段を下り始めた。
「あの、先輩。今の話、他の人には言わないです。心配しないで下さいね」
「……ありがとう、航」
後ろの輝紀を振り返り、航は笑いかけた。その航の背中に向かって、感謝の言葉を返した輝紀。
だが、その瞳の色は冷たく、黒く染まっていた。
◆◇◇
ローテーブルの上に転がる空きカン。中途半端に開いたつまみの袋。二つのグラスには、サファイアブルーの液体が再び注がれていく。
あれから
ソファに背を預けている翼は、冷静な眼差しを前方にいる杏鈴へ向けた。どうやらほどよく出来上がっているらしい。頬を少し桃色に染め、とろんとしたとろけるような微笑みを浮かべている。
「それ飲んだら、わたし溶けちゃうかも」
「……なら、俺がもらう」
「やだー。飲みたいもん」
「……どっちなんだよ」
出来上がっていると言っても、杏鈴は意識は失わないタイプであるようだ。翼がグラスを差し出してやると、満足気にサファイアブルーの液体を小さな口で、ちびりと飲み込んだ。
酔わずとも、酒が入ると、気持ちはオープンになる。今なら全てをぶちまけてもいいのではないだろうか。衝動に駆られた翼は躊躇いなく、杏鈴に言葉を投げた。
「……なあ」
「ん?」
「……そろそろ、ちゃんとした回答を得たいのだが」
「ちゃんとした回答?」
「……
とろんとしていた杏鈴の
「……知らない振りをしているんだろう?」
杏鈴はローテーブルに両肘をつき、顎を両手の上に乗せ、誘うような
「どうしてそんなに気になるの?」
「……gameと噛んでいると考えるからだ」
「game?」
「……五十嵐から聞いたんだが、俺とお前の過去の所有者は、恐らく恋人関係にあった。あの赤い目でそれらしい光景を見たと言っていた。その光景の中で、お前の所有者は、俺の所有者に向け、歌を歌っていたらしい」
杏鈴の
「……俺の疑問は、五十嵐の見る光景にも、俺と航が第一の物語で目撃した絵画にも、白草の所有者らしき姿が見当たっていないことにある。だけどあいつはお前が自分のものであると言う絶対的な自信を持っている。お前には、あいつとそれなりの因果関係があるはずなんだ」
「わたしが、
「……はっきり言えばそうだな」
「そっかあ……なるほどね……」
杏鈴の視線はサファイアブルーの液体に堕ちた。少しの沈黙ののち、先に口を開いたのは杏鈴だった。
「翼くんは、辛かったことって、ある?」
「……そりゃ、二十年も生きていれば、ひとつや二つあるだろう」
「それって、もう、忘れちゃった?」
杏鈴の言いかたには分かりやすく含みがある。普段なら話したくないようなことも、この酒の回り具合であれば打ち明けられると感じる。他人の闇を引き出したいのなら、自分が先陣を切り曝け出すしかない。杏鈴が聞きたいと思っているであろうことに、翼は触れようと決めた。
「……いや、忘れてはいない。覚えているさ」
翼は立ち上がると、寝室のほうへ向かった。手に握ったのは、銀色の正方形をしたオルゴール。杏鈴の向かいへ戻り、オルゴールのネジを捻り切ると、静かにローテーブルの上に置いた。優しく切ないメロディが、二人の間を流れる。
「……司のことだろう。お前が聞きたいのは」
「うん……最初は、混乱したよ。でも、そう言うことだよね。他人への介入は、好きじゃないの。するべきことではないとも思ってる」
「……ああ、俺も、基本はそうだ」
「でも、気になるの。どうしてか。これも、因果のせいなのかな?」
少し眉を下げ、杏鈴は困ったように微笑んだ。
「……恐らく。このオルゴールは、死んだ父親からの唯一のもらいものだ」
翼は唐突に、さらりと事実を告げた。杏鈴の顔から締りのなさが消え失せた。
「……いつ……?」
「……高一の夏。皮肉にも、この
「死因は?」
「……不慮の事故だ。何せ、女癖が悪い最低な父親だったからな。天罰が下ったんだろう。ただ……」
「ただ?」
「……不慮ではないかもしれないんだがな」
「ただの事故ってこと?」
「……少し長くなるが、いいか?」
杏鈴はこくんと深く頷いた。
「……すまない。一本だけ」
ズボンの左側のポケットに手を入れ立ち上がろうとした翼を、杏鈴は口を閉じたまま首を横に振って阻んできた。
「いいよ。ここで。匂い、嫌いじゃないから」
「……珍しいやつだな。なら、そうさせてもらうぞ」
「うん……」
翼は真也からもらったタバコの箱を取り出した。貴重な二本のうちの一本を指に挟んで口に咥えると、ローテーブル上に放っていたライター取り火をつけた。ほろ苦い香りが広がっていく。煙を吐き出すと、オルゴールの演奏がちょうど終わった。思わず吐息の笑いが漏れた。幕開けの演出をしてくれるなんて洒落たやつだ。
煙をもうひと吹きしてから、翼は語り始めた。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
◇Link◇
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881417051
・EP1:◇8
・EP1:◇9
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