◇21.伝えたい気持ちとサファイアブルー


 青色のバイクがスピードを緩めて停止した。外したヘルメットをつばさに渡し、杏鈴あんずはタンデムシートから降りる。


「……四階の一番奥の部屋だ。車庫に入れてくるから先に入っていてくれ」

「おっけい。分かったよ」


 翼から鍵を受け取ると、小さくなっていく排気音を背中で聞きながら、杏鈴はアパートの階段を上がり始めた。


 先は長い。太腿に特有の何とも言えない負荷がかかってくる。日頃の運動不足も祟り、小さく息を切らしながら四階に到着した瞬間の解放感は大きかった。


 アパートは新しい様子ではないが、大家が定期的に手入れをしているのだろう。掃除は行き届いており、この時期であるのに蝉の死骸も転がっていない。


 廊下を一番奥まで進み、鍵穴に鍵を差して右に回した。


「お邪魔しまーす……」


 小さく頭を下げてから静かに玄関扉を閉める。脱いだ靴を揃え、そろりと新堂しんどう家に上がり込んだ。キッチンスペースを通り過ぎ扉を開くと、このアパートの外観からは想像していなかった広さのダイニングが覗いた。


 端的に、ひとり暮らしの男性の部屋と言う印象。シンプルなテレビとソファー。物も少なく整頓されている。鍵と腕にかけていたコンビニの袋をそっとローテーブルに置くと、中から酒類など冷やしておくべきものを取り出し、キッチンスペースのところにある冷蔵庫へと仕舞った。


 他人の家にきた時、どこに座ればよいものかと迷うものだ。落ち着かないのと多少の緊張とで、部屋の中をうろうろとしてしまう。


 ダイニングの隣の部屋の扉が少し開いている。そこに見えるのはベッドだ。ふいに興味を惹かれ、ひょいっとその扉を潜った。


 ベッドは立派なセミダブルサイズ。その他には衣装ダンスが並んでいるくらいで、ダイニング同様シンプルな部屋だな、と思ったその時、あるものが目に留まった。


「なに、かな……?」


 忍び足でベッドに近づく。ベッドラックに置いてある目覚まし時計の後ろに隠れているのは銀色の正方形をした謎の物体。サイズは杏鈴の片拳ほどだ。


 右から、左から、と何度か眺めたのち、それに手を伸ばした。勝手はいけないと分かっていたが、触れてみたいと思う衝動が収まらなかったのだ。


「ひゃっ!」


 触れた途端に短い音を鳴らしたそれに、小さく悲鳴を上げてしまった。だが、その音のおかげで物体の正体を暴くことが出来た。落とさぬようにそれを手に取り上下をひっくり返すと、本体と同じ色をした小ぶりなネジが現れた。


「オルゴール……」


 ほんの少しだけ、そのネジを捻る。心地のよい音色がゆっくりと溢れ出してきた。


「この、曲……」



 両目を瞑る。そして、閉じたままの口の中で、微かな音を奏でる――。



 玄関のほうから聞こえてきた足音にはっとする。オルゴールは賢く、音をピタリと止めてくれた。


 歌声を呑み込み、早急にオルゴールを元の場所へと置く。パタパタとダイニングのほうへ戻ると、さぞ何事もなかったかのような顔をして翼を迎えた。


「……何だ。自由に座っていてくれれば」

「あ、ごめん、ね。そうだよね」


 杏鈴の笑い声は乾いていたが、悟られずに済んだようだ。


「……と、言っても、何だかんだでこんな時間か。あと数分で始まるな」


 ソファに腰かけようとしていた翼は、ACアダプトクロックの時刻を見るや、座らずキッチンに入った。


「……さっき買った酒から飲むか、とっておきから飲むか、どっちがいい」

「とっておきがいいっ」

「……承知」


 冷蔵庫の扉を開く翼の背中を、わくわくしながら杏鈴は見守る。翼が手にしたのは、一本のワインボトル。その色味に、杏鈴は目を見開いた。


「わ! 青のボトルだ! 珍しいね!」

「……ボトルだけじゃなく、液体自体も青色なんだ」

「え!? そうなの!? 凄い!」


 翼は食器棚からワイングラスを二つ取り出した。どちらもピカピカに磨かれている。ダイニングに戻ってくると、青色のボトルとそれらをローテーブルに並べた。


「これ、どうしたの? どこのワイン?」

「……少し前に社員さんが休暇を取ってスペインへ旅行にいっていてな。土産にもらったんだ。日本での販売はまだしていないらしいから、貴重だぞ」


 再度キッチンへと戻ると、翼は小さな引き戸の中からワインオープナーを取り出してきた。コルクを覆っている透明フィルムをピリピリと剥がし始める。


「……しかも、このワインを開発したのは現地の醸造未経験の若者達らしい」

「未経験! へえ……」

「……このワインにはその若者達がつけたコンセプトがあるそうだ」

「コンセプト?」


 バイト柄、慣れているのだろう。翼の手によりあっと言う間にコルクは開いた。


 グラスには洗練されたサファイアブルーが静かに注がれていく。


「……“過去を破壊して未来を造る”。まるで、俺達のgameみたいだな」


 独り言のような翼の言葉は、青色の液体から目を逸らさずにいる杏鈴の耳にしっかり届いていた。聞こえてしまえばもうそれは、独り言ではなく二人言。


「……翼くん。ベランダ出よっか」

「……ああ、そうだな」


 翼が先に窓へと寄り鍵を回した。青色に染まった二つのグラスを持ち、杏鈴は立ち上がる。


 ベランダに出たと同時、空にはひとつ、大きな花火が打ち上がった。


「わ! ちょうどだ! やったっ」


 杏鈴はワイングラスをひとつ翼に手渡す。微笑み合ってから、軽くグラス同士をぶつけて乾杯の音を鳴らした。


「ん! 美味しい~! 飲みやすいね! 甘口かな」

「……そうみたいだな。しかし、本当に美味いな」


 柵に手をかけ、杏鈴は少し身を乗り出す。最高の見晴らしだ。海の上で咲き乱れる花火。空だけでなく水面までも、美しく彩っている。


「翼くんの言ってた通り、本物の特等席だね」

「……だろ」

「綺麗―っ!」


 次々に色とかたちを変えて上がる花火。小さなものが連続で上がったあとには、一段と大きなものが咲き上がる。ハートなど遊び心のあるかたちをしたもの、枝垂れるように地に向かって落ちていくもの。青色のワインを旨みはこの情景に深められる。口に流し込む回数は増えるばかりだ。


「あ! 仕掛け花火かな。下のほう!」

「……ん、おお、迫力あるな」


 杏鈴がふと翼のほうへ顔を向けると、すぐに視線が交わった。すると、ほんのわずかに困ったような顔をして、翼はワインをひと口煽って空のほうを向いてしまった。


 プログラムもクライマックスに近づいてきた。翼が左のポケットに手を突っ込んだ。携帯からバイブ音が鳴っている。画面を確認したが翼は応答せずに、再びそれを同じ場所へ押し込んだ。


「出なくて平気?」

「……ああ、つかさだから」

「司……あ! 弟くん!」

「……そう。大した用事もないくせに、よくかけてくるからな」

「そうなんだ。好かれてるねえお兄さんっ。お……?」


 しん、と静まり返っている空。杏鈴は首を傾げながら、ワイングラスの縁に口をつける。


「終わりかな」

「……いや、待て」


 翼が指差した先には、空を目指して昇っていく一筋の光。


 その筋は伸び続け、本日の最高位である場所に到達した。


「わぁ!」

「……おー」


 空いっぱいに広がった大きな花。翼と杏鈴は感嘆の声を上げた。


 スローモーションで空に溶け込んでいく最後の一輪の余韻は心に沁み渡る。


「終わっちゃったね……」

「……もう少し、見ていたかったな」

「本当にね。でもよかったー。生きてきた中で一番いい場所で見れたかも。翼くんのお陰、ありがとう」

「……それはよかった。まだ、飲むだろ」

「うん。もちろんっ」

「……一旦ビールに切り替えるか」

「それいいねっ、そうしよっ」


 室内に入り、空っぽになったワイングラスをローテーブルに置いた。


 翼が冷蔵庫から缶ビールを取り出そうとした途端、どうやら再び左のポケットが震えたらしい。


「……もしもし、どうした」


 振り向き杏鈴に目配せ、翼は携帯を左肩で挟みながら司の着信に応答した。杏鈴は翼の元に寄り、缶ビールを一本受け取る。読み取った合図は正解だったようで、翼は二度、頷いた。


「冷たー」


 小声で呟きながら、杏鈴は缶ビールを手に、もう一度ベランダへ出た。プルタブを開くと、プシュッ、と美味しそうな音が上がった。


 柵に背を預け翼のほうを向くと、電話をしながら器用に開栓していたようで、微笑みながら缶ビールを握った右手を上げてきた。杏鈴は口パクで「乾杯」と投げかけると、翼よりひと足先に、ひと口目を頂いた。


 その刹那、杏鈴の左手首から電子音が鳴った。立ち上がっているスクリーンに記されている“Call from”に続く名を見て思わず手首を背中に隠してしまった。電話をしている翼には、この音が邪魔な雑音として聞こえているだろう。


 早く止んで、そう思いながら、杏鈴は何度もビールを喉に流し込んだ。





 ◇◇◇





 大股気味で歩いていた仁子ひとこは、ガソリンスタンドの看板の前でピタリと止まった。暑さだけが理由ではなく熱を持ってしまっている憎たらしい頬を、両手で思い切りバチン、と叩く。予想よりじんじんと痛んだが、これで意は決せた。


「あ、どうも~っ。こんばんは」

「こ、こんばんは」


 一番に気がついてくれたのは店長だった。手招きしてくれるのに腰を低くしながら、仁子は近づいていく。


「今日は特別っすよ、お姉さん」

「特別?」

「あちら、どぞー」


 店長が示してくれた先。見つめてみるが、一体それが何であるのか分からない。


「あのー……」

「あ、あそこから裏のほうにどうぞ。ゆういるから。その辺だと人いっぱいで大変でしょ」


 その言葉でやっと、このガソリンスタンドの奥に秘密の観覧場があるのだと悟った仁子は、店長に深く頭を下げた。


「ありがとうございます」

「いーえ。でもさ、今日ここにきちゃってよかったの?」

「何がでしょうか」

「ん? あれ、彼氏? や、好きな人? いるんじゃなかったっけ?」

「えっ?」

「この前あいつ、そう言ってたから」

五十嵐いがらしくんが、ですか?」

「うん。ま、あいつ面倒見はいいほうだからさ。いつでも代理に使ってやって下さいませ」


 店長の言い回しから、仁子が今日ここにきたのはどうやら本命と何らか理由で一緒に花火を見ることが出来ないからだと認識されているようだ。


 冗談っぽく笑い飛ばす店長に、仁子は心の中で首を傾げながらも笑い返すと、足早に示されたほうへと進んだ。


 建物の隙間を抜けると、オレンジ色の制服を着たまま壁に背を凭れて優が胡座をかいていた。その横顔に、仁子の鼓動は早くなる。


「い、五十嵐くん」


 緊張しながら名を呼ぶと、優がこちらを向いた。その表情は、いつもの優だ。


「おう。おっせーぞ。もう花火、上がり始めた」

「本当に?」

「ほい。座れよ。つか、ここ狭くて申しわけねぇんだけどさ」


 優がオレンジ色のジャンパーを脱ぎ、コンクリートに敷いた部分を指してくれている。おずおずと仁子は足を綺麗に折り込み、その上に座った。


「わ……」


 思わず声が漏れた。空を彩っている満開の花火が、海面に映り込んでいる。何て贅沢で華やかな景色だろう。


「通信切ったあと思い出した。毎年スタッフの誰かしら、ここから見てんの。花火の日は早番が当たりってな」

「そうだったのね」


 しばし無言になり、その美しさに浸った。最後の花火が消え空気が静まったタイミングで、仁子は深く呼吸をし、切り出した。


「五十嵐くん。この前は、ごめんなさい」


 思っていたよりスッ、と口元から出てきてくれた言葉にほんの少しほっとしたが、無言のままじっと見つめてくる優に鼓動の速さは緩まない。


「別に、怒ってねーけど」


 仁子は両目を見開いた。優が浮かべた柔い笑みが、あの時の杏鈴に向けていたものと同じであるように思えたからだ。


「つか、普通に心配したわ。癇に触ったかもしんねーけど、どう考えてもあの日のお前はお前じゃなかった」

「そう、よね。本当にごめんなさい。あのあと冷静になって、とても反省したの。感情的になっていいことなんてあるわけないのに。あの瞬間の私は、自分のことしか考えられてなかったわ」

「まあ、お前の気持ち、分からなくもない部分もあったからよ。もう終わったことだし、あんま自分責め過ぎんなよ」

「まだ、謝れてないの。笹原ささはらさんに」

「杏鈴……こんなん言うのおかしいんだけどよ、あいつ、そんな気にしてねぇと思う」


 梨紗と同じ発言を優がするとは想定外だった。梨紗の連ねていた理由のいくつかを思い返しながらも、仁子は優に、あの日どうして杏鈴と一緒にいたのか、何を話していたのかを素直な気持ちで問いかけた。


 それに対する優の回答を仁子は真剣に聞き込んだ。杏鈴がS応援要請を避けていた理由とそれに付随する考えに触れ、心に溜まっていた仁子の様々な感情は、あるひとつの質問へと集約された。


「五十嵐くん」

「ん?」

「五十嵐くんはもし、明日自分の命が尽きると分かったら、何をする?」

「大分唐突だな、お前」


 そう言われても仁子は優へ眼差しを向けるのをやめない。優は空を見上げ、答えを模索し始めた。


 しばらくしても返ってこない優の声に、仁子は不安になったが、


「んー……わりぃ」


 空から視線を下ろし優が繋いだ言葉に、それは一気に吹き飛んだ。


「何つーか、まじで考えたことなかった。だから今すぐに答えが出てこねぇや。正直に、生きることしか考えてこなかったんだと思う。ただそれに精一杯だったつーか……な」

「これから先も?」


 優が言い終わらぬうちに、仁子は声を重ねていた。


「ああ、これから先も」

「これから先も、生きる?」

「……? あ、ああ」

「絶対?」

「どうしたんだよ。あー……ぜった」

「絶対よ!」


 気持ちが昂った仁子は、勢いのまま優の両肩に手を伸ばしていた。優はピクッと身体を揺らし、近づいた仁子の顔を真っ直ぐ捉える。


「私が、絶対に生きさせる!」

「え」

「私、本当は分かってたの。心のどこかで笹原さんの気持ち。あの子の“いきずらい”って言う気持ち、分かるの。だからこそムカツいたの。過去に逃げたくなったこと、私もあった。その時は未来なんて描けなくて、描きたくもなかった。でも、逃げなかったから今の自分がいると思ってる。だから、笹原さんにも逃げないで、自分と向き合って欲しい。その勇気を持って欲しくてでも、人間みんな、同じじゃないわよね。みんな同じように強くなれるわけじゃない。笹原さんが悩んでいるなら、苦しんでいるなら、支えてあげればいいのよね。護ってあげればいいのよね。仲間なんだから……」

折笠おりかさ……」

「私は、やっぱり護りたいさがみたい。だから、五十嵐くんのことも絶対に護ってみせる。と、言うか、護らせなさい!」


 仁子の心に残り続ける優の死がイメージされたあの文字の羅列。決して消えることはない。だが、気持ちを固め直すことが出来た今、文字の色は心無しか、少し薄まってくれた気がする。


「ほんと、無茶しすぎるのは禁止よ。五十嵐くん、突っ走っていくところがあるから、心配するのよ」

「お前、人のこと言えねぇかんな」


 言いたいことを言い尽くした仁子は、はにかんだような優の笑顔が妙に至近距離にあることに気づき、ようやく自身の両手が優の両肩を掴んでいると自覚した。


 途端に恥ずかしくなり、素早く両手を引っ込める。


「そ、そう言えば、店長さんからさっき聞いたんだけど、私に好きな人がいるみたいなこと言ったの?」


 九十度直角に方向転換した話題に、一瞬優は眉を寄せたが、該当する発言を思い出したようだ。


「あー、言った。わりぃ。店長がお前を紹介してって言ってきたのが面倒でよ」

「そうだったのね」

「でも、実際いんだろ?」

「え!?」

「先輩じゃねぇの?」


 仁子の心臓は別の緊張を含んで音を立てた。輝紀にあの日抱き締められたこと、そして今日の誘いを断ってしまったことが思い返される。しかし結果、ホントウに出来たのだ。あの時ついてしまった嘘は、今日を持って事実になった。それにまさか優にあらぬ誤解をされていたとは。仁子の感情の昂りは、輝紀に対する罪悪感を消したいがために再燃した。


「ど、どうして? 違うわよ!」

「そうなのか。でも、先輩お前のこと気に入ってそうじゃね?」

「そんなわけないじゃない。あんなパーフェクトな人が、私に興味持つはずないわよ」

「そうか? まあ、別にいいんだけどよ」

「よくないわよ!」

「何でだよ」


 優の何にも分かっていない様子に、伏せ込んだはずの杏鈴への嫉妬の感情さえも蘇ってくる。



「何でって、だって、私、五十嵐くんのことっ」



 仁子が感情のままに、想いを全て吐露しかけたその時だった。





 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


 ◇Link◇

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054881417051

 

 ・EP1:◇21



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