六章:二本ノたばこト花火
◇20.素直になりたい
夏の大のイベント、空に美しい花が咲く日はやってきた。
夕刻、アルバイトを終えた
ヘルメットを取り店の中を覗くと、雑誌コーナーから
「……すまない。待たせた。少々残業になってな」
「ううん。お疲れ様っ。まだ間に合うし、大丈夫だよ」
「……とりあえず、つまみやら買うか。あ、ひとつ、家にいい酒があるんだ」
「いいお酒? えーっ、何々?」
「……着いてからのお楽しみだな」
「楽しみーっ。早く買い物済まそーっ」
愉快そうに跳ねながら、杏鈴は店内を回り始めた。
「翼くん、わたしこれ好きなの。これ買いたいっ」
杏鈴が手にしたのはコンビニのプライベートブランドのサラダチキンだ。数種類ある中からハーブソルト味をチョイスするところがお洒落なカフェ店員らしい。
翼はカゴを手に取り優しく頷いた。
「……いいぞ。好きなの、どんどん入れていけ」
「お酒はどうしよっか。ビールは必須だよね」
「……そうだな」
「ほんとに今日晴れてよかったー!」
翼は理解していた。無闇やたらと明るい笑顔を振りまく様子。普段何を考えているのか分かりずらい魔性気質である杏鈴が、この似合わぬ妙な雰囲気を醸し出す時には大抵、背景にやっかいな旅人が噛んでいるのだ。
肩を左右に小刻みに揺らしながら、杏鈴は楽し気な様子で、レジ台へカゴを乗せた。
「翼くんっ。早く早くっ」
「……ああ」
振り向いた杏鈴の首元で揺れたハートのネックレストップが視界に入ると、翼の中にはもやもやとした気持ちと共に
財布を取り出そうと、ズボンの右側のポケットに荒く手を突っ込んだ瞬間、翼はある異物感にパチッと大きなまばたきをした。流し目にその物体を確認すると、何事もなかったかのように左側のポケットに手を突っ込み直していた。
◇◇◇
ひとりで佇むこの駅は、花火を待ち侘ぶ人々で賑わっている。そんな周囲の騒がしさも耳に入ってこないほど、仁子は集中して
先日
加えて杏鈴にも未だ謝罪出来ていない。謝罪したいと言う気持ちが本心であることには違いないのだが、海辺で優に接近していた杏鈴の姿思うと、心がズキズキと音を立ててしまう。結果、感情の昂ぶりをコントロール出来ずに、
震える指先で仁子はACのメニューを開き、Cの画面を立ち上げる。一番初めに出てくる優の顔写真にビクッ、と反応してしまう。その顔を見るだけで身体が火照る。この顔をさっさとワンタッチすればいいだけなのに。それを中々遂行出来ず、かれこれもうこの駅に到着してから一時間が経過しようとしていた。
このままでは誘えずに花火が打ち上げ終わってしまうかもしれない。そんな最中、仁子の心の中には別のわだかまりも浮かび上がってきた。あれから連絡の繋がらない
梨紗と戦闘を共にした夜、
仁子はあの日、咄嗟に口から出まかせを輝紀に言ってしまった。本当は今日、この日に先約なんてなかった。輝紀に誘われたことを嬉しく思わなかったと言うわけではない。けれど、どうしても優の顔がちらついてならなかった。
輝紀は頭の冴える人だ。それ故仁子の心に充満していた気まずさをあの瞬間、感じ取っていたのではないだろうか。誠也の連絡は受け、仁子の連絡は受けない。それは仁子に対し、輝紀がどことなく決まりの悪さを感じているからなのではなかろうか。
嘘をついたら天罰が下る。誠也と
右手には無意識に、強い拳が握られる。
「……てやるわよ……」
仁子の独り言は意外とボリュームがあったようだ。ちらほらと数人が振り返ってきたが、仁子は大学で自身のいく手を阻んできた翼のように、人目おかまいなしモードへと突入していた。
右の拳を握ったまま、仁子はACから立ち上がっている優の顔写真を、思いのままに殴りつけた。
「(おー、もしもし?)」
「本当にしてやるわよ!」
「(はあ?)」
数コールしたのち聞こえてきた優の声に対し仁子は叫んだ。吐息と笑いの混じった優の短い返答に、素直になれない仁子の心は変に引火させられた。
「あ、あんたね! バッカじゃないの!? 今日が何の日か分かってるの!?」
「(まじで何なんだよ。何の日?)」
「とぼけないでよ! 花火の日に決まってるじゃない!」
「(ああ! そういや今日だったな。浴衣着てるやつやたら歩いてんなーって思ってたら)」
「どうして誘ってくれないのよ!」
「(は? いきなり意味分かんねぇんだけど!)」
「普通誘うでしょ!」
「(いやいやいや、今日俺仕事なんだわ。何よりお前の普通が俺には普通じゃねぇんだけど)」
「今は私が定義よ! それより仕事何時までよ!」
「(もう少しで上がり。っつか、お前最近どうしたよ。くそぶっ飛んでんな。正直キャラ崩壊してんぞ。知性の塊みてぇな雰囲気どこにやったんだよ)」
「誰のせいだと思ってんのよ! てか、仕事ならスタンド内から一緒に見ればいいじゃない!」
「(お客様いるから無理だわ。他いい場所……近くっつてもきっと人ゴミやべぇしな)」
「いいわよ! 人だろうがゴミだろうが! いくわよ! 今から!」
「(あ、そう。別にきたかったらくればいいんじゃん)」
「いくわよ! いってあげるわよ! カップルだらけの中、ひとり寂しく花火に包まれなくてよくなったことに感謝してよね!」
存分に優へ叫びつけて通信を遮断したのち、正気に戻った仁子は頭を抱えた。こんな言いがかりをつけたかったわけじゃない。想定していた謝罪と言うワードからは限りなくほど遠い態度を晒してしまった。
さらに最悪なことに、並べた言葉達はどう思い返しても全て可愛気の三文字とは無縁だった。杏鈴なら、きっとこうはならないだろう。あの時のように柔らかい笑顔を浮かべながら、相手の胸をキュッ、と狭くさせる甘い果実のような言葉を余裕で駆使出来るに違いない。
劣等感に見舞われながらも、仁子の心には一筋の光が差し込む。優のあの感じ、梨紗の予測通り怒ってはいなさそうだ。普段の優らしいテンションだった。
いくと宣言をしたからにはここで引くわけにはいかない。くればいいんじゃん、と呆れ気味だったかもしれないが、許可も得られたのだ。
キッ、と前方の美しい夕空を見つめると、周囲からの痛々しい視線を一切気にせず、仁子は大股気味で一歩を踏み出した。
◇◇◇
都会の駅の地下道から地上へ続く階段を梨紗は上っていた。上りきると、深い紺色をした空が広がった。顔を上げて、じっと見つめる。ずっと深く奥まで、想い馳せるように。
意識がぼんやりとしてきたその時、後ろから階段を上がってきた女性とぶつかった。軽く頭を下げて謝罪する。意識は引き戻された。濁った街並みに視線を落としながら、梨紗はアスファルトの上を歩き始める。
ポケットで震え出したスマートフォン。慌てて梨紗はそれを手に取り画面を確認する。表示されている名前に、口を閉じたまま息を漏らした。
「うん。何?」
通話ボタンを押し気だるげに返答すると、男の声が耳を突いてくる。雑踏の中を先程のようにぶつからぬよう、人々を避けながら進んでいく。
「今日? うん。いーよ。O時? はーい」
いつもの約束をいつも通りに取りつけ、梨紗はスマートフォンをポケットに突っ込んだ。
“無”だ。その一言に尽きる。
「……あ」
歩む速度を落とす。ふと見上げた先に見えたのは、以前
目を細めてその場所を見つめる梨紗のポケットの中で、再度スマートフォンが震えた。
「もしもしっ」
着信相手を確認した梨紗は、パチッと一度深く瞬きしてから覇気のある声で応答した。かけてきたのは航だったのだ。
『あ、梨紗ちゃん。もしもーし!』
鈍めな航の声を聞くと、梨紗は歩道の脇へ寄り、ちょうどよい壁へと凭れかかった。
「おー。何だよ。どうした?」
『ねえ! 聞こえる!?』
「はい?」
電話口から航が離れたのを感じ、梨紗は首を傾ける。電話特有の雑音が聞こえるだけで、それ以外に感じられる音はない。
「なんも聞こえないけど」
『あれっ。うそぉ! じゃぁね……あ! ヒュ~、どぉーん! パラパラパラ……』
ぶっと音を上げて、梨紗は噴き出してしまった。
「ちょ、何だよそれ。酔ってんの? 笑うんだけど」
『ええっ! 分かんないのぉ!? あ、ほらまた! どんっ、どんっ……パラッ』
「え? クイズ?」
『梨紗ちゃんが分かってくれないからそうなってる!』
「へ?」
『今日、花火の日だよ』
その一言に、梨紗は瞳をはっと開いた。電話越しだが、航が穏やかで優しい笑みを浮かべているのが想像出来る。
『一緒に見れないなら、せめて音だけでも共有しようかなって思ってさぁ』
「今、ひとりで見てんの?」
『そうだよ? 梨紗ちゃんがきてくれなかったからねっ。実家の二階から見てるんだ』
「そっか……」
返答に迷った梨紗に、航の口まね花火は畳みかけてくる。滑稽なその声が、梨紗にはどうしてもおもしろおかしく感じられてならない。
『そんなに笑わなくてもいいじゃん!』
「だって……そんなことしてきたやつ、航が初めてだよ」
『今伝える方法これしかないんだもん。動画じゃライブ感が出ないしさぁ』
「なあ、色は? カラフル過ぎて表現きついか」
『色はね……黄色とピンク! 大きいの! あ! にこちゃんマークいっぱい! めっちゃ可愛い! ドンドンドンッ!』
航の花火解説は興奮気味に続けられる。梨紗は時折笑いを止め、微笑み、星すら見えない淀んだ空を切な気に見つめる。
『つ、次はねぇ……』
声を張り、熱を込めて実況しすぎたせいで航の声が掠れていることに梨紗は気がつくと、ふらりと片足を浮かせ、再び歩き始めた。
「航」
『ん?』
「超笑った。お前、いいやつすぎんじゃない? 怖いわ」
『なっ、それ、褒められてるのか、けなされてるのか分かんな……』
「ありがとっ」
『えっ』
「ちょっと、楽しかった。こっちの空にも、花火があるみたいに感じられた」
梨紗からまさか素直な感謝の言葉をもらえるとは、不意打ちだったのだろう。無言になった航は分かりやすい。
「照れてんだろ」
『ち、違うよ!』
「バーカ。バレバレなんだよ、いつもだけど」
航をおちょくりながら歩行者信号の青を確認し、梨紗は横断歩道の上を進んでいく。
「これから用事あるから、そろそろ切るな」
『用事って……お、男の人?』
気まずそうに、尚且つ不安そうに問うてくる航に、梨紗の喉はコクンと小さく音を立てた。だが、鈍感である航にその動揺は伝わらなかったようだ。
「ううん。ちげーよ。キックボクシング」
『そうなんだね! 楽しんでっ、て、あー!』
「どうしたよ」
『あ、いきなり叫んでごめん。今下にね、誠也くんと、
「へ~、まじか! よかったじゃん。これでぼっちじゃなくなるな」
『一言多いんですよっ。梨紗ちゃんは』
「はいはい。航も楽しめよ」
『うん! 梨紗ちゃんまたね。夜帰る時、気をつけてね!』
「うん、気をつける。じゃ、またな」
通話を切った途端に、梨紗は口角が下がったのを感じた。周囲の雑音が、やけにぼやけて聞こえる。
航にした返答は嘘じゃない。これからある用事は趣味の習いごと。本当だ。夜も、もちろん気をつける。気をつけて――嘘。嘘嘘。結局梨紗は嘘をついたのだ。気をつけてなんて帰らない。このあと深夜O時には、男と合流し、欲を満たすのだから。
どんな場合にも純粋な心を持ち、接してくる航。優しい表情と言葉に声。それを思うと、梨紗の心はキリキリと強い痛みに襲われた。
嘘をついたことへの罪悪感と共に、自身の中に芽生えつつある航に対するひとつの深い感情を梨紗は自覚していた。しかし、それは絶対的に認めたくない気持ちであり、認めてはならない気持ちだ。
辿り着いたビルの狭く薄暗い階段。それを上りかけた時、梨紗は脇に纏めて置いてあるゴミ袋の山に気がついた。
漂ってくる異臭。中身にナマモノが混在しているのだろう。腐ってる――梨紗はそれらに向かって吐き捨てた。
「きったねーの」
刺々しく、冷淡だった。
顔を伏せ、梨紗は階段を上がり始めた。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
◇Link◇
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881417051
・EP1:◇10
・EP1※:◇20
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