◇15.Uncontrollable -制御不能-


 ふわふわ風と戯れている薄水色のワンピースの裾に、緩く巻かれたアッシュベージュの髪の毛。ゆうに気がついた杏鈴あんずは、ペコンッ、と頭を下げてきた。優もつられて同じように下げ返す。


「びびったぜ。どうしたんだ急に」

つばさくんからここの場所聞いて、優くんと話したくて……迷惑かな?」

「いや、全然。しかも今ちょうど休憩になってよ。あ、ちょっと待ってろ。何か飲むだろ、何がいい?」

「あ、あのね……」


 後ろで組んでいた手を杏鈴は優のほうへと差し出した。見慣れたコンビニ袋の中から緑茶のペットボトルが二本覗いている。


「うわ、まじか。気ぃ遣わせたな」

「ううん……一緒に、飲もう?」


 やんわりと杏鈴が首を傾げたのに、優は微笑みながら頷いた。


 Memberメンバーと会話を交わすと言えばの名所となった海岸へと向かいながら、優はちらちらと杏鈴の表情を窺う。よく思えば、杏鈴と二人きり、いや、何よりきちんと会話を交わすのはほぼ初めてだと言っても嘘つきだと指摘をしてくる者はいないだろう。まだ解けてはいない引っかかり――そのせいもあるとは思うが、優は変に緊張してしまう。


「あ、砂つくからよ」


 浜へ到着すると、優は仁子ひとこに貸したように、自身のオレンジ色のジャンパーを杏鈴へ渡そうとしたが、ふるふると首を横に振る動作が返ってきた。


「大丈夫。このコンビニの袋敷くから。ありがとう」

「お、そうか」


 杏鈴が三角座りをすると、優もその隣に胡座をかいた。


 口を開かぬ二人の間で、優しい波の音だけがいききを繰り返す。


 ここはこちらから切り出すべきだろうと優は何度か口を開くことを試みたが、いつもの調子が整わない。同じ女と言う生き物であるはずなのに、どうも仁子と会話を交わすように上手くいかないのだ。


 ふいに杏鈴が視線を向けてきたのに、優はドキリとしてしまう。水量の多い瞳に吸い込まれてしまいそうだ、そう感じた瞬間、



 ズキンッ



 左目の疼き。ドクンと心臓は深く脈を打った。


「ごめんね。優くん」

「……んっ?」


 杏鈴の顔色を窺うような声に、左目の奥を気にしながらも、優は反応を示した。


「翼くんから聞いて、優くんは何も悪くないの。わたしがS応援要請取らないから……変に誤解させてしまって、ごめんなさい」

「や、俺こそ、勝手に思い込んじまって、ごめんな」


 苦し気な表情で杏鈴が首を振り否定する。一瞬だけ間を挟み、優は問いかけた。


「やっぱ、あれか? Adaptアダプト:適応の空間来ても、足引っ張るとか考えちまってる?」

「……うん。それも、ある。けど……違うかも」


 優から視線を外し、杏鈴は夕暮れの水面を見つめる。


「背きたいだけなんだ、わたし。目の前のことから」


 杏鈴はちらりと優のほうを見ると、困ったような笑みを浮かべた。


「軽蔑するでしょ、最低だよね」

「そんなことねぇけど」


 杏鈴が言い終わらぬうちに声を被せた優には、彼女のひとみの持つ潤みが増したように思えた。


「優くんは、幸せ?」


 黙ったまま、優は杏鈴のを見つめる。


「幸せ、じゃない?」

「そうだなあー……いきなり、何でそんなこと聞くんだ?」

「やり直したいって思ったこと、何度もあった。けど、どうしてもやり直せない現実って存在する。簡単にはなくなってくれない。消してしまいたい思い出ほど、消えていかない。いくら時間が経っても辛い記憶って色濃く残るの。楽しかった記憶なんてさらさらと流れてしまうのにね」


 杏鈴は足を崩すと、身体ごときちんと優のほうを向いた。


「もう、察してくれると思うけど、わたし、あんまり男の人が得意じゃないの。どんな人で、どんなかたちであっても、初めて触れられる時は、この前みたいにああなっちゃうことがかなり多いんだよね。本当にごめんね。怪我までして助けてくれたのに……」


 語り口から杏鈴が隠し抱えている闇の深さはひしひしと伝わった。本当は少しも他言したくないことであるに違いない。


「いや、知らなかったっつても、怖い思いさせちまったのは俺だからよ。謝んな」


 それをほんのわずかばかりでも打ち明けてくれた杏鈴に対し、優は気まずさを感じつつも、思い切って気にかかっていたことを口にした。


「その、新堂しんどうとかはさ、もしかしてだけど、平気だったりしたか?」

「あ……うん。実は少し不思議に思ってたんだ。翼くんは初めから、どうしてか全然嫌悪感もなくて平気だったの。翼くんがよく口にしてる過去の因果? が関係してるのかな」


 ゴクリ、と優は唾を呑む。因果と言う言葉を耳にした途端、再び左目の奥を刺すような痛みが襲ったのだ。


「わたしね、分からないんだ。何を目的に未来を描けばいいのか。未来を描くことに興味が持てないの。突然Crystalクリスタルに選ばれて、明るい未来はわたし達次第で決まるって言われて……そう言えば、仁子ちゃん、凄いんだよ?」

折笠おりかさ? 何で?」

「みんなを、たくさんの人を護らないといけないんだろうなって言う最低限の常識的な判断はつくの。でも、わたし自身は、正直に本当の意味では分からない。でも、仁子ちゃんはあの時、しんくんとの戦いの時、はっきりと護りたいって言葉にしてた。強くて真っ直ぐで、眩しい人だなってACアダプトクロック越しでも感じたんだ。仁子ちゃんが持ってる人間らしい感情の欠落してしまっている自分が醜くて堪らない。みんなの足を引っ張っている役立たずな自分の存在も、それはそれでうっとうしくて……なって、なっちゃった」


 杏鈴の“いきずらい”には背中合わせの二つの意味が込められていると優は悟ったAdaptのフィールドへと赴くことに気持ちが上手く向かない“行きずらい”と、日々彼女が感じている慢性的な“生きずらい”の二種。


 優はそんな彼女の気持ちを抱き込むように左手で砂を握ると、笑みを浮かべてそのを捉え直した。


「さっきの質問、答えにならねぇかもしんねぇけど、答えてもいいか?」


 口を一文字に結び、杏鈴は頷く。


「杏鈴の言ってること、分かるぜ」

「……え?」

「ほんと、何でなんだろうな。いいことって、嫌なことがあるとまじで消えちまうもんな。たっくいきずれぇ世の中だ」

「優くん……も……?」

「あるぜ。いや、あったのほうが正しいか……際どいとこだけどよ、つれぇことはあったよ」


 杏鈴からもらった緑茶のペットボトルのキャップを捻り、優は口内を潤す。


「忘れはしねぇかもしれねぇけどさ、意地でも乗り越えて進むしかなかったつーのはある。とてもじゃねぇけど笑えねぇよ? でも、無理矢理口角必死であげて、毎日笑うようにしてた。したらよ、段々落ち込んでんのもバカみてぇに思えてきて、不思議と気持ちも少しずつ軽くなった。でも、ひとりじゃ無理だったって思う。わたるはもちろんだけど、周囲のみんなが支えてくれて、助けてくれて、だから俺は今こうやって立っていられるって思ってんだ」


 杏鈴が眉尻を深く下げているのに、優は歯を見せ、にっと笑んだ。


「俺は、いい未来を創りてぇって思ってる。このありえねぇCrystalに巻き込まれてようがそうでなかろうがそう言う気持ち。俺、まだ出会ったばっかりだけどよ、Memberみんなのこと、仲間だと思ってんだ。杏鈴はそう簡単には思えないと思うけど、俺は全員で未来を築くチャンスを掴みたい。っつーか、選択の余地がねぇから掴むしかねぇんだけどさ。もう今はひとりだけ築ければいいやな未来じゃねぇ。だから……」


 杏鈴の頬が少し緩んだのが分かると、優も目尻をさらに柔らかく下げた。


「杏鈴にも、いい未来を過ごして欲しいって、悪いけど仲間が幸せにならないのは嫌だから願うぜ? 杏鈴がそう感じれるようになるまで、どれだけ時間を要しても構わねぇと思うから」

「……優くん……」

「今幸せって思えなくても、そのうち思えればいいんじゃねぇってことだ……っ!」

「……優くん……?」


 優は咄嗟に右手を左目に押し当てた。痛み、それは断続的になり視界が霞み始める。


「優くん!? 痛いの!? 大丈夫!?」


 杏鈴の両手に両肩を揺すられているのを感じる。優は痛みの一切ない右目までも強く瞑って、左目に走る痛みと格闘する。


 ぼんやりとした視界の中に突如映しだされた光景。


 木造りの小さな家屋。夜であろうか。薄暗い部屋には西洋風の小さなランプが置かれ、チリチリとオレンジの光を灯している。その灯火に照らされ見える純白のベッドの上に倒れ込んできた一組の男女は、この前見た杏鈴にそっくりな女性と、翼にそっくりな男性だ。幸せそうな笑みを浮かべ、男性の首に両腕を絡ませる女性。激しく口づけを交わし始め、男性が女性のワンピースの裾に手をかけた瞬間、光景は闇にどっぷり浸かった。そこから伸び上がってきたのは肌色の手。その手はあのおぞましい灰色に変化は遂げずにそのまま近づいてくる。



 ――助けてっ!



 救いを求める声と共に、痛みは消え去った。


「優くん! ねえ優くん! 聞こえない!?」


 この短時間に何度名を呼んでくれたのだろう。ようやく届いた杏鈴の声に安堵し、優は思わず自身の両肩に伸びたままの彼女の両腕をぐっと掴んだ。


「聞こえる……わりぃ……驚かせて」

「大丈夫? もう痛くない?」

「ああ、もう、大丈夫っ……!」


 混乱気味の頭の中、整理が追いつかない。両肩から滑らせるように両腕を引いていった杏鈴の顔がぐっと迫ってきたことに、優の混乱レベルは上昇する。至近距離の薄い桜色をした彼女の唇は、見てしまったあの光景をリアルに連想させてくる。


「赤くはなってないね。なってたのかもしれないけど、引いてくれたのかな」

「なあ、さっきの、因果のことだけど、まじでそれさ……」

「……今、何か、見えてたの?」


 顔を遠ざけずに問いかけてくる杏鈴に伝えるべきか否か、優が判断を選定し始めたその時だった。感じた気配に優はバッ、と海と反対のほうを向く。




 それはブルーの蝶――ではない。




「おり、かさ……?」


 胸の前で腕を組み、冷ややかな顔をしている仁子の姿があったのだ。


「何だよ、くるなら連絡くれりゃあ」

「何なのよあんた!」


 声を聞き、理解した。その表情の裏側にメラリと燃える怒りの炎が上がっていることを。


 砂をずかずかと蹴り上げながら仁子は近づいてくる。


「は? 何って、意味分かんねー……」


 そして、理解した。その怒りの矛先は、彼女が勢いのままに突き飛ばした杏鈴に向けられているのだと言うことを。


 ふいの攻撃だ。押されたままに砂の上へと倒れてしまった杏鈴の右半身には、びっちりと砂が付着している。


「折笠お前何してんだよ!」

「あんたは黙ってて!」


 物凄い剣幕だ。優に一喝し、仁子は杏鈴の胸倉を掴み上げた。


「散々Sには応答しないで、取れるくせに取らないで、私達があんたの分まで必死で戦ってる時に、こんなところで呑気に色仕かけして性欲満たし? 最低ね」

「お前暴言だぞ!」

「本当のことでしょ!? 今見たんだから! キスしようとしてたじゃない!」

「仁子ちゃん違うよ! それは誤解だよ! 優くん目が痛くてそれでっ」


 仁子は杏鈴を再び砂浜へと押し倒した。優は立ち上がって背後から仁子を羽交い締める。


「お前どうしたんだよ! 落ちつけ! どうかしてるぞ!」

「どうかしてるのはあんた達じゃない!」


 逃れようともがきながら、仁子は目の前に倒れている杏鈴を見下し、収まらぬ怒りを叫び続ける。


「一体何考えてんのよ! 自分だけ能力が低いからって悲劇のヒロインぶって可哀想って、構って欲しいだけじゃない! こんな風にだらだらしてんだったら役に立たなくてもフィールドに出てきなさいよ! ひとりだけ背くなんて卑怯なのよ! 迷惑なのよ!」

「うっ!」


 優は呻いた。無念にもみぞおちに仁子の右肘から強烈な一突きを喰らってしまったのだ。


「気に食わない……気に食う人なんているわけないのよ!」


 緩んだ優の腕から逃れた仁子はしゃがむと、容赦なく杏鈴の胸倉を再度掴み上げた。杏鈴の瞳孔は怯えではない何かに震えながらも、じっと仁子を見つめている。


「あんたなんて、逃げてるだけじゃない! この逃げ魔!」


 響いた肌の弾ける音。杏鈴の左頬を思い切り、何の躊躇もなく仁子は右手のひらで叩いた。懇親の最後の一撃だ。歪んだ杏鈴の表情に見向きもせず、仁子は立ち上がりスタスタと去っていく。


 さすがの優も呆気に取られた。まるで嵐、これこそ嵐だ。荒らしたいだけ荒らし、気が済むまで暴れて去る、台風の目であるかのようだ。


「ゆ……くん」

「杏鈴っ」

「いって」

「へ?」

「追って、早く。仁子ちゃんのこと追い駆けて!」


 容体を確認しようと伸ばした優の手は取られるものだと思いきや、杏鈴にパシンッ、と叩かれた。それだけでなく、彼女は自身を放置し台風の目を追いかけろとまで言っている。耳がこの瞬間を持って冗談しか聞こえぬようになってしまったのかと、優は軽く錯乱する。


「早く! 早くしないと電車乗っちゃうよ!」


 冗談ではない。杏鈴は間違いなくあの殺気立った仁子を優先し、追えと言っている。それも必死に急かしているのだ。


「や、追えって……」

「仁子ちゃんは何も間違ってないから」

「え?」

「仁子ちゃんは正しい。正しくて、心が綺麗なだけだから」

「おい杏鈴、まじに混乱してるか? お前叩かれてひでぇこと言われたんだぞ。何でそんな」

「慣れてるんだ」


 放たれたのは、短い言葉。


「こう言うの、慣れっ子なの。だからわたしは平気。本当にいって、早く!」


 戸惑う優を察し、頬の痛みを堪えつつも背中を押すように笑みを浮かべた杏鈴。追いつかない考えを処理することも出来ずに、優は彼女を振り返りながらも浜辺をあとにし走り出した。


 駆け足をしていったのだろうか。仁子の姿は目の先には見当たらない。運よく青に変わった横断歩道を渡り、その姿を捉えるために、優は走り続ける。


 駅が見えてくると、ポニーテールの後ろ姿も一緒に視界に入り込んできてくれた。


「おい! 折笠!」


 息を切らしながら名を呼び、優が仁子の左腕を掴むと、彼女は振り返らずに止まった。


「お前っ、走んの早すぎんだろっ。っつか、何しにきたんだよ。俺に用があったんだろ?」

「別に、ないわよ」

「は? じゃあ何できたんだよ」

「何? 用がなかったら私なんかは来るなって言うの!?」


 優の手を払い、振り返った仁子。その両目には感情の高ぶり。薄っすらと滲んだ涙により充血気味になっている。


「そんなこと一言も言ってねぇだろ! まじで今日お前おかしいぞ! らしくねぇよ」

「らしいって何? 五十嵐いがらしくんに何が分かるって言うのよ! 私の考えてることなんか何にも分からないくせに分かったような口聞かないでよ!」

「ああ、分っかんねぇよ! いきなりこんなキレられて分かるわけねぇだろ! 分かんねぇけどそんな顔されたら心配すんだろうが!」

「心配なんてしてないじゃない!」

「ふざけんな! じゃなきゃ今ここまで追ってこねぇよ!」

「あの子に対する態度と全然違うもの! どうせ私はあの子みたいに可愛くないわよ!」

「……はあっ? お前何言ってん……」

「私も自分が何でこんな気持ちになってるのかっ、分からないのよ! バカ!」

「折笠!」

「もうついてこないで!」


 戸惑いながらも分かっていた。今の仁子をひとりにしてはいけないと。落ち着かせてやり、今どういう心情であるのか彼女の口からきちんと聞きたいと思っていた。なのに、どうしてこうもいがみ合ってしまうのだろうか。


 改札を通り抜け小さくなっていく仁子の背中。複雑な思いを抱いて棒立ちになったまま、優は見えなくなるまでその姿を目で追い続けていた。


 我に返って気がついたのは、周囲からの痛い視線だ。大声を張り駅前広場で揉め合ってしまったのだから当然だ。羞恥に襲われ視線を落とした優は、自身のACの時計針を見た途端に青ざめた。


「やっ……べー……」


 紛れもなく休憩時間を超過している。走り込みすぎて痛みだした左の脇腹に手を当てながら、優はきた道を全力で戻り始めた。途中、杏鈴とすれ違いはしないかと探したが、その姿を拝むことは出来なかった。


 翼の言っていた助けを求める手の見えるタイミング。それがたった今さっき、杏鈴を見つめるかたちで見えてしまったこと――優は心に生まれたモヤモヤに気持ち悪さを覚えながら、ガソリンスタンド内へと駆け込んでいった。



 ◇



 優の心配をよそに、杏鈴は海沿いを走る車両の短い電車へと乗り込み、無事に帰路を辿り出していた。折角席が空いていると言うのに、身体が砂まみれになっているせいで座ることが出来ない。


 

 だが、どうしてか、普段の何倍も気持ちは軽い。



 車両の扉に身を寄せ、海を眺めて杏鈴は微笑みを浮かべていた。



 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


 ◇Link◇

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054881417051

 

 ・EP1:※◇25

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