どこでもないここで(8/8)
長く付き合っている友人?
一拍置いてから、「います」と告げて視線を外した。
正面の壁に液体を放った感じのシミがあり、ロールなんとかっていう心理テストの絵みたいに、わたしのテーブルと向き合っている。
「どういうお友達ですか?」
「『どういう』って……性格ですか?」
語気を少し強めて、質問の意味を問い返した。
「いや、あなたといつからどう関わっているか、です」
カンバラ麗は頬の傷痕を指の腹でなぞりながら、もう一方の手でコーヒーカップを傾けた。
「高校のときに出会って、前は一緒にスポーツを……ボディボードをしてましたけど、いまはたまにお酒を飲む程度の付き合いです」
「その方にあなたは悩みを打ち明けますか?」
「はい、昔は。でも、最近は価値観が違うので……」
そこまで言い、言葉を呑み込んだ。牧枝典子ではなく、いつの間にか、佐々木寛子が口走っていた。
「なるほど。私の占いはご存じのように西洋占星術をベースにしていますが、『カンバラ式』という独自のメソッドで皆さんを鑑定しています。サイトの特設ページにログインしていただければ分かりますが、鑑定前には、いま牧枝さんがお答えになったようなことをフォームに記入してもらっています」
饒舌な説明をいったん区切り、カンバラ麗は右手でウェイターを呼んで、わたしのグラスに水を足すことを要求した。
「もうひとつ質問します。よく見る夢はありますか?」
もはや、人格の境界を曖昧にしたわたしは、ソゲさんの話を披露する。グレープフルーツサイズの頭のこと、会話したことがないこと、幼いときに実際に見かけた記憶があること。
カンバラ麗は目を閉じ、「分かります。分かります」と呟きながら、耳を傾けた。そして、ひととおり聞き終えたところで「あなたの心理状態がよく表れた夢ですね」と言った。
「私はまだ、あなたの……牧枝典子さんの重大な悩みを知りませんが、未来を見せていただく前に一般的な話をします」
これまでよりも声のトーンを上げ、哀しみや喜びや怒りといった人間的な感情を封鎖した目でわたしを覗き込んだ。
「あなたは、ここではないどこかに自分の行くべき場所があると思っている。多くの人がそうです。理想と現実のギャップにとまどい、終わりのない自分探しを続けている。しかし、牧枝典子さんが天の使命で生かされているのは、『どこでもないここ』であり、悩みを解決するためには、そのどこでもないここで、私と一緒に未来を見つめることです」
カフェを出て、カンバラ麗と普通に別れた。
雨は止み、夕方の帰宅ラッシュと終電の合間のため、駅に続く表通りも地下通路も人混みを遠ざけていた。
結局、「重大な悩み」については「いまは話せる状況ではない」とはぐらかし、占い師はカウンセリングを押しつけることなく、「ご連絡をお待ちします」と席を立った。
対決を覚悟していたわたしは、ちょっとした脱力感で、アシスタントへのデータ横流しの件を問い正すか、素性を明かして、恋愛運でも見てもらえば良かったと後悔する。
Suicaを自動改札機にあてて駅を出ると、北から強い風が吹きつけた。
過ぎた時間を思い出という単位が測るなら、これから刻まれる目盛りを知りたい。そして、横断歩道のこっち側が過去で、向こう側が未来なら、少しの間、信号待ちするのも悪くないと思った。カンバラ麗の言う、どこでもないここで。
昨日と同じ歩幅で、いつもの道を歩く。
普段は気にかけない無人の電話ボックスが目に留まり、突然、誰かと話したい気持ちが込み上げ、アルバムを開くみたいにノリコの日焼け顔が浮かんだ。ビーチで波待ちする懐かしい顔。平井さんでもなく、マユミさんでもなく、長谷川さんでもなく、なぜか、ノリコの……ノンの顔だった。
「あなたの運勢を占い師に見てもらったわよ」
電話でいきなりそう言ったら、何て反応するだろう。
喪服姿の中年男性が発車間際のバスに駆け込み、進行方向のずっと先で軽トラックのテールランプが暗闇に融けていく。
マンションのエントランスの床は、誰かの傘が落とした滴を親指の爪ほどの大きさで貼り付けていた。ポツンと、ひとつだけ。
そうして、鍵を開けたわたしの部屋に外の冷気が潜り込み、ふと、ボディボード用のウェットスーツをノリコに内緒で処分したことを思い出した。ここに越してくる前に、ためらいなく。
バイト代を必死に貯め、池袋のスポーツショップで一緒に買った、お揃いのもの。背中のジッパーをお互いの手で上げ下げし合ったウェットスーツだった。
とっくに海に行かなくなったわたしたちにはもうどうでもいいことだろうけど、ノリコに言わずに失くしたことが、わたしには、居酒屋で罵るよりも、占い師に名前を騙るよりも酷い行為に思え、取り返しのつかない嘘をついた気がした。
おわり
■単作短篇「どこでもないここで」by T.KOTAK
短篇小説「どこでもないここで」 トオルKOTAK @KOTAK
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