どこでもないここで(7/8)

入口に近い席・肩までの髪・濃紺のバッグ――待ち合わせのために、カンバラ麗に3つの情報を伝えていて、彼女よりも先に店にいるつもりだったのに先手を打たれてしまった。

「あちら、左手の奥です」

ウェイターに促され、パンプスの親指に力を入れてフロアを進む。

ここからのわたしは佐々木寛子ではなく、牧枝典子だ。そのことを心にしっかり留める。

指定された予約席は奥まったところにあり、複数の観葉植物が他のテーブルから隔離した空間を作っていた。

男が座っている。

場所を間違えたと思い、引き返そうとすると、その者がにわかに立ち上がり、「牧枝さん」と言った。そして、状況が呑み込めず、固まったわたしを、「カンバラです。こちらにお掛けください」と、地の底から這い出た感じのざらついた声が呼び寄せた。自分のオフィスでもてなすみたいな笑みを浮かべながら。

わたしよりも低い身長。黒のタートルネックにラズベリー色のジャケットを重ね、長く伸ばした髪を後ろでひとつに結んでいる。カンフー映画に出てくる中国人みたいなルックスで、きっと、平井さんと同世代だろう。怪しい容姿に加え、右の頬に人差し指ほどの長い傷痕があった。

「……カンバラ……麗さん、ですか?」

半信半疑のまま、わたしは訊いた。

「はい。カンバラです」

「女の人だと思ってましたが」

「あぁ、サイトのアレですか?……あれはね、ただのアイコンですよ」

カンバラ麗を名乗る初老の男は、さも当然とばかりに顔の右半分で笑い、トカゲみたいな目でこちらを凝視した。

ドクリと脈打つ胸の内を抑え、わたしはコートを脱ぐ間も視線を外さず、椅子に浅く腰かけてから言葉を継ぐ。

「アイコン、ですか?」

「ええ、こんな顔を表に出してもしょうがないでしょう。あの女性はね、言うなれば私の分身です。そもそもカンバラ麗の性別はプロフィールにも書いていないはずですが……」

ポケットから取り出した名刺をテーブルに置いて、男は続けた。

赤いベストのウェイターが手短にオーダーを受け、マニュアルどおりの言葉を残して視界を出ていく。

名刺の真ん中にはたしかに[カンバラ麗]とあり、目立つ大きさでサイトのアドレスも明示されている。その身分証明の色はエメラルドグリーンか何かだろうけど、明るさを抑えた照明との相性が悪く、灰色に近い中途半端なものに替わっていた。

薄暗がりのテーブルは、カフェというより、ショットバーの片隅みたいな雰囲気だ。

こちらも名刺を渡すべきだろうけど、そういうわけにいかない。ノリコを証明するものは何もない。

「あなたは、牧枝典子さんに間違いありませんね?」

わたしの内面を見透かすように、やや前かがみの姿勢で、カンバラ麗は尋ねた。

自白を強要する訊き方に息が止まりそうになったけど、「はい」と強く頷き、わたしが知っているノリコのすべてのことを考える。そうすることで、[牧枝典子]に近づけるはずだし、自己暗示をかけられる。嘘も百回つけば、真実になる。

自分の正体はさておき、目の前の小柄な男と占い師であるカンバラ麗のイメージがかけ離れているので、わたしは先方の出方をおとなしく窺った。会話をするだけで鑑定料を請求してくるかもしれない。

隙を見せずにいると、カンバラ麗はこちらの考えを再び読み取った顔つきで、「今日は、お金はいただきませんよ」と囁いた。

「メールで書かれた『重大な悩み』というものを牧枝さんにお話しいただき、わたしがお力になれるようでしたら、改めてお会いし、次のカウンセリングに進みましょう」

なるほど、よく練られたシナリオだ。[カウンセリング]とは都合の良い言葉を使うものだと思いながら、「当たる・凄い・ホンモノ」といったネットユーザーの声を思い出し、しばらくは相手の掌に乗ってみることにした。当然、[佐々木寛子]ではなく[牧枝典子]として。

「牧枝さん、ご結婚は?」

「……夫とは二年前に別れました」

ストレートな問いかけに面食らいつつ、迷わず答えた。聞こえ入(い)った自分の言葉に心臓が拍動を速め、耳たぶがじんわり熱くなる。

「お仕事をされているようですね」と、わたしのスーツを一瞥し、「ご両親は健在ですか? 牧枝さんのお住まいは東京ですか?」と続けた。

話し方こそ丁寧だけど、なにしろ、すり鉢で潰した声が耐え難く、世の中にふたつとない響きに聞こえる。「メディアに出ない」と書かれていた理由が分かる気がした。

「長く付き合ってらっしゃる友人はいますか?」

立て続けの質問とともに、カンバラ麗は運ばれてきたコーヒーをないがしろにして、温度のない瞳でわたしを深く見つめた。



(8/8へ続く)

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