恋に恋するメガネスキー

かめかめ

第1話

 ふみの初恋はメガネ屋さんのお兄さんだった。

 両親共に非常に目が悪く近視の乱視で、ふみは生まれた時から両親がメガネをはずしたところを数えるほどしか見たことがない。それが遺伝したのか、ふみも乱視と診断されて、小学校三年生の時にメガネを作ることになったのだ。

 ふみはお父さんがかけているようなノンフレームメガネを選ぼうと思っていたのだが、子供用のメガネは赤とかピンクとか、かろうじて黒のフレームのものがあるくらいで、がっくりと肩を落とした。

「どんなメガネが好き?」

 ふみが振り返るとお店の人が屈んでふみの目線に合わせてくれていた。色白で髪がさらさらで銀縁メガネをかけていた。メガネがとても似合っていて、すごく素敵だとふみは目をそらせなくなった。

「銀色のメガネ……」

 ふみが小さい声で言うと、お兄さんは困ったように眉根を寄せて、そっと微笑んだ。

「銀色のメガネかあ。それは残念だけど、大人用しかないね。ね、いっしょに選ぼうか。お嬢さんに似合うメガネを探してあげるよ」

 お兄さんの優しい声に、ふみはどきどきしてうなずいた。『お嬢さん』なんて呼ばれたことがなかったし、お兄さんは何だかいい匂いがしたから。

「これはどうかな? 似合うかな」

 そう言ってお兄さんが選んだのは赤いフレームのメガネ。白い指で丁寧にメガネのフレームを持ち上げ、ふみの耳にかけてくれた。

 その時、お兄さんの指先がふみのほほに触れた。ひんやりとしたその指先が遠のくと共に、寂しさがこみ上げた。けれど恥ずかしくて目を上げられない。頬が赤く見えるのは赤いフレームのせいなのだと、そう思って欲しい。

 それがふみの幼い恋の始まりだった。

 ふみの視力は、ボールが坂道を転げ落ちるように悪くなっていった。「早く寝なさい」と叱られても読書がやめられなくて、布団の中に電気スタンドを持ち込んで読みふけった結果だ。視力が悪くなるとメガネの度はもちろん合わなくなる。ふみは毎年一本、メガネを買い代えていた。そのたびにお兄さんに会えるのがたのしみであることは、誰にも秘密だった。

 初めての失恋は高校二年生。毎年恒例のメガネ購入日だった。お兄さんの左手薬指に、銀色の指輪を見つけたのだ。その日メガネをかけてくれたお兄さんの指を、いつもより冷たいと感じたのは、銀色の指輪が彼の熱を吸い取ったからだとふみは思った。彼の体温はすべて奥さんのものなんだなあ、と思うと、悲しいよりも、幸せになってほしい気持ちのほうが強くて、ふみは自分が少し大人になって少し寂しくなったことに気づいた。


 それ以来、現実の男性の熱量が怖くて、ふみの恋は二次元化した。漫画、ゲーム、アニメ、小説、それらに没頭しては、メガネのキャラクターに恋をした。

 特にゲームの世界には一つの作品に一人、必ずと言っていいほどメガネをかけたキャラクターがでてくるので、恋の対象はあふれるほどいた。

 中でも、ふみが夢中になったメガネキャラは『白鳥学園物語』と言う学園物のゲームに出てくる『尼崎先輩』だ。先輩は(ふみはそのキャラを先輩と呼んでいる)、眉目秀麗文武両道で、当り前ながら女子にもてる。しかし先輩の良さは何より紳士な立ち居振る舞いとその優しい性格だと、ふみはこぶしを握りしめて力説する。

 力説すると言っても、相手はインターネットを介したパソコン画面の向こう側、遥か遠くの顔も知らない友達で、残念ながら、ふみのこぶしを見てもらうことはできない。けれど尼崎先輩の魅力は充分に理解してくれたし、ふみがメガネ愛好家である事にも理解を示してくれるのだった。

 ネット上にはメガネスキーが多数生息している。『メガネ好き』をもじって『メガネスキー』と呼ばれる人々は、男子も女子も老いも若きも探せば結構いるものだ。ふみもその中の一人で、熱狂的なスキーヤーであると自負する。メガネスキーサークルにも入っている。

 『白鳥学園メガネ倶楽部』と言う名のそのサークルは、SNSで集った十六人の男女混合グループだ。

 その倶楽部の面々でメガネ工場へ見学に行こうという話になった。部長の豆兎が計画して、皆すぐに飛びついた。ふみももちろん乗り気だ。目指すは福井県鯖江市。全国のメガネ生産量のうちの90%を担うメガネスキーの聖地。こんなにワクワクするお出かけは産まれて初めてだった。


 当日、集合場所に集えたのは四人だけ。女子二名、男子二名だった。『白鳥学園メガネ倶楽部』の部員は全国に点在しているため、近県のメンバーだけしか集まれなかったのだ。全員が当然のようにメガネをかけている。

「みなさん、はじめまして。部長の、ハンドルネーム・豆兎です。今日はメガネが産まれる瞬間を拝見して、萌えまくりましょう」

 挨拶する部長を、ふみは呆然と見ていた。ゲームの尼崎先輩そっくりなのだ。サラサラの髪も銀縁メガネも顔や服装も何もかも。

「部長、それ、尼崎コス?」

「そうです。やっぱり聖地巡礼にはコスプレがふさわしいかな、と思いまして」

 他の三人がわいわいと話している後ろで、ふみは一人、動けずにいた。三次元に尼崎先輩が佇んでいる。ゲームの中でしか出会えないと思っていたのに。ああ、現実の先輩は銀縁メガネがなんと似合うことか!

「じゃあ皆さん、工場へ向かいましょうか」

 みんなは部長を先頭に歩きだした。部長の後ろ姿はどことなく尼崎先輩に似ているような気がして、その背中を追いながら、ふみの足はふわふわと空にのぼって行きそうだった。

「ふみさんは、工場見学は初めて?」

 突然、部長が振り返り笑顔でふみにたずねた。部長の背中を見つめていたふみは、見つめていたその視線を気取られなかったかと、きょどきょどと目をそらしながら答えた。

「あの、初めてです……」

「そう、じゃあ、楽しみだね」

「はい、そうですね……。あは」

 あは、あは、と無意味に笑いながら部長をまっすぐ見ることができずにうつむいた。顔が日焼けした時のように熱い。きっと耳まで真っ赤になっている。できればこのままフェードアウトして帰ってしまいたい。その思いと裏腹に、部長の横に走って行って手をつないで歩きたいという衝動が湧いて来て、ふみの顔はますます熱くなった。しかし部長の隣にはハンドルネーム・モジョという女子がぴったりと張り付いていて、ふみの入る隙はない。後ろには男子一名がついて来ていて、こっそり駅へ戻ることもできない。そのことが嬉しいのか悲しいのか分からぬまま、ふみは進み続けた。


「メガネはほとんど手作業で作られます。工程は二百五十ほどあるんですよ」

 工場長に連れられて工場内を見学する。プラスチックフレームの原料が機械に投入されたり、アーム部分の曲がりを調整したりとメガネスキーにはたまらない作業が次々と展開されていく。部長とモジョは興奮した様子でそれを見ているが、ふみは工場見学どころではなかった。部長の動きの全てから目が離せない。

(尼崎先輩が笑ってる、尼崎先輩が腕を組んでる、尼崎先輩が、先輩が、先輩が、先輩が!)

「おい、あんた。真面目に見学しろよ」

 突然、横合いから声をかけられ、ふみはびくっと身をすくめた。

「ぼーっとしてないでさ。せっかくの聖地巡礼だろ?」

 話しかけてきたのはハンドルネーム・ネオという男子大学生だった。

「あんた部長の背中ばっかり見てるけど、あいつモジョと付き合ってるんだぜ」

「えっ!」

 ふみの足がぴたりと止まる。

「やっぱり知らなかったか。あんたが倶楽部に入ったの、最近だもんな」

 ネオの言葉が耳の中をすり抜けていく。ショックの大きさに体がついてこない。ネオがなんと言っているのかわからなかった。

「だけどさあ、付き合うにしたってモジョはないと思うんだよな。黒ぶちメガネだし」

 相変わらずネオは一人で話し続けている。部長とモジョはずいぶん先に歩いていき、扉を抜けて次の部屋に行ってしまった。

「置いていかれたな。ほら、早く行こうぜ」

 ネオに腕を掴まれ引っ張られる。ふみはただ、ついていく事しかできない。

「ほら、あそこ、銀縁メガネのフレーム作ってるぜ。あんた好きだろ」

 ネオの指差す先には、なるほど銀色のフレームを曲げている職人がいる。

「どうして私の好きなフレームを知っているんですか?」

「プロフィールに書いてただろう? 『銀縁男子萌えです!』って。俺も銀縁だから嬉しくてさ。結構、女子受け悪いんだよ、銀縁」

 指差してみせるネオの鼻の上には、確かに銀縁のフレームが乗っかっている。部長しか見ていなかったので全然気付いていなかった。しかもそのメガネのレンズは、ふみの好きな横長タイプで、さらに耳にかかるアーム部分は大好きな丸型だった。

「俺は赤いフレームの女子が好きなんだよな。ほら、ああいうの」

 指差す先にはふみがかけているメガネとそっくりなメガネフレームに、レンズが取り付けられているところだった。

「私のメガネと似てますね」

「うん。だから集合場所であんたを見た時から目が離せなくてさ。あんたが部長を見ていたのとおんなじだな」

 にっこりと笑いかけられて、ふみも自然と笑顔がうかんだ。

「お、元気出た? じゃ、部長達のとこ行こうか」

 そう言って、ネオはふみの先に立って歩いていく。その背中は誰にも似ていない。すっと背筋が伸びて、肩幅が広い、堂々とした背中だ。私の背中はどんな背中だろうか。ネオはどう思って私の背中を見ていたんだろう。

「おい、早く来いよ」

 呼ばれてふみは慌てて歩き出す。ネオの所まであと二メートル、どうしよう笑おうか。ネオまであと一メートル、どうしよう顔が熱い。ネオまであと一歩、どうしよう、何を話そう。ネオの隣に並んだ。

「あの!」

「ん?」

 ふみを見るネオの笑顔がまぶしい。ふみの顔はメガネのフレームよりも真っ赤になった。

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