2:決意と覚悟

「……そう。正一に見られてしまったのね」

 買い物から帰ってきた母は、正一の問いかけに嘆息をつきながら答えた。

「父さんは、交通事故で死んだんじゃないの」

「そうね、そういうことにされているわ」

 含みを持たせる母。

「されているって……交通事故じゃないみたいな言い方をするね」

「そうよ、交通事故じゃないわ。私の夫であり、あなたの父である黒谷正之――荒井正之は殺されたの」

「殺された……?」

「今はまだあくまでも仮説の段階だけど。だけど私はそうだと確信している」

 テーブルに置いた手を固く結び、かたかたと震わせている。

「でも、殺されたって誰に?」

「それは今調査中。まあ大方の目星はついているけれどね。まあ正一は、気にせず自分のやるべきことをやりなさい」

「そんなこと言われても……」

 弱々しい返事を繰り返す正一に、母は優しく諭す。

「あなたは父に憧れて、警察官を目指した。だけど父の本当の姿は違ったことで、揺れているのでしょう。何が正義か。あなたが目指すべき正義が何なのか。それはあなた自身が決めることよ。あの人は世間から見れば、所謂悪人、と呼べる人よ。人の弱みを調べあげ、そこから強請る。だけど、あの人にはあの人の正義を追い求めていた。あの人の正義がそこにあった。貫くべき正義がね。あなたもそんな正義を追い求めなさい。人によって正義は変わるわ。それこそ宗教や思想と同じ。信じるものが正義になるの。それは誰にも責められないし、責められるべきではないと私は思う」

 正一は何も答えられなかった。何を発すればいいのかわからなかったからだ。

 だが、父の本当の姿を目の当たりにしても、正一は動揺こそしたが、決して父への憧れが無くなったわけではなかった。それは子として当然であったし、父の調査したファイルの一冊一冊には、綿密かつ執念をも垣間見える調査は、金とは違う何かを追い求めているのは簡単に分かる。それに、ファイルの中には警察への操作協力も行っているものもあった。そのほとんどが、卜部哲二という警察官の依頼によって行われたものだった。

 自分の正義はまだ見つかっていない。しかし、父の正義は、少なくとも自分の目指すべき正義の道しるべになるものだと思っていた。そして、母と同じように父の正義を踏み躙った犯人を許すことは出来なかった。

 正一はまっすぐに遠くを見つめた。

 その先は闇か光か――。

 犯人への復讐心が正一の心の視界を曇らせる。


「母さん、父さんの事故の件、俺にもできることはないかな」

 母は一瞬たじろいだが、正一の目を見ると、「正一もあの人の子なのね」と、嘆息をついた。

「荒井正之は『渡し舟』と呼ばれる自殺斡旋業者と提携を結び、自殺志願者の身元確認や周囲の身辺まで調べる仕事を行っていた。大物芸能人から大御所の政治家といった比較的調査の難しいものを多く取り扱っていたそうよ。探偵としての情報収集や処理に秀でていた彼は、その界隈にとってはうってつけだったわけ。そこには自殺斡旋業者とは名ばかりの自殺に見せかけて殺人を画策する案件もあったらしいけど、所謂下請けの彼には伺い知ることも出来なかった。その血塗られた闇に興味をもったのも、探偵としての性だったのかもね。そこで彼は、一つの大きな失敗をし、その報復を受けてこの世を去った。これが私の調べたことの全てよ。詳しいことはあの資料に記されている。書斎も好きに使ってくれて構わないわ。きっとお父さんもそれを望んでいることだろうから」

 母から渡された資料には『渡し舟』の詳細が記されていた。確かに四つの基本構成を用いれば様々な事件を画策することができる。

「ありがとう。母さん」

 正一は深々と頭を下げた。

「必ず父さんの無念を晴らしてみせるから」

 そう言って部屋を出ようとすると、母から呼び止められた。

「正一」

「何、母さん」

「目指すべき正義を見誤ってはだめよ。復讐は正義ではない。悪なのだから」

「わかっているよ。母さん。復讐はしない。俺は警察官になって、もう一度この事件を追う。真実を知りたいだけだから。黒谷正一、男に二言はないよ」

 正一はそう言って今度こそ部屋を後にした。

 扉を閉めたとき、何故か正一の眼から涙が止めどなく溢れた。

 復讐は正義ではない――。

 母の言葉が、正一の胸を深く抉る。

「わかっているよ、母さん」

 自分に言い聞かせるように小さく呟く。

 母には何でもお見通しだった。だから母はその言葉を自分に投げ掛けたのだろう。


 でも、母さん――。

 もう止まることはできないんだ。

 父の正義は僕の目指すべき正義だ。烏滸がましい限りだが、父の正義を踏み躙る行為は僕の正義を踏み躙ったに等しい。そして、父の正義を取り戻すためには、僕は僕でいるわけにはいかない。

 黒谷正一として、復讐という悪行はしない。それをしてしまえば、自分も父の正義を踏みにじる行為になるからだ。

 しかし、黒谷正一としてではなければ……。


 正一は、一人の悪人として、復讐への舵をとる決断をした。

『渡し舟』の転換を用いて、黒谷正一改め、山代忠和の名を手にした彼は、警察官としての第一歩と復讐への第一歩を踏み出した。

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