五章:黒谷正一改め、山代忠和

1:父への想い

 黒谷正一の父親である黒谷正之は、正一が六歳の頃、交通事故で死んだ。幼くして父親を亡くした正一には父親がいた、という実感と感覚が欠如している。

 だが、それでも正一自身は何の不便さもなく、人並みの幸せを噛み締めながら暮らしていた。強がりでもなく、本心からそう思っていた。それは、実感がなくても、黒谷正之が父親であることには変わりないし、母親から聴く父の話は、悪を斬る正義のヒーローそのものだったからだ。

 正一は、黒谷正之が探偵として、難解な事件の数々の真実を白日のもとに晒してきた話を信じて疑わず、誇りと尊敬に満ち溢れていた。だから、自分もいずれは父のような大人になれたら、と想像のできない父親の顔を思い浮かべながら、夢を抱いた。

 正一の家には開かずの扉が一室だけあった。母曰く、父が生前書斎として活用していた部屋らしい。

 扉には鍵がかけられ、近づいてがちゃがちゃ、と音を立てて開けようと試みると、母が飛んできて正一を叱りつけた。元来、穏やかな母だったが、その時だけは本当に恐ろしかった。

 しかし、叱られれば叱られるほど、怒鳴られれば、怒鳴られるほど、扉の向こうに興味が惹かれた。

 扉の向こうには何が隠されているのだろう。

 どんな世界が広がっているのだろう。

 父が見てきた世界はどんなものなのだろう。

 正一が父のような人々を救う職業を目指すことは当然のことだったとも言える。

 高校に入学した正一は警察官を志し、勉学に励んだ。勉強が苦手だったため、人一倍も、十倍も勉強をすることで、必死に食らいついた。友人との付き合いもそこそこに、家にまっすぐ帰っては机に向かい、一心不乱に計算を、英単語を、歴史の年号を書きなぐった。

 母もそんな正一に気を遣い、勉強に集中しているときは、家を空けたり、食事の準備をしたりなど、集中力を切らさないように努めてくれた。

 ――そんな矢先のことだった。

 一息入れようと机から顔を上げた正一は、ぐっと背伸びをした。部屋を出ると人の気配はない。母は恐らく買い物だろう。元々集中力が人より低いことは重々理解していた。だからこそ、母もこうして無音の空間作りに協力してくれている。

 正一の部屋は二階に位置し、階段を降りてリビングに向かう。テーブルに置かれたコップとサンドイッチを手に取り、キッチンへ足を運ぶ。冷蔵庫からきんきんに冷えたジュースを取り出し、持っていたコップになみなみと注いだ。

 まずは一杯。一気にコップを傾け、喉にジュースの冷たい液体を流し込む。あり得ないことだが、流し込まれたジュースが脳内にも沁み込むようで気持ちが良かった。

 ふと視線をテーブルに戻すと、椅子の下に落ちている黒い物体が目に入った。手に取ると、それは鍵だった。

 家の鍵とは形が違う。そこで正一は、ピンときた。

 あそこの鍵か――?

 正一の興味が一気にあの部屋へ向けられる。母はいつ頃帰ってくるだろうか。少しくらいなら。少しくらいなら、覗いてもいいのでないか。俺だって幼かった子供の頃と比べれば、ずいぶんと大人になった。しっかりと父の勇姿を見届ける必要があるはずだ。そう言い聞かせ、正一は父の書斎の扉の前に立った。

 鍵を差し込み、ゆっくりと回す。がちゃり、と重い鉄の音が解錠を知らせた。ドアノブを回すと、扉が隙間を見せた。静かに部屋へ足を踏み入れると、書斎と呼ぶに相応しく、部屋の壁に沿って本棚が敷き詰められており、本の古びた臭いが鼻腔を刺激した。部屋の中央には重厚なデスクがどっしりと正一を見上げている。

 周囲を見回しても、母が定期的に掃除をしているからか、埃の量は少なかった。

 本棚には難しい書籍が並んでいる。その中にはファイリングされたものもあり、背表紙には探偵として調査した案件の名称が達筆な文字で綴られていた。一冊取り出して中身を読む。荒井探偵事務所と銘打たれ、探偵としての偽名なのだろう、文責には荒井正之と記述されていた。そこには薄汚れた人間関係の生々しい事実が書き連ねられていた。他のファイルにも大御所政治家の不正献金や、大手企業の脱税記録。依頼された相手の素行調査から生活習慣の時間帯調査など、正一が思い描いていた父の姿からは想像もつかない情報が正一の目に飛び込んできた。

 父は難事件の数々をいくつも解決し、正義のヒーローだった――そう思っていた。思い込んでいた。そう聞かされていたからだ。

 しかし、事実は違った。父は社会の闇に生き、陽の下で大手を振るう人間たちから金を巻き上げていた。

 正義のヒーローとは名ばかりの仮初めの姿だった。正一は積み上げてきた父親のイメージが脆くも崩れ去った。しかし、それはあくまでもイメージであって、父への想いは何一つ変わらなかった。

 デスクの椅子に座り、父が見ていたであろう視界を目に焼き付ける。デスクの下部には引き出しが備えられており、ぐっと引き出してみると、一冊のファイルが保管されていた。本棚に並べられているものと同じものである。

 しかし、どのファイルにも記述されていた荒井探偵事務所と荒井正之の名はなかった。

 それもそのはずだった。

 このファイルに記されている事項は父である荒井正之が調査することは不可能なものだったからだ。

 一つ。調査対象の一人に荒井正之本人が携わっていること。

 一つ。調査開始期間前に荒井正之が死んでいること。

 そう。これは荒井正之――黒谷正之の交通事故が殺人事件である可能性を調査した報告書である。

 何故この調査資料が亡き父の書斎であるこの部屋にあるのか。答えはまるで簡単だった。

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