9:荒井正之
翌日卜部と山代は、但馬美代子へ連絡を取り、指定された喫茶店へ向かった。
喫茶店の扉を開けると、但馬美代子はもう席についていた。全身を灰色の服装で覆い、哀愁がどことなく漂っているが、卜部らを見つけた時の視線はまっすくで淀みがなかった。それは強がりなのか、真実が伝えられる喜びを表しているのかは定かではない。
「はじめまして、卜部と申します。よろしくお願いします」
卜部が代表して挨拶を交わし、簡単な雑談の後、但馬善吉の事件についての聞き込みに入った。
但馬美代子へ話を聞いた二人は、二手に別れ、捜査を開始した。
山代には『渡し舟』のサイトのアクセス解析と過去の自殺事件の中で、相澤恭香の関係者で不審な自殺をした人物がいないかの調査を頼んだ。
昨日からやる気十分の山代は、「わかりました。頑張ります」と、でかい体格に似合ったたくましい声で胸を叩く。
山代と別れた卜部は但馬善吉の事件を詳しく調べることにした。但馬善吉の事件当時は担当ではなかったので、詳しくは知らなかったからだ。
署に戻り調書に目を通す。
但馬善吉は、不倫関係にあった相澤照美を殺害後、ビルの屋上から飛び降り、自殺した。よくある痴情の縺れというものだろうか。しかし、その不倫の関係も、二十年ほど前にまで遡る話だ。その関係を清算するには些か遅すぎる。調書によれば、相澤照美は数年前に離婚をしており、父親側に娘――相澤恭香は引き取られた。そこから察することができるのは相澤照美の怨恨だろうか。おそらく彼女の方が先に殺意を抱いた。そして、その意のままに実行に移す。しかし、それが失敗に終わったためにこの結果になったということだ。
卜部も調書の通りの印象を受けた。しかし、考えるべきは事故の内容が記された書面ではない。この事件に相澤恭香がまたしても関わっているということ。そして、この事件の一年後に、相澤恭香が自殺をしているということ。
相澤恭香の自殺事件から始まったとされるこの事件は、その考え方自体が間違っていた。あの事件が初めの事件ではなかったのだ。
時系列に並べれば、但馬善吉と相澤照美の死からほぼ一年の間隔で、相澤恭香がストーカーに悩まされて自殺をし、その犯人として三田優が自殺をした。これが現状だ。もしかすれば、まだ始まりの事件はもっと前に起きているのかもしれない。
それは山代の調査で自ずとわかってくることだろう。
まずは、今の時点で始まりとされる但馬善吉の事件の全貌を明らかにするべきだ。
卜部は両手を上げ、ぐっと背筋を伸ばした。はあ、と息が漏れる。家に帰っても疲れからかそのまま床やソファで二、三時間程度寝ているツケが回ってきているな、とひしひしと感じる。その時、定年、という言葉が脳裏を掠めた。定年を迎えればそれから先はふかふかのベッドに横たわり、ぐっすり眠ることができるのだろうか。しかし、平然と人が死ぬこの世の中において、民の命を守るべき警察が守れなかった命は、これから先も安らかに眠ることはもうできないのだ。自分が警察官として職務を行使している以上、この罪悪感が頭の中で鎮座し、離れない。定年のカウントダウンが始まってから、ずっとこの調子だった。定年を迎えたとき、自分が警察官でなくなったとき、何者になるのだろうか。そんな不安が胸を締め付ける。
そんな時、胸ポケットの携帯が鳴った。画面に写った番号は知らないものだった。通話ボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし」
「もしもし、卜部さんの電話でよろしいでしょうか」
声の主は但馬美代子だった。まっすぐな芯のある声が、卜部の耳に優しく触れる。
卜部は先刻、但馬美代子から話を聞いた際に、自身の名刺を渡しておいた。秋永のように、後程思い出すケースがあると見込んでの策だったが、功を奏したようだ。
「何かありましたか」
「すいません、話終わってすぐに」
但馬美代子の謝っている姿が目に浮かぶ。
「それは気にしなくて大丈夫ですよ。いつでも連絡をいただけるように、この名刺をお渡ししたわけですから」
「ありがとうございます。それで少しお話をしたいことがあるんですが」
「はい。そちらに伺いましょうか?」
時刻は十六時を過ぎたところだ。
「喫茶店など場所を指定していただければ向かいますが」
「あ、いえ、外もあれなので、家に来ていただけると助かります」
「わかりました。今からすぐに向かわせていただきます」
卜部はすぐに支度をし、但馬美代子の自宅へと車を向かわせる。
但馬美代子の自宅には、三十分ほどで着いた。息子との二人暮らしには充分すぎる大きさの一軒家だった。玄関からは庭が覗けるが、手入れは行き届いていないのか雑草は伸び、花は枯れている。
呼び鈴を鳴らすと、但馬美代子が玄関の扉から顔をだした。
「わざわざすいません」
声と表情に若干の強張りが感じられた。
「構いませんよ」
深々と頭を下げる但馬美代子を制し、連絡を寄越したことに対する感謝を述べた。
「早速、お話を伺いたいのですが」
「はい、どうぞ中へ」
玄関の扉を大きく開け、但馬美代子は右手を部屋へ伸ばす。部屋は比較的綺麗にされており、生活感があった。
「お掃除大変でしょう」
世間話をしながら、但馬美代子の緊張を解こうと試みる。
「そうですね、掃除は好きなんですが、いかんせん外にはまではなかなか」
庭先の伸びきった雑草を指しているのか、但馬美代子は恥ずかしそうに笑った。
「それで、お話ししたいというのは」
「はい、ちょっとお待ちください」
ダイニングに通された卜部は出されたコーヒーを啜りながら、辺りを見回す。テレビの隣に設置されている棚の上には、若い頃の但馬善吉との写真が置かれていた。写真の中の但馬善吉は、但馬美代子の肩を手に取り、快活な笑顔を卜部に向けている。彫りが深く、色黒で体格がいい彼の表情からは、不倫をするような破綻した関係にはとても見えない。
「結婚してすぐは、子供ができなくても、特に気にはしていなかったんですよ」
年季の入った茶色い封筒を手にした但馬美代子は、恥ずかしそうな表情を浮かべながら、呟くように言った。
「初めこそ、『何でだろうね』、『こればっかりはタイミングだからね』と励まし合ってきたものです。でも、それがやはり長く続くと、子供の待ち遠しさがだんだんと不安へと移り変わっていくのが善吉さんの表情からも見てとれました。私は生来、楽観的な性格だったので、善吉さんと二人でいれれば……くらいの気持ちで気長に待っていたんです。だけど、善吉さんは違いました。私が思っている以上に、感じている以上に、善吉さんは苦しんでいたのです。その当時は私にはわかるべくもなかった。だから少しでも気を楽にしてもらいたくて、あの人にとって一番言ってはいけないことを簡単に、考えなしに言ってしまった。それからです。彼が変わり始めたのは」
但馬美代子は、窓の外を眺めながら静かに語る。
「浮気の気配――とでもいうんでしょうか。流石に私でもわかりましたよ。でも証拠もないし、疑って調べる、というのも彼を裏切るみたいで絶対にしたくなかった。それに、不倫や浮気なんて縁の無い話――そんな風にも思っていました。でもそんな甘い人生はないんですよね。次第に善吉さんとは、会話が減っていきました。それが一番辛かったです。私が話しかけても、『ああ』とか『うん』とかしか返ってこない。それでも浮気をしているとはやっぱり信じられなかった。それが壊れたのが、ある一通の封筒が家に送られてきたためです」
持っていた茶色い封筒を卜部の前に差し出す。
卜部は封筒から中身を取り出した。中には『荒井探偵事務所』と銘打たれた調査資料が同封されていた。調査資料は何度も見返したことが一目でわかるほど、中央の端は茶黒く滲み、シワが寄っている。更に写真も同封されており、但馬善吉と但馬美代子ではない女が腕を組んで歩いている画面が切り取られていた。
これが、おそらく相澤照美なのだろう。聞かずとも、但馬美代子の表情を見ればわかる。
「この、荒井探偵事務所というのは?」
但馬美代子は首を横に振った。
「わかりません。何もお願いしたわけではないのに、突然これが送られてきました」
「そうですか」
卜部はくまなく資料を確認すると、一枚の名刺が入っていた。そこには、『荒井正之』と印字されており、この名を見て、卜部は一つの事件を思い出した。
「刑事さんは、この人を知っているのですか」
「まだ確証はありませんが、おそらく。でも……」
卜部の表情が曇る。
「彼から話を聞くことはもう叶いませんね」
すいません、と頭を下げる卜部に、但馬美代子は何故ですか、と聞いた
「荒井正之は――もうこの世にはいないんです」
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