間章:卜部哲二

糸口

 相澤恭香の恋人である高崎陽翔の所在をようやく突き止めたと思ったその矢先。チャイムを鳴らした扉から出てきた男の顔は、私の持っていた情報とはかけ離れた様相だった。

 着ているスウェットは首元が縒れて伸びきり、毛玉が大量にまとわり付いている。黒ずんだ染みが何日も洗っていないことは容易に想像できた。顔には油が浮き、不精髭をたくわえ、むくみからかぱんぱんに腫れている。小綺麗にすれば、もっとましな男になるはずなのに、と口から漏れるのをグッと堪えた。

 男は唾を撒き散らしながら、「何なんですか?」と突っかかってくる。人とのコミュニケーションが苦手な人によく見られる行為だ。私は警察手帳を見せ、相手の出方を窺う。大抵の人間はこの手帳一つで素直に話を聞いてくれる便利な道具だ。男も例外ではなく、「ああ、そうですか」と途端におとなしくなった。

「警察が僕に何の用なんですか」

 おとなしくはなったが、不信感はまだ拭えていないようだ。剣のある言い方でこちらを牽制する。

「実はですね」

 私は相澤恭香の自殺事件について、情報を探している旨を伝えた。相澤恭香の自殺は一年前にニュースでも騒ぎになっていたため、引きこもっている男でも「ああ、あの」とすぐに思い出せたようだ。

「でも、最近自殺に追い込んだストーカーも自殺したんじゃなかったですか?」

「そうなんです。よくご存じですね」

「ご存じで、ってニュースでもやってたじゃないですか」

「ああ、すいません。今時はいろんな場所から情報が入ってくる時代ですね。私たち警察も情報が漏れないようにするのは本当に一苦労です。そして大抵の情報がいとも容易く外へ流れ出る。困った時代が来たもんです」

「はあ」

 男は気の抜けた返事をした。

「そうなんですか。でも僕はあまり外を出歩かないので、全くお力になれませんね」

「じゃあ、やっぱり我々の勘違いなわけだ」

 意味深な私の発言は男の興味をひいたようだ。

「どういうことですか?」

「あなたのお名前……伺ってもよろしいですか?」

「高崎……陽翔ですけど」

「いやあ、実はね。まあ警察としても事後処理というのがあって、事実調査をしなければいけないんですよ。そのなかで、実は今行方を追っている恋人こそが、あなたと同姓同名の方なんですよね」

「僕の名前?」

 ぽかんと呆ける男――高崎陽翔。

「失礼ですが、本当に高崎陽翔さんですか?」

 一歩下がり、玄関のネームプレートを確認するが、名前は記されていない。もしかしたら私の勘違いかもしれなかった。大家にも確認をとったが、聞き間違いかもしれない。

「ああ、なるほど」

 男は合点がいったように、頷いてみせた。

「多分なんですけど」

「多分?」

「高崎陽翔は僕で間違いないです。だけど」

 男は勿体ぶった口調で、こちらを焦らす。

「刑事さんが言っている高崎って人は、前の高崎陽翔であって、今の高崎陽翔ではないですよ」

「じゃあ、あなたは一体誰なんですか?」

 男は一瞬間を空ける。

「本名ですか? 神倉……蒼汰です。まあ、もう死んでしまいましたけどね」

 私は目の前で二人の名を語る男の言葉が見知らぬ国の言語のように聞こえ、理解に苦しんだ。

「どういうことですか?」

 辛うじて発した言葉は何度も間抜けな問いだった。

 しかもその名は二つとも自分が追っている名とも合致している。血眼になって探した高崎陽翔から漏れでた、もう一人の男の名前。これはもしかしたらチャンスかもしれない。簡単に消える小さな火種だが、私がずっと探し続けている男の落とした千載一遇の証拠であることは間違いない。この火は絶対に消してはならない。それはそいつまで繋ぐ道を照らす灯台なのだから。

 今思えば、ここまで長い道程だった。私は溜め息を吐きながら、高崎陽翔改め、神倉蒼汰へ問いかける質問を探しながら、これまでの苦難と葛藤に想いを馳せる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る