4:接触

 日はだいぶ傾き、白く突き刺すような光は赤黒い妖艶な光へと変色している。雲が沈む太陽を時折覆うが、それを嫌がるかのように、すぐに顔を出す。その際にこぼれた日射しがゴッドブルーの目に刺さって痛い。

 窓際に座ったのは間違いだったか、と少し後悔した。しかし、奥の端の席は全て埋まっており、それなら、と選んだ席である。それに万が一のことを考えると、扉にそれとなく近い席を選んでおきたい、という保身もあった。


――死んでもらえますか?


『ダイ』の言葉が脳裏で何度もリピート再生される。彼の声はもちろん聞いたことがないが、低くて野太い声に変換された言葉は恐怖を殊更に煽っている。

 時刻は午後の五時を回ろうとしている。『ダイ』は、あの後、時間と場所を指定し、そこで一度会いましょう、と提案した。指定した時間は午後五時。場所は今、ここに座っている喫茶店だった。店内は十五席ほど、ゴッドブルーを含めると、六席ほどが埋まっていた。スピーカーからはジャズが流れており、ミュートを付けたトランペットの音色が外の喧騒を遮断し、ジャジーな心地よい空間を演出している。

 カウンターの奥には手挽きのミルが備えられており、頼んだコーヒーからは豆の荘厳な香りが鼻腔を刺激した。

 優雅な一時を楽しんでいると、扉が開き、一人の男が顔を出した。

 全てを飲み込んでしまいそうな、純度の高い黒。靴からパンツ、ジャケットまで全てが統一されていた。髪はパーマをあてているのか、寝癖が爆発しているのか、わからないほどに髪に皺が寄っていた。パーマにしてはただただ品がなく、寝癖にしてはただただ寝過ぎ、といった髪形。それを補うかのような端正な顔立ち。髭はきれいに整えられており、髪と違い、清潔感を与える。年齢の判別が難しく、三十代とも二十代ともとれる。その代わり、従うか従わせるかでいえば、明らかに従わせる側の人間であることは、ゴッドブルーの直感で理解できた。

 店内の雰囲気に対し、異質である男は、辺りを一瞥すると、ゴッドブルーの所へつかつかと歩を進める。靴は革靴で底板がフローリングにかつかつと音を立てる。それだけで、ゴッドブルーは身震いをした。恐怖を煽る靴音はゴッドブルーの心臓とマッチングするように速い。

「はじめまして。『ゴッドブルー』さん……ですよね?」

 身に纏う衣類の色彩に反して、快活な声で男は笑顔を見せた。

「はじめまして。……『ダイ』さん……でしょうか?」

「いやあ、良かった。ようやく会えましたね。僕は会いたかったんですよ。あのゲームを一緒にやって楽しかったのは『ゴッドブルー』さんが初めてでしたから」

 ゴッドブルーと同じコーヒーを頼み、向かいの席に座った。机の上に手を置いたとき、左腕から腕時計がちらりと顔を見せる。誰もが聞いたことのある高級ブランドだった。少し前のゴッドブルーであれば、普通に買えるそれは、もう手の届かないところまで高く遠くに飛んでいってしまった。思わず自分の左腕を見る。数千円で買える安っぽい腕時計をはめる自分が、真正面の男とは明らかに不釣り合いで恥ずかしくなった。

「あの……。すいません。本題に入りませんか」

 ネットゲームの話に熱中していた男は元々の本題をすっかり忘れていたようで、そうだそうだ、と照れ臭そうに笑った。

「その前に、煙草って吸っても大丈夫ですか」

 胸ポケットから煙草とライターを取り出し、物欲しそうな子供のような視線をゴッドブルーに向けた。ゴッドブルー自身は両親が共に吸う家庭で育ったため、煙草を吸っても気にならない。テーブルには灰皿もあるので、店内も禁煙でないことは確認できる。『ダイ』も煙草が吸えて落ち着いて話せる場所として、この喫茶店を選んだのだろう。

 ゴッドブルーは何も言わず、灰皿を男の前へ滑らせた。ありがとう、と頭を下げた男は待っていましたと言わんばかりに煙草に火をつけた。

「いやあ、最近はやれ禁煙だの、やれ分煙だの、喫煙者には住みづらい街になったもんですね。『ゴッドブルー』さんは、煙草は吸わないんですか?」

「両親は吸っていましたが、僕は吸わないですね」

 両親へのささやかな抵抗だったからとは決して口にしない。

 男はそうですか、と興味を無くしたのか、煙草の煙の行き先を辿っている。

「まずは自己紹介をしておきましょうか」

 男はようやく本題を思い出したようで、煙草を咥えながら、ゴッドブルーの前で姿勢を正す。

「でも、基本はハンドルネームで呼びあった方が良いんですよね」

 そうですね、とゴッドブルーは頭を下げた。今更本名で呼びあうのも、気が引ける。それに、この男はあくまでもゴッドブルーにとっては『ダイ』以外の何者でもない。そうすることで、電脳空間の中に逃げ込んでいけるかのような錯覚に浸っていたい。男を本名で呼んでしまえば、一気に現実に引き戻されそうな気がしたのだ。

「まあ、僕は構いませんよ。『ゴッドブルー』さん。確かに特徴のある名前で覚えやすいし」

 男は手をひらひらと振る。

「あらためまして、『ダイ』です。あなたに死んでもらいに来ました。どうぞよろしくお願いします」

 冗談ともつかない言葉を口にしながら、男ははにかむように笑った。軽薄な笑い方だが、決して不快感は無かった。

「よろしくお願いします。『ゴッドブルー』です」

「じゃあ、挨拶も終わったので本題に入りましょう」

 男――『ダイ』は、運ばれてきたコーヒーを一口啜る。

「あの、僕って本当に死ぬんですか? というより、殺されるんですか」

「まあ、簡単に言ってしまえばそうですね。殺されるかどうかは別として死ぬことには変わりませんね。そして正確に述べるのであれば、戸籍上の上で死んでもらう、ということです」

「戸籍上?」

「『ゴッドブルー』さんは、実際に死ぬ必要は無いんです。戸籍の上で貴方――『ゴッドブルー』さんが死んだことにさえなれば、今抱えている借金は全てチャラにすることができます。借金苦からの解放です。だって死んだ人にお金は回収できませんよね。死人に口なし、ならぬ死人に金なしです」

 顔に笑みを時折浮かべながら、『ダイ』は突拍子もないことを語る。しかし、彼の言葉の端々に嘘は全く感じられないから不思議だ。

「そんなこと可能なんですか」

 ゴッドブルーは単刀直入に問う。嘘は感じられなくとも、現実的ではなく、荒唐無稽もいいところだ。

 しかし、『ダイ』は、可能ですよ、と簡単に返した。

「どの時代でもよくある話じゃないですか。誰かの代わりに死んで、当人は別姓で新たな人生を送る。ドラマや歴史の史実でも聞いたことあるでしょう。それに行方不明の人間も身元不明の死体も、至るところに転がっているものなんです。それをちょっと使えば昔で言ったところの影武者が完成です」

「原理はわかりますが、現実的ではないし、やはり無理がありますよ」

 食い下がるつもりは無かったが、確証が無い以上、鵜呑みも出来ない。

「現実的?」

『ダイ』は初めて怪訝な表情を見せた。

「現実的って何でしょう。普通のこと? それでは普通とは何でしょう。この日本だけで、年間三万人もの人が自ら命を絶っている。所謂自殺、というやつです。更には殺人であったり、交通事故だったりもそうですね。他には災害やただの老衰もあります。それこそ荒唐無稽な数の命が、今この瞬間も、容易く消えてなくなっている。これが現実的だと思えます? 自殺といいながら、実は他殺だった。交通事故に見せかけた殺人に、逆に殺人に見せかけた自殺もありますね。それが現実に起きていて、何故死んだように見せかけることが、現実的ではないと思えるのでしょう? むしろ自然な現象なんです。空気があるから息を吸えるように、簡単に人が死ぬから、死んだように見せることができるんです」

 真に迫る勢いで『ダイ』は畳み掛けた。言葉の波飛沫がゴッドブルーの心を射貫くように飛びかかる。

「もちろん仰っていることはわかります。言葉の上での概念では決して矛盾もしていない。僕が言いたいのは、その当事者に僕みたいなのがなれるのか、ということです」

 言い訳をする子供のように、少し言葉をこもらせながら、早口で述べる。『ダイ』はなるほど、と言って頭を下げた。髪の毛がふわっと靡き、空気にのって香水の香りが鼻の奥をくすぐる。

「なるほど。そういうことですか。はやとちりをしてしまいました。僕の悪い癖なんです。すぐに相手との共通点を見つけてしまう。決して悪気はないんですよ。僕はね、『ゴッドブルー』さんは僕と同じ感覚の持ち主だと会う前から確信していたので、少しでも違うところがあると、ショックなんですよね。だからこうして会いに来たわけですし。あなたを助けに来たんです」

 はあ、と気の抜けた返事をする。男の言動一つ一つがゴッドブルーを困らせるためのミッションのようにも思えた。応対ひとつとっても、『ダイ』は常にゴッドブルーから望む回答を求めている。

 以前にも似たような感覚があったことを思い出す。そうだ、両親から受けてきた曲がった愛情のそれと似ている。まだ借金取りの方が分かりやすくて好感が持てる。彼らは従えの命令形だが、『ダイ』や両親などは従ってくれると信じているから、余計に質が悪い。彼らに理屈は通用せず、向こうの常識が無条件でこちらの枠に当て嵌められる。

 結局、ここに戻ってくるんだな、とゴッドブルーは笑ってしまいたいほどに呆れた。自分は従われ役のエキスパートなのだ。運命に逆らうことなど、凡人には叶わない夢物語だった。

「僕はどうしたらいいですか」

 運命を受け入れてしまえば、あとは単純な話だ。『ダイ』の語る内容に耳を傾け、『ダイ』の望む回答を口にする。何てことはない。ゴッドブルーにとって、それは決して難しいことではなかった。彼は生まれて三十年近く続けてきたルーティンのようなものだから。願掛けも何も必要ない、もしかしたら呼吸や排泄に近い生理現象のように、自然で淀みのない応対をゴッドブルーは展開できる自信があった。

 今この場で、そのような対応が出来るように育ててくれた両親に感謝に近い感情も溢れる。

「そう言うと思ってましたよ」

『ダイ』は気分を良くしたらしく、話を続ける。

「とは言っても、話はほぼ終わってるんですけどね。貴方は死んで、新しい人生を手に入れる。ただそれだけです」

「新しい人生はちゃんと人として生活できるんですか?」

「もちろんです。そうじゃなきゃ、生まれ変わることはできないでしょう。借金地獄から晴れて健全な生活に戻ることが出来ます」

 自信たっぷりに答える『ダイ』に対し、ゴッドブルーは少し間をあけた。腕を組み、思案するポーズを作る。『ダイ』は黙ってゴッドブルーを見つめている。やはり、実感は湧かない。ただ、地道に働いて金を返すには、借金が溜まりすぎた。この現状を変えるためには、ゴッドブルーに従うしかないのが実情である。その先に何が待っていようとも、だ。

「わかりました。『ダイ』さん、よろしくお願いします」

 机を覗きこむように、深々と頭を下げる。『ダイ』は、何を思って自分の頭を眺めているのだろうか。ゴッドブルーはそう考えながら、テーブルの木目の数を数えていた。

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