8:回想

「あなた、こんなのが届いていたんだけど」

 妻の美代子が一通の封筒を但馬の前に差し出したのは、結婚して五年目の冬にまで遡る。封筒には『荒井探偵事務所』と記されたシールが貼られている。但馬は黙って封筒の中身を取り出した。

 そこには、調査報告書と銘打たれた冊子と、複数枚にかけて綴られた便箋が入っていた。

「これって、どういうことかしら」

 白々しい。俺を嵌めて、貶めて、金を毟り取ろうって腹なのだろう。

 結婚して五年。夫婦関係は、一年前に破綻していた。それでも離婚しなかったのは、世間体やお互いのプライドが邪魔をしていたからだが、それもまた時間の問題だった。

 冊子には但馬と美代子ではない女性が腕を組んで歩いている写真を添えて、その時の二人の動向が事細かに記されていた。

「お前……こんなことまでして、何が楽しいんだ」

 但馬は冊子類を美代子に投げつける。美代子はそれを避けようともせず、冊子類はばさばさと音をたてて床に散らばった。

「こんな人の性事情を調査する紙を準備する暇があるなら、離婚届をもってこればいいだろう」

「待って、あなた。本当にこれは私じゃないの。確かにこれを調べて得をするのは私だと、あなたは決めつけるだろうけど、私は元々離婚する気がないのよ。あなただって離婚しないのは、私と同じ気持ちだからだと信じてる」

「一緒の気持ち?」

 但馬は机を思いっきり叩いた。ばん、と揺れたテーブルに置かれた花瓶が振動に負けて床へ落下した。

「一緒の気持ちだとするなら、今すぐここに離婚届を持って来い。すぐに判でもなんでも押してやる。お前が俺と同じ気持ちならな」

 なぜ、こうなってしまったのだろう。

 全ての元凶はあの病院での検査からだった。

 美代子と但馬は子供が欲しかった。二人とも子供好きで、特に但馬は一人っ子だったこともあり、兄弟姉妹の関係性に執着に近いほどの憧れを抱いていた。二十四歳で結婚した若き夫婦は、子供は三人欲しいね、名前は何て付けようかな、と輝く未来を語り合っていた。それでも、二人の間に生命は宿らず、三年の月日が流れた。

 初めは、まだ次があるさ、と慰めあい、愛を交わし続けた。親戚からも、まだ孫の顔は見れないのか、と言われることこそあれど、こればっかりはタイミングだから、と励まされることもあった。

 そうして四年。二人にも良からぬ疑念が浮かび始める。

 ――不妊。

 どちらかの身体が何かおかしいのではないか。子供を産めない身体なのか。そんな不安が二人の胸を抉る。

 美代子は、最寄りは産婦人科で検診を受けた。しかし、結果は問題なし。医者からは、「心配ならもっと大きい病院での診てもらいなさい」と紹介状を書いてもらった。

 次の病院では但馬も検査を受け、結果を待つ。

 そして答えが出た。美代子から聞かされた言葉は全く但馬の脳にまで届かなかった。辛うじて認識できたのは、美代子は子供ができにくい身体である、ということだった。できにくいだけで、できないわけではない。だから諦めないで欲しい。医者は美代子にそう告げたらしい。ただそれを素直に聞き入れ、理解し、納得できる器を用意するには、但馬には時間がかかりすぎた。

 子供が欲しくて結婚したのか。美代子を愛しているから結婚したのではないのか。自問自答を繰り返しても結論は出なかった。但馬はもちろん美代子を愛していた。心の底から。そして、美代子の子供が欲しかった。美代子と自分の愛で育んだ子供が欲しかった。そこに答えを見いだすのは容易ではない。

「私はあなたと二人で一緒にいられれば、それでもいいの。子供が出来づらいと聞いたときは、それは確かにショックだったけれども、だからと言って私たちの関係性は変わらないでしょう。だって、私は善吉さんが好きだから結婚したんだもの」

 美代子なりに但馬を励まそうと精一杯の愛情を込めて、気持ちを伝えた。しかし、但馬はそんな気持ちを踏みにじりたくなる。

 ――お前は俺との子供が欲しくなかったんだな。

 そんな言葉を但馬はぎゅっと呑み込んだ。そんなことはないと但馬自身もわかっていた。愛しているのに、愛されているのも知っているのに。但馬は何もかもが信じられなかった。但馬が否定すればするだけ、美代子も同じ気持ちになることも知っているはずなのに。

「すまん。時間をくれ。落ち着いて考えたい」

 頭を下げ、言葉を絞り出すのがやっとだった。

「わかりました。いつまでも待ちます。ただ、別居はしません。離婚をする気もありません。私の気持ちは変わりませんから。それでもあなたが、子供が欲しいと言うのなら、その時は考えます」

 美代子は凛とした姿勢で言葉を発するが、目尻には涙が溜まっていた。

 それからしばらくして、但馬は営業先の事務をしていた相澤照美と出会った。元々大学時代の同級生という間柄だったため、再会した、という表現が正しい。初めは、同級生の誼として話をしていたが、大学時代はゼミやサークルなど一緒の時間を過ごすことが多かった二人は、仕事の関係上、会合を重ねるうちに、自然と会話は弾み、愛を重ねあう中へと変貌を遂げた。躊躇する場面はいくつもあった。美代子への罪悪感。相澤照美が婚約中であったこと。彼女もまたマリッジブルーで、結婚そのものに不安を抱いていること。

 但馬はこの関係を相澤照美が結婚するまでと決めていた。それは相澤照美の提案でもあり、自らの希望でもあった。二人とも互いの生活を壊すつもりはなかった。何より、行為を重ねれば重ねるほどに自分の惨めさに、そして、誰を愛しているのか気付かされたからだ。それでも、二人とも互いの相手の気持ちを踏みにじる行為であることはわかっていても、どれだけ自分勝手な行為だとわかっていても、互いの言い知れぬ不安を拭い去るためには手段を選ぶ余裕が二人にはなかった。

 そして、その結果がこの様である。

 これ以上の会話は無駄だと決め込み、自分の部屋に逃げ込もうと、リビングを後にするため、立ち上がった。

「待って、あなた。私はあなたが浮気をしていることを責めたいんじゃないの。あなたの素性を誰かが調べているのが怖くて仕方ないの。浮気だって本当は悲しいことだけど……」

 美代子の言葉には確かに嘘は感じられず、但馬を非難しているというよりは、どうしたらいいのかわからず、相談を持ちかける生徒のような口調だった。

「……本当に何も知らないのか?」

「私は待つって言ったでしょ。言った以上、とことん待つわよ。それはあなたが一番良く知っているくせに」

「だが、もしお前が何も知らなかったとしても、浮気をしたのは事実だ」

「それは本当に悲しいことよ。絶対に許せるものではないわ。だけど、あなたが私のもとから離れることが何よりも怖いの。あなたが一番に欲しがっていた子供はできないかもしれない。私だって欲しい! あなたとの子供が、善吉さんとの子供が! でも、それよりもあなたのそばから離れることが何よりも嫌なの。だって、私は但馬善吉という男を、愛しているのだもの!」

 但馬は胸をすっと優しく切りつける美代子の言葉の刃に、涙が止まらない。

 そうだ。私が本当に聞きたかった言葉。想い。自分の想いとイコールであることに気づいた時、自分の愚かさに気付かされた。

「なのに、あなたは何も気付いてくれない。言葉は相手に伝える手段の一つでもあるけれど、一つなだけであって全てではないでしょう。夫婦にはそれ以外にもここがあるはずじゃないの!」

 美代子は堰を切って言葉が溢れ、但馬の胸を叩きながら泣きじゃくった。

 本当にすまない。俺も美代子を愛している。誰よりも何よりも――。

 本当に伝えたい言葉は口にするのが難しいことに初めて気付かされた。

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